うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

カメラを持って競馬場へ 手放して拾う

いきなりタイトルに反するのだけど、競馬場へは行けていない。
夏競馬でローカル開催に移ったのもあるし、これまでの情熱が落ち着いたのもある。
わたしはこの夏、カメラを手放した。
カメラというのは、ここでは一眼レフのほうを指す。
以前のようにコンパクトデジカメで撮る人に戻ったというわけ。

きっかけは、競馬場観戦ルールの書き換えに端を発した騒動をみて。
私的な撮影にSNSへの投稿が含まれるのか否か。それは迷惑行為になるのか。禁止事項にあたるのかどうか。
競馬場で撮った人馬や風景写真をSNSに掲載する是非がファンのあいだでにわかに議論となったのだった。
結果としてそれらは今までどおりお咎めなしとなった。収益目的の動画撮影などを取り締まりたかったらしい。
「はあ〜、よかったな〜」と安堵するとともに残る違和感。
このちょっとした事件は、わたしの中にずっとあった「あやふや」と「ごまかし」をはっきり可視化することとなった。

わたしは好きな人馬を応援している。
その一環として競馬場で写真を撮らせてもらっている。
撮りためた写真はときどき手紙と一緒に送ったりする。
そのためといっても過言ではないのだけど、いちばんの動機はわたし自身が手元に思い出を残したいからだ。
いつも言っているけれど、人は忘れる生き物だ。いいこともそうでないことも。だから生きていける。
記憶は脆い。脳内補正を受けて変質していくし、すり減ってもいく。
わたしの思い出は、わたし自身がなくなるか忘れるかしたら消えてしまう。
せめてわたし自身があるうちは忘れたくない。覚えておきたい。
写真があればかたちあるものとして残しておける。
手がかりとして思い出を辿れるし、懐かしむこともできる。
そのためにカメラが必要だった。

できるかぎり鮮明な写真を。質の良い写真を。
もっと綺麗に。美しく。この目でとらえたままの姿を。
ありのままの彼らの姿をおさめたい。
そう思ったのは、ほんとうに彼らのためだったか。
わたしはSNSにも競馬の写真を掲載するようになっていた。
愛する彼らの勇姿をひとりでも多くの人に見てもらいたかった。知ってほしかった。一緒に応援したかった。
その役割をSNSはおおいに果たしてくれた。
でも、はたして彼ら自身はそう望んだだろうか。
いつだって彼らはひたむきに走り、取り組むだけだ。
にもかかわらず、わたしが撮った彼らは、わたしのファインダー越しに誰かの目に触れる。
だからこれは自己満足だ。
でもフェアじゃない。グレーだ。ただ咎められていないだけ。
思い出が欲しければ撮って眺めるだけでいい。
想いを分かち合える人とだけやりとりすればいい。
それでもSNSにあげるのは、他意があったからではないか。
見てほしい。知ってほしい。一緒に応援したい。それは欲でもあった。
わたしと彼ら以外の他者を介在させた応援は、いつしかわたしの言葉や撮る技術の拙さを痛感することと隣りあわせになっていった。
わたしにはセンスがなかった。技術がなかった。
でも、だから、もっと、うまくなければ。
そう望んだのはわたしだったか、他者だったか。
わたしはいつのまにか「見せるため」の写真を撮るようにもなっていた。

やがてコロナ禍となって、思うように競馬場へ行けなくなった。
現地が遠ざかり、カメラに触れる時間が減ったのと並行するように、わたし自身の情熱も落ち着いていった。
行けていたところへ行けなくなって、できていたことができなくなってふと、「ずっとがんばってきたよなぁ」とこれまでを振り返った。
好きなもののためにがんばることが楽しかった。嬉しかったし、幸せだった。
いつしか「楽しい、幸せ、嬉しい」気持ちに紐づけて、なにかをがんばることで自分を表現しようとしていた。自分というものを他者に分かってもらおうとしていたように思う。
SNSではそれが可能だった。
すべてが見える化された世界にどっぷりと浸かっているうちに、わたしはわたしの愛するものたちを「見せる」手段として使ってきたようにさえ思えてきて、なんだか急に、すべてがつらく申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまったのだった。
潮時だったのだろう。

わたしはこれからも競馬場へ行く。
コンパクトデジカメとスマホを持って、好きな人馬を撮りつづける。
ときどきはSNSにも投稿をするだろう。
思い出を残し、誰かと分かち合うために。
これだけ語っておいてなんだけど、わたしの行動そのものはとくに変わらない。
変わったのは心だ。
もうがんばらない。以前のようにはがんばれないから。休み休みやるのだ。
目的と手段をごちゃ混ぜにしない。
「見てほしい」から「見せるため」に撮るのは欲だ。
他の人の愛と意欲が同居した写真を見るのは好きだから否定はしない。むしろ支持する。
でもそれをするとわたしはしんどくなる。やめるためには大きいほうのカメラを手放さなければならなかった。
これは挫折だろうか。それとも悟りだろうか。
どちらもある。
好きなものを好きでいるために、ひとつ手放して、心を拾いなおしたのだ。

秋が近い。もうじきホームに競馬が帰ってくる。