うまいこといえない。

うまいこといえないひとがつたないなりに何かを残し誰かに伝えたいブログ。

友達になりたくて、なるべきで、なれなかった。【noteからの再掲】

先日、大切なひととお別れしました。
お別れの理由と、去らねばならないことへのお詫びの言葉を残しての、一方通行のさよなら。
SNSにおけるアカウント削除は、現実の別れよりも苦しいものなのかもしれない。
ひとたび相手が消えてしまえばもう二度と声は届かなくなってしまうから。

気持ちは通じあっていたと思える。
これまでやりとりしてきた想いに嘘はない。
心と文字と言葉だけの世界で、あたたかな感情の中にふわふわとただようのが心地よかった。
だから信頼しすぎてしまった。
好きになりすぎてしまった。
その気持ちを悟られてしまったのかもしれない。
去らねばならなかったのは文字どおり“事情”だったのかもしれないけれど、確かめるすべはもうない。
“事情”という言葉にどれだけのものが込められていたのかは、もはやひとりで想像するしかない。
切り離されたのか、切りあげられたのか、背負ってくれたのか。
真意はどこにあったのだろうかと。

あのひとと私は、確かに信じあっていた。
感謝と信頼と親しみの念を言葉にして心を寄せ合うのが心地よかった。
ただ、その想いに見合うほど、お互いのことを知らなかった。
打ち明け合ったのは本名と職業と年齢と、好きなものや考え方を少しずつ。
それでゆるぎない関係を築いていけると思っていた。
すべて分かり合えると思っていた。
ひとつ心を開いてもらうたびに、ひとつ受け入れて、失敗しないように、嫌われないようにと私は慎重にあのひとの優しい言葉を受けとり、慎重に丁寧に優しい言葉を返していった。
そうして少しずつ心を開いていけると信じて疑わなかった。
でも友情を望むのならば、声と体を持ち呼吸をして生きている生身の人間として、地に足をつけて出会いなおすべきだった。
心と文字と言葉だけの心地よい関係だけでは知り得ない、大変で面倒な愛すべき現実の姿を引き受けてでも、私は尊敬するあのひととは友達同士になりたかったのだから。

一歩を踏み出せなかったのは、自分に自信がなかったから。
立派な肩書きがあるでもなく、すでに若さを失い、容姿が優れているでもなく、どこにでもいる平凡なありのままの自分をさらけだす勇気がなかった。
私が注意深く発する言葉ほど、私自身は美しくなかった。
そのことが悔しくて、悲しかった。
幻滅されるのが怖かった。
そうしてすべてを失うのが怖かった。
自分のちっぽけで卑屈な心を庇ったせいで、ついに歩み寄ることさえできないままに終わってしまった。
あのひとが“そんな人”ではないことは、心できちんと分かっていたはずなのに。

ふりかえれば、たったひとつ、来年これを一緒にやりましょうというささやかな口約束と。
交わしあった優しく誠実な言葉たちだけが思い出として残った。
名前のつけられない、おぼつかない関係だった。
こうなる前に何か関係性を作っておけばよかったのだろうか。
思い切って踏み込めばよかったのだろうか。
でも、それはできなかった。
オンラインとオフライン、理想と現実の垣根を越えるのが怖かった。
自信って、なんだろう?
私はいつもここでつまづく。

メッセージが来るのがどれだけ楽しみで嬉しかったか。
おはよう、おやすみ、おつかれさまをささやきあえた日々がどれだけ幸せだったか。
多くを知らなかったけれど、それでもあのひとのことを信じていたし、泣いて落ち込むくらいには惹かれていた。
友情を感じていたけれど、終わってみれば、この痛みは何だか失恋のそれに似ている。
これは恋じゃない。断言できる。
好きだったひとを失う痛みに、恋も愛も友情も関係ない。
お別れとお詫びの言葉を最後に残してくれたのは、最後のメッセージが既読になるまで待っていてくれたのは、きっとあのひとの優しさと誠実さそのもの。
だからこそ私にも同じ想いを贈らせてほしかった。
ありがとうと、ごめんなさいと、お別れしてもこの敬愛の念はずっと変わりませんと。

あのひとも何か少しは思い出を持っていてくれたらいいなと思う。
いつでも待っていますとだけしか伝えられなかったし、伝わっているかどうかも分からない。
だから、もしも今度があれば、何も問わずに受け入れよう。
今度は少しは自信を持って、勇気を振り絞って。
だから、今度はちゃんと、友達になりましょう。
もしも今度があるならば。

