うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

言葉やかたちにしなくても、心に愛を

誰か何かを好きな気持ちは必ず伝えなければならないし、形にしなければならないと思ってきた。
文章なり、つぶやきなり、写真で。
そうしなければ愛のないやつだと幻滅されてしまうとも思い込んでいた。
誰に? 仲間や友だち、フォロワーさんに。
それはわたしがツイッターをやっていて、たくさんの人とつながっているからだった。
わたしの好きの中に、他の誰か何かを抱え込んでいたから。ひとりで勝手に。

愛を表現し、人に伝えることは簡単だ。
逆に、愛が消えず心の中にありつづけていることを証明するのは難しい。
愛を語らなければ、もう好きではないのか、飽きてしまったのか、だからやめてしまうのかと思われるのが自然だろう。
でもそんな単純なことじゃないのだ。
愛と情熱は同じところからやってくるけれど、いつも同じくらい一緒にいるとはかぎらない。
たとえ情熱がさめても心にありつづける愛はあるし、その逆だってある。

この世界はあまりにも見える化しすぎてしまった。
人の心や気持ちなんて、目に見えないものなのに。
形にし伝えること、前向きなアクションこそがよしとされる価値観が浸透しすぎてしまったように感じる。
評価や反応がそっくりそのまま返ってくるようになったから。
つながりが数や形で可視化されるようになったから。
いや、ちがう。
ただわたしが、目に見えるものにとらわれるあまり、自分の心の声を聴けなくなってしまっていただけだ。

こんな見える化した世界の中でも、目には見えない愛があっていい。
誰にも伝えずに心の中で大切に秘めた想いもあっていい。
愛を誰かに認められなくてもいいし、必ずしもどこかのコミュニティに属していなくてもいい。
愛ゆえの行動によって何らかの成果をあげたり、形にして報告をする必要もない。
いつも仲間や友だちと同じ気持ちでいることは難しい。それぞれ事情や価値観の違う人間同士なんだから。
想いが重なったときはその奇跡を喜んで、ともにあればいいのだ。

何も言わないから何もないなんてことは、決してない。
誰かにとってないように見えたとしても、わたしの中にはずっと変わらずにあるのだから。
決めるのは自分自身。
わたしの気持ちは、ほかでもないわたしがちゃんと分かっていればいい。