うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

カメラを持って競馬場へ まず一歩

長い休みの最後に、何か好きなことをしよう。
ふと競馬場へ行ってみようと思った。やっとそう思えた。
新しいスタートを切るはじめの一歩として。
週末はいい天気、競馬日和だ。
見たい馬も走る。渡りに船だった。
立ち見のチケットを予約した。当日でも入場券が買えて、回数券が使えるようになっていたのは後で知った。
時間は流れている。状況は変わっていっている。
たくさんの人が戻ってきていた。わたしもそのうちのひとりだった。

 

 

ひさしぶりに競走馬を撮った。パドック本馬場で。
見に行けなくなった間も、離れているときもずっと応援してきた馬たちだ。
彼らが出走することが、この日競馬場へ戻る決め手となった。
競馬から離れているあいだに、わたしは一眼レフを手放した。
もうあの頃感じていたような物足りなさや未熟を恥じる気持ちは湧いてこなかった。
わたしにはやっぱりコンデジが手と心に馴染む。
撮れたものを見て「勘が鈍ったのもあるけど、やっぱり下手くそやなぁ」とは思ったけど、ネガティブな気持ちにはならなかった。
自分のために撮っている。
好きだから、撮りたいから撮っている。それだけ。
うまい人と比べたり、卑屈になることもなくなった。
「見てくれる誰かのために」「この馬を好きな誰かのために」と勝手に気負うこともやめた。
撮った写真は自分で大切にとっておく。何かを思い感じるこの心と同じように扱う。
もうちょっと気力が戻ったら手紙を添えて贈るかもしれない。
応援もそうだけど、「誰かに何かを与える」力が今のわたしにはまだ足りない。
そんなものはもともとなかったから必要以上にしんどくなったのかもしれない。

競馬はアクティブな趣味だ。
わたしは現地へ行きたいし、現地へ行ったら馬券を買いたい。
それには元気がないと難しい。暮らしにある程度の余裕がないと厳しい。
ましてや写真を撮ろうと思ったらなおのこと。
だからどんどん遠ざかってしまった。
わたしは変わった。
競馬も変わった。
客層とか環境とか業界の風潮。馬たちの世代はもちろん、内外含めて立ち入っている人たち。そういうものもたぶん変わったのだろう。
ふるいにかけられたのか、自らリタイアしたのか。どっちでもある。
だけど嫌になったことも、嫌いになったこともなかった。
ただ自分の愛し方が変わっただけと悟ったとき、離れていることを肯定できるようになった。自分を赦せるようになった。
そして「いつか戻ろう」と思えるようになった。

実際に戻ってみて、「現地」をやってみて、まだまだちょっとしんどいなというのが正直なところ。
競馬場の空気はおいしく、馬たちはいとおしく、すべての景色は美しい。
間違いなくわたしは大いに癒され、たくさんの元気をもらって帰ってきた。
だけど同時にとんでもなく疲れた。心も体も。
体と一緒に心も鈍っていたのだろう。
元気をもらうために最低限の元気が必要、といったところ。
実は前日まで行く気満々だったのに、当日起きたら猛烈に億劫になってしまった。
自分自身としか約束してないんだし今日はもういいかぁ、なんて思いながら布団の中で悶々としていたのだけれど、今立たなければもうしばらく立ち直れないであろうことはわかっていたから、弱った心と体をはげましながらいそいそと出かけたというわけ。
だからわたしがこれからやるのは、心と体を健やかに保ち、基礎体力をちょっとずつ上げていくことだ。
パドックはめちゃくちゃ暑い。帽子かぶっていって大正解だった。
下手したら半日とか立ちっぱなし歩きっぱなしでカメラを構え、馬券を買い、隙間時間でかすうどんを摂取し、場内を右往左往する。
そりゃあこんなん、鍛えてないと無理だ。
なぜできてたかといえば、ひとえに愛と情熱ゆえだ。
心の力は体をつき動かすのだ。
しかしわたしは歳をとり、愛と情熱は落ち着いてしまったので、これをまた可能にするには体力をつけて、やりたいことと自分の気持ちとの折り合いをつけること。
「欲しいものぜんぶ、完璧に」はもう無理。
だからできるようにやる。今日という日がその一歩となれば。