うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

ダイ大とマンキンと、平成と令和と

これが令和か。
わたしの青春がかえってきた。

…あれ、こんなんだったっけ?
リメイク、記憶がじわじわ書き換えられていく怖さがある。好きなものが磨きあげられる喜びとともに。
どちらも現代のアニメとしてブラッシュアップされてる。
平成版と違ってるのはあたりまえだ。
それはそう。まったく同じならやる意味がない。

まず、見やすくてわかりやすくなってる。ものすごく丁寧に噛み砕かれてる。原作と前作への解釈が深い。
でも悪い意味で隙がない。無駄がない。行間がない。遊びがない。
たとえば出雲を目指す竜とまん太の会話、サービスエリアと旅人の話なんかは案の定割愛された。
「(ダイがヒュンケルに)まるで子ども扱いだわ!」「ま…まあ実際ダイは子どもだけどよ…」「なにくだらないこと言ってんのよ! この非常時に…!!」みたいなコミカルなやりとりも極力カットされている。
はしょるとしたらそういうところからなんだろうけど、そういう応酬こそが漫画の肝だと思っているので、なんとか入れてほしかったなぁ、とかなんとか。
物語の進行に大きな影響のないものは、無駄で不必要なんだろうか。
そういえば今の人って無駄を必要以上に嫌うような。
無駄を楽しむのが趣味でエンタメって考えはもう古いのかな。
趣味もエンタメも有意義で高尚でなければならないのかな。なんか疲れるなぁ。お勉強みたいで。
そういや漫画やアニメをたしなむのを履修って言うなぁ最近。
もちろん、アニメだから尺の関係でシビアになるはわかる。泣く泣く削らなきゃならないものもあるだろう。
でも、だとしたら、そうまでして、やる意味あるのか?

かわりといっちゃなんだが、台詞にぜんぶが詰め込まれている。
そんなになにもかもキャラクターに説明させなくてもいいのに。画と音で見聞きしてるんだから。
(ただしバラン編の実況クロコダイン解説ヒュンケル、あれは原作どおりだ)
話数の縛りもあってか物語を消化することこそが目的になってるのかな。完結させることが第一になってる印象。
葉よ蓮よ、ダイよポップよ、そんなに焦ってどこへ行く?
最終回へか。そりゃそうか。勇者よいそげ、だもんな。

子どものころ、漫画やアニメ、ゲームでわからない言葉が出てきたら辞書を引いたり、親や学校の先生に訊いたりした。
そのくりかえしの中で理解を深めていった。物語がさらに面白くなった。
身近な大人との会話につながったり、実際の歴史を紐解いてみたりして、実世界も広がっていった。
今はさらに簡単に深くものを調べられる環境にあるから可能性は無限大だろう。
子どもって、わかってないようでわかってる。わかることができる。
だから作る人にはもっと受け手を信頼してほしい。
とは思うけど、きれいをよしとする今の世の中では難しいのかもしれない。
アニメがもはや子どもだけのものではなくなった今、あえて子どもへ向けて描くというのなら、そりゃ慎重にもなるか。
時代にあわせて表現が変わるのはもう仕方ないのだ。
わかっちゃいるけど、見えないなにかに配慮した不自然なフレイザードなんて見とうなかった…
けど、おいろけ描写がなくなったのは正直ほっとしている。子どものころから今の今までなんとなく気まずかったから。
一長一短かな。自由と自粛と、完璧と平等の時代のリメイクは。

リメイクをやる意味か。
あるんだろう。
今、ダイの大冒険シャーマンキングを描きなおすことにきっと意味があるんだろう。
やりたかったんだろう、単純に。この挑戦を。
何かを感じてほしいとか得るものがあるなんて言うとお勉強になっちゃうから、好きになってくれたら嬉しい、とかつての読者で視聴者はただ思うばかり。
平成のまっただなかに青春を置いてきたわたしが、これからの時代を生きていくひとたちと大好きな物語を共有できる。
これが令和だ。