うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

時代とともに、競馬と生きる

2021年の中山グランドジャンプを迎えようとしている。
大好きな中山競馬場に足を踏み入れることなく。
欲してやまないプラチナチケットは用意されなかった。
なにより社会情勢もかんがみると、大阪から遠路はるばる上京することもはばかられる。
昨年度の初頭、世界が大きく変わった。
多くのひとが自由を奪われ、行動を制限され、未知なる不安に抑圧される息苦しさを抱えながら日々を生きることとなった。
コロナ禍だ。

あおりを受けたのは競馬も同じ。
まず競馬場からファンの姿が消えた。
数ヶ月ものあいだ、歓声なきレースがつづいた。
今は指定席の抽選という形で徐々に客足は戻りつつあるが、G1ともなれば何万人もの観客が一堂に会する場所である。なんとも寂しい現状だ。
人数制限をかけたうえでの抽選販売なので、行きたい日に必ず行けるとも限らない。
まず入場するところからギャンブルになってしまったというわけだ。

わたしたちは、競馬場へ通うという愛すべき日常をとりあげられた。
好きなものに触れられない。そばに寄って感じられない。
ネットやテレビといった環境があればどこででも参加できる体制が整ってはいるけれど。
太陽の下で、草の匂いをかぎ、風を感じながら、人馬の駆ける音を聴き、歓声のなか胸を熱くときめかせる喜びを一度でも味わえば、やはりあの場所へ戻りたいと願わずにはいられない。

思い返せばこれはまでは、「それでも競馬はずっとあったんだから、弱音を吐いちゃいけない」と必死に言い聞かせながら、自分自身の苦しみにふたをしてきたように感じる。
誰もが同じ苦しみを抱えるなか、つらいことをつらいと言うのが後ろめたくて、なんとなく押し黙ってごまかしているうちにいつしか喜びや悲しみに対して鈍感になっていた。いつのまにか情熱を見失いかけていた。
本当はもっと自分自身の思い感じる気持ちに正直でいてよかったんじゃないのか。
それは前を向き、「誰も何も悪くないんだ」と世界や人や自分を赦すことだ。
言葉を発することは、人とつながり、世界とつながること。
世界が美しいことは、競馬が教えてくれた。
たとえこの世界が病んでいても、人々が疲れはてていても、いつだって競馬はずっとありつづけてくれたのだ。
これを心の支えといわずして何と呼ぼう。

障害レースはよく人生にたとえられる。
越えるべき壁があり、登るべき山がある。
挫折を経て再出発をする舞台だ。
生きることも挑むことも、決して平坦ではない。
それは絶対王者とて同じことだった。
生きるために挑む人馬がいて、彼らに自らを重ね合わせるファンもいるだろう。私もその中のひとりだ。
敗戦も不調も乗り越えて、オジュウチョウサン前人未到の6連覇に挑む。
ともに戦う精鋭たちもまた、それぞれの立場で大舞台に挑む。
たとえ現地にいられなくても、せめて心だけは中山の大障害コースに想いを馳せていよう。
耳を澄ませばファンファーレがきこえてくるようだ。
無事を祈り、拍手を送ろう。それぞれの場所で。

できることを、できる場所で、できるだけ。
できないことも受け入れて赦していく。
今の時代に、競馬とともに生きるとは、こういうことなのかもしれない。