うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

再読「戦争は女の顔をしていない」

ずっとこの本にとらわれつづけてきた。
もう忘れることも、読まなかったことにすることも、逃げることもできない。
だから真っ向から立ち向かい、受け入れたい。
ちゃんとした感想を書こうと思ったんだけど、うまくまとまる気がしない。
あらためて強く思い感じたことを箇条書きにて。

コミカライズでなく原作を読んでいる。
前はあまりにつらすぎて猛スピードで読み流した。
二度目の今回はしっかりと。
どうしようもない怒りが吹きあがってくる。この気持ちをどうしたらいいだろう。
なるべく怒りたくないと思いながら生きてるのに。
でもこの怒りの感情は、抱かなければならない大事なものだ。

戦場では女は誰かの現地妻でいるしかなかった、という話がことさらにしんどい。
百万人規模で従軍してても女が戦中戦後それぞれに偏見の目を向けられるってどういうことなんだ。
これは理解できない。納得もできない。頭でなく心が。
わたしが女だからか。いたたまれない。耐えられない。
戦友だった男たちは戦中、女たちを庇い守ってくれた。妹のように、友のように。恋人のように。
でも戦後、女たちを伴侶にはしなかった。そうなってもすぐに捨ててしまったり。
彼らも戦争を忘れたかったのだ。傷ついていたのだ。それをどうして責められよう。
誰も悪くない。でも女からすれば理不尽でしかない。
男たちの挙動以上に、祖国のために戦い生き延びて帰ってきた彼女たちを貶めたのが同じ女たちだった、というのがいちばんこたえる。
非難するのはいつも、何も知らない人だ。

「生理」に代表されるが、性は生だ。
望んで変えることも、失うこともできない。
男と女は違う性で生きている。だから分かりあえない。
それでも女たちは、恋が自分を救ってくれたと概ねみんな言っている。
恋をしたから生きていられたと。
そうなのかな? ほとんどが報われなかったのに?
また想像がつかない感情だ。でもそうなんだろう。

ロシア人は近しい身内がみんなあの戦争を体験してるから、一部「ああなって」しまうひとがいるのもなんとなく想像できなくもない。
もちろんみんながみんなじゃない。国や人を一括りにすべきでない。すべてをわかることはできない。
でも知ることで、かろうじて想像はできる。これは大事なことだと思うのだ。

実は一時期、コミカライズで「ぜんぶ読みましたよ!」ということにしていた。
でもこれはぜひ両方を読むべき。読める人はみんな読んでほしい。
あらためて原作をしっかり読んでみて、コミカライズの人がものすごく丁寧に原作と向き合っていることがよくわかった。言葉のひとつひとつを大事にしている。
(これもうコミカライズした人は残りの人生を戦争にとられたようなものでしょ…)(と思ったけど、本人はわりと他の仕事だったり漫画なんかも楽しんでいるようで安心した。ひとつのことにとらわれず、切り替えられることも才能なんだろう)
だからコミカライズだけでも読んで、という気持ち。読める人は。
もう読んでくれとしか言えない。感想とか解説とか、何かを付け足して語るとか、余計すぎて。
それなのに何かがこみあげて、何かを言わずにはいられない。そんな本。

「ボタン穴から見た戦争」も併せて読んだ。
「子どもが見た戦争」というさらに重いテーマゆえずっと読めずにいた本。
予期したとおり、より凄惨な内容だった。
あまりに死が隣り合わせすぎる。その中で誰もが人間としての何かを失っていく。
戦争でトラウマを抱えた子どもはものすごいスピードで大人になるとともに、心の奥底に「あのとき傷ついた子ども」をずっと住まわせている。
こんなふうに人間の心を壊す戦争はほんとうにだめだ。はじめてはいけない。
月並みだけどそんなことをずっと思いながら読んだ。

二冊を読み終えて、人間に必要なのは想像力だと確信する。
想像力が時として欠けたり薄れたりしてしまうから、差別や争いが起こる。
よくわからないことが恐ろしいから、排除や否定が起こってしまうのだ。
これは現代社会にも通じること。
まさに今、歴史が繰り返されてしまった。
耐えられない怒り、悲しみ、むなしさ。
傷ついた大人が、子どもが、男性が、女性がまた生み出されつづけている。

わたしに何ができるだろう。
怒り、悲しむ以外の何ができるだろう。
知ることと、想像する以外の何ができるだろう。