推さなくても、萌えなくても、ファンと公言しなくても、何か誰かを好きでいてもいいのよ。
— さとえ (@satoe1981) 2022年10月31日
「推せ、萌えろ、愛を叫べ、それこそが尊い」風潮の今だけど、「なんとなく好き、ただ好き」で自分の気持ちを後ろめたく感じたり、想いを引っ込ませる理由にしなくてもいい。
ただ熱量や向き合い方が違うだけ。
凪いでしまった心を赦して肯定したいのかもしれないねえ。
— さとえ (@satoe1981) 2022年10月31日
こんな状態は初めてだから、自分でもまだ手探りなのよ。
「ガチのファンの中にはめんどくさい人もいるもんだな」としばしば感じる。
SNSって声の大きい人、目立つ人の声が拡散されちゃうからよけいにね。
なんとなく、そういうところから降りたいと年々思うようになってきた。
そういうところって具体的にはなんだろな。
コミュニティとか、ファンゆえの発信とか、熱意の序列とか、そういうにぎやかな場所のことかな。
ただ好きなように好いていたい。だから。
「ファンです」とわざわざ公言しないわ。
年中萌えてるわけでもないわ。
「誰々推しです」とも名言しないわ。
熱く語らなくても愛は心の中にあるわ。
それがライトだとか薄いとか俄かだと言われるのだとしても、いまのわたしは「そっか〜」って受け入れられる。
ガチだったころ、わたしはわたしの熱意をどこかの誰かに知ってもらいたくて、やはり必死だったのだと思う。
そうすることが楽しかった。燃えていた。
だけど道半ばで燃え尽きた。
そうして手元に残った熾火のような愛をそっと慈しんで肯定したいと思うようになった。