うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

赦しと受容とあきらめと、2022年

何事もなく生き延びたから花丸、としておこう。
家族がコロナになったり、いまだに面会できない人がいたり。
わたしは仕事をやめたり変わったり、趣味をつづけるのが難しくなったり、なかなかにしんどい一年だった。
やっぱり四十を過ぎると人は変わるよ。
なんというか、心のありようが。
あきらめられなかったことをあきらめられるようになった。
赦せなかったことを赦せるようになった。
そんなにがんばらなくてもいいよと笑えるようになった。
できてなくてもだいじょうぶと思えるようになった。
若さを失ったかわりに、歳をとったぶん、しなやかになる。したたかになる。
「変えられないものを受け入れる力」ってやつかもしれない。
宇多田ヒカルの楽曲は「Wait & See 〜リスク〜」って曲がすごく好きなんですけど、その中でいちばん好きな部分です。
ウェイトアンドシーって競走馬いましたね。懐かしい。
自分を変えるようには、人や世界は変えられない。
だって今はコロナ禍で、それはもうどうしようもないんだもの。
前みたいに旅行がしたいけど、競馬場へ行きたいけど、おばあちゃんに会いたいけど、今はできない。
決まりだったり、自分の心のありようによって。
受け入れられないなら自分が変わるしかない。
あきらめて、赦して、無理にがんばることをやめて、できなくってもだいじょうぶだと納得する。
旅行ができなくても、かわりに近場へは出かける。
競馬場へ行けなくても、好きなものたちへの愛は変わらない。
おばあちゃんには会えないけど、田舎へは帰れる。
そうやって2022年をなんとかやってきた。
なるようになる。要はそれを心が受け入れられるかどうか。
今年、わたしの心はだいぶすり減ったけれど、余分なものがすり減ったぶんさっぱりしたとも思う。

今年こそ、わたしは筆を折ろうとしていた。
どうしても、わたしが傷つけた人のことを忘れられなかった。
縁は切れても記憶が消えるわけじゃない。
わたしがもう少し若くて自分を赦せなかったころ、わたしが持っていないものを持っている人をうらやんだ。それをつづった文章が人を傷つけた。
その人は今も心の奥底に傷を抱えているだろう。
もう無理だ。と思った。
恨まれるのがじゃない。自分が人を傷つけたということと、それを忘れられないのが。
ツイッターにせよブログにせよ、書くというのはそういうことだ。
その人でなくても、今まで書いてきたこと、これから書くことが、きっとまた誰かを傷つける。
なんだかひどくつらくなってしまった。
どうして書くんだろう。
自分で自分をどうにかしたいから。
わたしは書かないと何もできない。
他の人が信頼する誰かと話したりして昇華することを、わたしはひとりで書くことでやってきた。
書かないと生きていけない。だから筆は折れない。
ただ書くだけならべつにブログじゃなくてもいいじゃないか。
ブログでなければならないのは、どこかの誰かに自分の話を訊いてほしいからだ。
ひとりで書くけど、記事を公開したあとはどこかに誰がいる。それを自ら望んでいる。
はじめからひとりじゃなかったのだ。

人と人が予期せず傷つけあうのは、文章であろうと会話であろうと、どこにだってありふれていること。つまりは人間が生きることだ。
誰も傷つけず、誰にも傷つけられず、きれいにおだやかに暮らすなんて不可能だ。
それはただ生きてるだけ、死んでないだけじゃないのか。
心があるから分かりあえるし、すれ違う。
わたしが傷つけたあの人とは、ただ心のありかたが合わなかったのだ。なんならタイミングも最悪だったろう。
でも人生ってたぶんそういうものだ。そういうものはどうにもならない。
これまで罪のように抱えてきたものを、もう今年限りで降ろしてやろうと思う。
わたしはどうやっても書くことはやめられない。ならもう、ここらであきらめなければならないだろう。
これから出会うであろう「その人」たちに赦されることも。完全な理解も和解も。傷つけないことも。傷つけられないことも。
できないものはできない。それでもいい。誠実であれば。向きあう気持ちがあれば。
だからあきらめて、赦して、受け入れて生きていく。
来年も、これからも。