うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

山本文緒さんの本とわたし

ブルーもしくはブルー。
なんてきれいなタイトルだろうと思った。
きっかけはNHKのナイトドラマ。
原作があると知って本屋へ走った。
むさぼるように読んだ。
そこには女が女として生きていくことのすべてがつまっていた。
悩ましさ、生きづらさ、ややこしさ、めんどくささ。焦りと後悔と羨みと。
わたしはまだ二十代で、心のどこかで恋愛も結婚もあきらめきれないでいた。
できなければならないと勝手に苦しくなっていた。
迷えるわたしに、どの道をゆこうと天国と地獄は表裏一体なのだ、要は自分で選んで納得することなのだと教えてくれた一冊だった。
それからというもの、わたしの人生のかたわらには山本文緒さんの本があった。
社会からはじき出されて挫折をしたときは、プラナリアを読んだ。
無職の女を書かせたら彼女の右に出る者はいない。
ずるさやおごり、怠惰もまた女を女、人間を人間たらしめているのだ。
きれいなだけではない、生々しくどす黒い心の声にはすごみとリアリティがあった。
だれもわかってくれないと家の中で膿んでいるのはわたしだけではないんだという妙な安堵感も覚えた。
それは赦しであり、救いでもあった。
結婚まで考えた恋人と別れたころには、たしか恋愛中毒か、群青の夜の羽毛布を読んでいたと思う。
ただしそのころには生きがいともいえる趣味と出会っていて、女の人生や恋愛の小説を読むことがとてもしんどくなっていた。
解放されたのかもしれないが、直視したくなくなっただけなのかもしれない。
最後に読んだのはアカペラだったか。
なんとなく、作風が変わったのかなと感じて、もう読むことはないかもしれないなぁとぼんやり思ったのを覚えている。
そうこうしているうちに十年経って。
まさか訃報を目にすることになるとは。
忘れようとしてきたはずなのに、いまさら、若いころの心が死んだような気持ちになっている。
淋しいというには自分勝手すぎる。
でも今たしかに、青春が消えたような気持ちになっている。
生きること自体に苦しんでいた若い自分を赦し救ってくれた物語たちを、いまさらになって思い出している。
そんなわたしは、今は今で若いころとは違う苦しみを抱えている。
今は、歳を重ねることや、あきらめ赦し受け入れることをよしとする物語が必要なときなのかもしれない。
いつになっても救われたい赦されたいわたしは、おそらくまた彼女の本を手にとるのだろう。
作家さんは本の中で永遠に生きつづけるのだから。