うまいこといえない。

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前野ひろみち著「満月と近鉄」を読みました

今週のお題「SFといえば」

これもSFといえばSFかもしれない、ということで。

ランボー怒りの改新」を読みたくて買ったまんま、2年ほど寝かせてました。
読みたかった「ランボー怒りの改新」はというと、映画で観たりノベライズで読んできて自分なりに抱いてきたジョン・J・ランボーの人物像とは少し違ったので、いまいち前のめりにはなれなかったです。(めんどくさいやつだな!)
斬新な意欲作ではありましたので、落ち着いたころに読み返してみたら新しい発見があるかもしれないです。またそのうちに。
大半のひとが「ランボー」を確認するため手をとって、「ランボー」をメインに読み、「ランボー」の感想を語るのだろうなぁ、この本。感想映えってやつか。

でもこの本の表題作は「満月と近鉄」です。
これこそが本体。

小説家を志して実家を飛び出し、生駒山麓のアパートに籠もっていた「私」は寺の参道で謎めいた女性に出会う。その女性は万巻の書物に囲まれて暮らしていたが、厳しい読み手でもあった。私は彼女に認められたい一心で小説を書き続けるが……(あらすじ引用)


この4作からなる短編集、解説と巻末の対談までもがうっすらとリンクしている。
どこからが創作でどこまでが実話なのか?
真実と虚構とが入り混じり、夢かうつつのような、なんともいえない浮遊感があった。
18歳の「私」こと前野氏の、ひと夏の青春とロマンス。
佐伯さんとは何ものだったんだろう?
彼女も、竹林の香り漂う図書室も、はたして存在したのかしないのか。
忘れているのか、それとも素知らぬふりをしているのか。
「その言葉は嘘やゴマカシには聞こえなかった」とあるように、あとがきと解説に登場する彼女とまったくの別人だとは思えないから、あの至福のひとときは若き日の前野氏が見た白昼夢だったのか。
この自叙伝的小説そのものが後書きと解説込みの創作なのかもしれない。
そう考えればぜんぶすっきりするのだけど、この話も佐伯さんも前野氏も、存在していてほしいなぁと思う。
二十年前の夜、彼女が姿を消した理由。
満月は佐伯さん、近鉄は僕。
素直に解釈すれば言葉のとおりになるのだろうけど、前野氏が二十年の時を経て悟ったというその答えを、わたしはなんとなくまだつかみかねている。*1
おとぎ話として読んでいいのか、それとももっとメタ的なものなのか。
ひさびさにこういう、ノスタルジックでやわらかな、答えのない物語を読んだ。

「まこと夢のような味がする」。

 

 

後日に聖地巡礼してきました。あわせてどうぞ。

satoe1981.hatenablog.com

*1:ものすごくありふれた捉えかたをするならば、あの夜の佐伯さんとは「私」こと前野氏の情熱そのものが形をとったのかなぁ、などと読み返しながらぼんやりと想いを馳せた。