うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

正しさと優しさとオロナイン

「逃げちゃダメなんですか」と、いつかのユタカタケは言った。
なんとなく、かの有名なフレーズを思い出していた。
それとシチュエーションはまったく違うが、「逃げたらアカンのかい」という反論を私はかろうじて飲み込んだ。
やっぱり、上の弟が苦手だ。
こやつ、相変わらず正論しか言わない。
正論で人を傷つけるというよりも、人の傷に何の断りもなくオロナインを塗りたくってくるかんじ。
本人はよかれと思っているし自分の正しさを信じて疑わない。
正しいが、優しくないのだ。
わたしは正しさよりも優しさを大事にして生きてきた。価値観がまるで逆なのだ。
だから極力エンカウントしないように生活している。
でも家族だから避けられないときもある。
ときどき起こるライフイベント時は極力あたりさわりのない会話をしてやりすごそうとするものの、きょうだいが集えば自然な流れで真剣三、四十代しゃべり場になったりもする。
それでいつもいずれかの傷口にオロナインを塗りたくられて、「ちくしょう、やっぱり、もう、こいつには会わへんぞ」と心に誓うのだけど、きょうだいなのでやっぱり会うときは会うし、むかつくからといってべつに憎いわけではない。
ちなみに今回は「過去のトラウマのせいにして伴侶を望まないのは逃げ(要約)」と火の玉ストレートをぶん投げられたので、「逃げたらアカンのかい」と反論したいのをぐっとこらえて「せやな」で締めくくった。
大阪人の「せやな」は、シチュエーションによってはイコール閉店ガラガラである。
いろいろと言いたいことはあったのだが、不毛なのでやめた。
弟、聞く耳持ってるふりして、自分の正しさを信じるがゆえに人の話をまるで聞かないんだもの。
いや聞いてるけど響かないのか。相手が正しくないと思っているから。
というわけで、なんだかえらく疲れてしまった。おおむね楽しかったけれど。
家庭を持つのは素晴らしいことだけど、持った側から持たない側に説くのはあやういよな、とわたしは思う。
何をどう思って持たないかなんて、人それぞれ理由や矜持がある。
それをひとくくりに逃げとされたことは、わたしの人生そのものに難癖をつけられたようなもの。
べつに逃げてるわけではなく、ただ単に自分には必要じゃないだけなので。
傷口に薬を必要としている人ばかりではない。
でもそれはいくら説明しても分かってもらえないのだ、いつも。なぜなら価値観が違うから。
「ちくしょう、やっぱり、もう、こいつには会わへんぞ」と今は思っているけど、また繰り返すだろう。
家族っていうのは、まあこういうものですね。
うーん、やっぱり自分で作りたいとも作れるとも思えないから、前向きにひとりで生きていきます。