うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

ファンという生きかたは、

宗教や戦争の、諍いの図式を煮詰めた感じだ。
スポーツをしているアスリートはいつだってキラキラと美しいのに、なぜ彼らを推す人たちの中からは熱心さゆえいきすぎた思考が生まれてしまうのか。
あなた自身は、そんな強い言葉を吐けるくらい正しいのか。
その言葉を吐き出す前にもう一度よく考えてみてほしい。
プレイヤーや他者に敬意のない人はファンではないと思いなおしてほしい。

競馬でも野球でもそれなりに「厄介さん」は見てきた。
話しあえないし、わかりあえない。
ならもうかかわることはできないし、じゃあやめとこってなる。
いきすぎた言動がめぐりめぐって自分や好きなものたちの首をも絞めたり、孤立させることにさえなるのに、強すぎる想いはときに人を排他的にさせてしまう。
必死の方向が間違っていて、やるせない。
もちろんファンみんなが厄介さんというわけではないんだけど、集団としては「そういう人たち」として括られてしまう。
たとえばタイガースファン全員が球場で声出し応援したり、他球団を罵る人たちでは決してないのだ。
ちゃんとしてる人が大半だろう。
ちゃんとというのは、ルールとマナーを守りながら、敬意をもってスポーツを楽しむ姿勢を指す。
でもそこからはみ出す人が一部いて、悪目立ちすることで、みんなが厄介な人たちとして見られてしまう。
「個人を見て」という願いは大きな怒りと偏見によってかき消されてしまう。
現実に今起こっている戦争とおんなじだ。悲しい。苦しい。

わたしは好きな人やもののこと、ぜんぶ好きで肯定しているわけじゃない。
そういうとこやぞ、それは受け入れられないなぁ、ここは好きじゃないなぁって感じる部分もあって当たり前。
同じものを好きな人と必ずしも仲良くなれたり、価値観を共有できるわけでもない。
あなたとわたしは違うのだから。
今はそう割り切れる。それでも好きが勝ってるだけ。
若い頃は好きなものにかかわるすべてを赦したくて、愛そうとして、好きが苦しいこともあったけれど。
もう、何か誰かのファンという生きかたは味わい尽くした。
おかげでひとりきりでは得られない幸せを知ることができた。
いまは静かにおだやかに、ただ好きでいる。
好きを公言しなくても、名刺がわりにしなくても、自分がちゃんとわかっていればいい。
他人から〇〇の人と認められる必要もない。
わざわざ思いなおしたのは、自分の好きに他人がかかわってくるのがSNSだから。
それが楽しくもあり、難しくもあり。
でも、ひとりでもべつに大丈夫だし、淋しいことでも、恥ずかしいことでも、怖いことでもないんだよ、好きならば。自分がちゃんと自分の気持ちをわかっていれば。
ということは声を大にして言っていきたい。