うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

会いに行かない愛のおはなし

5月16日のヴィクトリアマイルを観に行くことをあきらめました。
一年前のあの日からずっと待ち望んでいたけれど。
サウンドキアラに会いたかった。彼女たちの輝くさまをそばで見つめていたかった。

べつに誰もわたしを責めなかっただろう。
だからわたしは想いを遂げてもよかったんだと思う。
もしも東京競馬場の門が開かれたとしたら、何が何でも行くと心に誓っていたんだから。
それでも一報をうけたときの喜びはじわじわと迷いへと変わっていった。
関東圏から最寄りの競馬場に入るのとはわけがちがう。
わたしの顔写真つき身分証明書には、大阪の住所が記されているのだから。
怖かった。いま上京するのが。
病気や非難をおそれているというよりも、わたしの尊敬する人たちはおそらくファンが愛ゆえにリスクを冒すことを望まないだろうな、と真っ先に思ったからだ。
そんなこと、まっっったく勝手な憶測にすぎないのですが。
人の気持ちを推しはかるなんておこがましいにもほどがあるのですが。
激重感情! ごめんなさいわかってます。
でも誰か何かを好きでいるって、たぶんこういうことだ。
阪神競馬場なら行ってた。が、ヴィクトリアマイルは例年どおり府中でおこなわれる。

というわけで、いくら本心で望んでいても、心から納得のいかないことはどうしてもできなかった。
陣営とはわたしがときどき一方的に書いている手紙以外に何ら関わりはなく、ひとりで行ってレースを観てパッと帰ってくるだけであれば…
でものちのち「あのとき応援にいきました!」と胸を張って言うことはできない。
いちばん伝えたいことを伝えたい相手に伝えられないのだ。
そんな矛盾を抱えていくことにたえられなかった。
わたしの信念をかけて応援している人馬に嘘はつけない。
後ろめたいことはできない。
黙っていなければならないことはしたくない。
自分で自分を赦せなくなってしまうから。
まっすぐに彼女たちを見つめられなくなってしまうから。

悔いのない選択を、とはいうけれど、迷いの生まれたところに悔いのない選択なんてないと思うのです。
どの決断ならより自分を赦せるか、しかない。
わたしはリスクを負うことから逃げただけなのかもしれない。
そりゃあ想いを遂げるほうが美しかろう。気持ちよかろう。
でも、してしまったことを悔やみつづけるよりかはいい。
自らを罰しつづけるよりかはいい。
愛するものたちに後ろめたい気持ちでいつづけるよりかは、ずっといい。

わたしはずっと後悔していくだろう。
サウンドキアラを想うたびに、府中へ行かなかった日をつい昨日のことのように思い出すだろう。
悔やんでも悔やみきれなくて、苦しくて苦しくて、それでも自分で選んだ道だから納得はしている。
べつにいいファンになろうとしているのでも、自粛の人を気取っているのでもない。
ただ、何を選んでもどのみち何かしら後悔はするし、行った道の先で行かなかった道のことも想うだろうし、べつにいつまでも悔やんだっていいじゃないかと思うのです。それが人生だから。
生きることは選択の連続で、どこへいってもしんどいとわかっている道のどれかを必ず選ばなければならないことの方がむしろ多い。
どんなに納得のいく選択をしたからといっても、心が傷つかないとも限らない。
悔やみながら、傷つきながら、少しずつ受け入れて進んでいくしかないのだ。
後悔するのは、懸命に生きているからだ。

会いに行く愛があるなら、会いに行かない愛もあっていい。
会いに行かない愛なんていったい誰に伝わるんだと思わんでもないし、存在としてはあってないようなものだろうけど。
わたしは誰かに何かを示すために彼女たちを愛しているわけじゃない。
だから自分が自分のしていることの意味と意義をちゃんとわかっていたらいいんだ、と腹が決まった次第です。

サウンドキアラ、どこで見ても、あなたは強く美しい!

 

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