うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

空を見てもひとり

ツイッターから黙って消えてから半月くらい経ったでしょうか。もうすでにうろおぼえ。
戻ってきたのは意欲、時間、心の余裕あたり。このへんは一般的によく言われていること。
失ったものもある。
友だち、というかフォロワーさんとの、目に見えるつながり。
おいしいものを食べたときや、見上げた空がきれいだったとき、「ああ、分かち合いたいなぁ」と思うひとたちがいた。
そういうひとたちと場所を失ったのは、少し淋しくはある。
今まさに思い感じたことをすぐつぶやけないというのは、誰かとシェアができないということで、シェアするというのは常に誰かの気配を感じながらいるということで。
それが嬉しかった。そして普通じゃなかった。わたしにとっては。

絆とは絆しだ。
目に見えるつながりとひきかえに、わたしはひとりの自由をとり戻した。
孤独とは言ひ換へりやあ自由 黙つて遠くへ行かう
という歌詞が大好きだ。獣ゆく細道の。
淋しさを感じるとき、このフレーズがいつも思い浮かぶ。
空を見上げても今はひとり。わたしにとっての普通に戻ったのだ。
だからひとりでブログを書く。
なんとなくつぶやいて軽く流していたことを掘り下げて文章にするのは楽しい。
言いたいことを納得いくまで語るとき、ひとは独りなんじゃないだろうか。
シェアしながらだと、誰か何かと混ざり合って溶けてしまう感覚があって、いつもうまくつぶやけなかった。
まあ向いてなかったということだろう。

ツイッターから消えることはアカウントの死かもしれないが、わたしは普通に生きている。見えなくなっただけで。
面識あるひととは競馬場でお互いに姿を見かけることもあると思うし、縁があればまた、という気持ちでいる。
とはいえ、なにげない分岐が今生の別れになるのかもしれない。
でもお互いに生きているのならそんなに淋しいことでもないと今は思う。
わたしはきっと多くを求めすぎて、いいひとになろうとして、うまくやろうとして、ひとりで重たくなってしまった。
だからもとの、ひとりの重さに戻ってやりなおしている。

空は目に見えるが、心やつながりは本来、目には見えない。
見えないものは見えないままで想っていよう。
見えなくても、心の中にあるのだから。

 

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