うまいこといえない。

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ツルゲーネフのはつ恋を読みました

うっかりと。
あらすじを撫でただけで、これはトラウマになりそうだな、と予感させるには充分だったこの古典名作。
全力で避けてきた。けど無性に読みたくなった。今だ、と思ったのだ。

16歳のおぼっちゃまヴラジーミル少年が、隣に越してきた5つ年上の公爵令嬢ジナイーダにひとたまりもなく恋をするお話し。
ジナイーダ嬢は美人で無邪気で傲慢で、取り巻きの男たちをもてあそぶ、きまぐれ猫ちゃんみたいな女王様。
女王様の取り巻きのひとりになりながら、はじめて知った甘美な恋の虜になっていくヴラジーミル。
しかしやがて奔放だった女王もまた恋を知り、物憂げで従順な淑女へと変貌をとげていく。
彼女のはつ恋は、ヴラジーミルの父親だった。

ジナイーダは今の世ではオタサーの姫と表現されるだろうし、この小説のジャンルは不倫もの、おねショタ、寝取られ(寝てから言え)になる。
う~ん情緒がない。
なんでもかんでも名前をつけて分類したがる昨今。
そういうんじゃないんだ、人間の気持ちは。ラベル分けできるものではない。
あと昨今の物語は群像劇風だったり神様の視点で書かれることが多いが、これはほぼ私小説で、終始主人公の目線で心情も出来事も語られていく。
肝心のジナイーダと父親の胸中は推してはかるのみ。しかも「恋に恋する」16歳の男の子の視点から。だから痛々しくもみずみずしい。

彼女が望んだこととはいえ、結末だけをありていに語るなら既婚者にもてあそばれて捨てられたジナイーダがかわいそうに思えるのは、わたしが彼女と同性だからだろうか。わたしが歳をとったからだろうか。
いちばん共感できるのはジナイーダだけど、主人公の父親視点の話を書いてみたいと思った。
彼はなぜジナイーダに手を出したのか?
息子が彼女に恋い焦がれていることを知りながら。
知りたいことが山とある。いや、それらを暴くのは野暮というものか。
ヴラジーミルの分身たるツルゲーネフ自身が書かなかったのだから。
父は若くして病で亡くなるのだが、彼の死の直前にモスクワから届いた手紙と、死後母(主人公の父の妻)が送った金とはなんだったのか。
ジナイーダは彼の子を身ごもっていたのだろうか。その慰謝料だろうか。
なにひとつ明かされてはいないがすべて察せられてしまうような、なにひとつわからないような気もする。
金目当てで年上の女と結婚した父にとっても、おそらくジナイーダははつ恋だったのだろう。
なにかに興味を抱くのも、誰かを恋うのも理屈じゃない。
「捨てた」という、ともすれば身勝手な言葉からは悲哀を感じた。
不倫の恋だ。破局以外に、どうにもならなかったのだ。

ジナイーダのはつ恋は、失われていた父性への回帰だったのだろう。
ジナイーダが男たちをもてあそぶのは彼らを試していたからで、もてあそばれる男たちは実のところ自身と彼女とを切り離して考えられる歳と立場にあった。
遊ばれているのは彼女のほうだったのかもしれない。聡明な彼女もそれをわかっていたのかもしれない。
本当は自分の力の及ばぬ男に、有無をいわせぬ力で征服されたがっていたのだから。
ジナイーダは主人公の父に身も心も捧げる恋をしながら、秘密の恋をほかならぬ主人公に暴かれたがっていたようにも、また主人公に父のもとから奪われたがっていたようにも読める。
ジナイーダもまたはつ恋に苦しんでいたのだ。
はつ恋の君ははつ恋に生きはつ恋に死んだ。
4年の月日が流れ、結婚し、お産がもとであっけなく死んだ。
その間の暮らしだったり、夫や子がどうなったかは一切書かれていない。主人公とて知り得なかったのだろう。
だから彼女の真意はわからない。
はつ恋を喪い年をとった青年が、死んだものたちを赦し、祈るところで物語は幕を降ろす。

読み終えてトラウマにならなかったのは、わたしが誰の気持ちもわかる年になったからだと思った。それが少し淋しくもあった。
はつ恋とうたっているけれど、これは父と子の物語でもある。
父を畏れ敬愛するヴラジーミル。
父性を求めていたであろうジナイーダ。
父はこの少年少女になにを想っていただろうか。
それがいちばん知りたかった。

 

 

追記しました。野暮天の極みですが。

satoe1981.hatenablog.com