 

note.mu

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涼やかな魔法

出遅れから鮮烈に。
はかったように差しきった。
あの、あの癖馬を、御している。
なんなんだこれは。一体どうやったんだ。
この男は時々、魔法のような仕事をする。

メイショウウタゲは、気性の激しさと難しさゆえに出遅れ癖を抱えていた。
そして芝の切れ目で飛ぶ。
抑えつけてもダメ、するに任せてもダメ。
この馬が真価を発揮するには、しまいまで集中力を途切れさせないこと。
たいへんな馬なのだ。
幾人の騎手が彼を勝ち上がらせては、翻弄された。
あるときは小林徹弥騎手の献身であったり、またあるときは武幸四郎騎手の当たりの柔らかさであったり、さらにあるときは内田博幸騎手の豪腕であったり。
陣営は常に最善策を模索しつづけていた。
勝ちっぷりはいつも圧巻。
ポテンシャルは重賞級。
だから、なんとか大きいところへ行きたい…
その足がかりに勝ち星をあげたい…
そして名鉄杯。新たな鞍上を迎えての挑戦。
期待はあったが。
結果は出遅れからの後方侭、レースに参加できずに終わってしまった。
ああ…今日も不発だった。
このところ勝利はおろか好走もままならない。
すべては彼の気持ち次第。
まともに走れば重賞、G1さえすぐにでも見えてくるというのに。

再起をかけた決戦には、エニフステークスが選ばれた。
おととし好走した舞台に望みをかける。
手綱は前走にひきつづき秋山真一郎騎手がとった。
期するところがあったのだろう。
恥ずかしながら、初見では何が起こっているのかわからなかった。
一番後ろにいると思っていた人馬が、後ろを見ているうちに最前列にいた。
出遅れ後方からあれよあれよという間にするすると、馬群をさばいて内を突き、逃げ粘るハヤブサマカオーを鋭くとらえたところがゴールだった。
魔法だ、これは。
たった一度の騎乗機会からすべて掴んでいたのだ。
ウタゲの秘める爆発的な潜在能力が彼の琴線に触れたのだろう。
この男は、面白い。

新興勢力の台頭や乗り替わりなどシビアなご時世、割を食っているであろうジョッキーは多い。
彼もそのうちの一人だろう。
しかしこの男、秋山真一郎ならば、苦境に身を置きながらも時々は魅せてくれる気がするのだ。
涼やかな笑みを浮かべながら。
誰にも何ものにも媚びずに、やりたい仕事をやる。
誰もがあっと驚く、魔法のような仕事を。

 

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愛と情熱と執着のおわり

4年経った。
ついこの間のような、遠い昔の出来事のような。
憧れのひとが鞭を置いた無念は、ともに競馬を観る喜びへと変わった。
予想に、ラジオに、トークショーに、SNSにと大忙しの日々。
かつての勝負師は引っぱりだことなった。
優しくおだやかに笑うようになったそのひとに、半ばすがりつくように、私もまた競馬への熱をたやさず燃やしつづけた。
あの頃よりもほんの少し近くなった背中を追う時間は濃密で、幸せで、そして苦しくて、淋しかった。
穴のあいた器に絶えず水を注ぎつづけるような感覚。
心の器が満たされることは決してなかった。
それでも注ぎつづけたのは、心に穴があいたことを認めたくなかったから。
認めれば足元から崩れ落ちてしまうことも、もう立ちあがれなくなることもわかっていたからだ。
大丈夫、嬉しい、幸せ、と念じるようにつぶやきつづけた。
しかし心を偽ることはできない。
情熱を絶やすまいと意欲を燃やせば燃やすほどに焦げついて、芯からすり減っていくような喪失感に襲われた。
あれほど純粋だった想いは、苦しくまとわりつく依存と執着へと変わりつつあった。

『あなたのことを』と言いながら、自らの心を壊さぬように必死だった。
なぜもっと無心に願うことができなかったのか。
邪魔をしたくない、重荷になりたくない、多くを願うことも、勝手な想いを押しつけることもしたくはない。
現実のすべてを受け入れると言いながら、本当は何ひとつあきらめられなかった。
愛に依存して、愛が執着となって、やがて情熱の火が消えたらあとには何が残るのだろうと、自問自答をくり返しながら。

プロヴィナージュの子どもに乗ってほしかった。
アーネストリーエスポワールシチーが引退するまでその背にいてほしかった。
キズナとともにダービーを勝ってほしかった。
そして凱旋門賞へ行ってほしかった。
一番の夢だと語った有馬記念を勝ってほしかった。
10場目の新潟で重賞を勝ってほしかった。
1000勝を達成するところを見たかった。
夢はついに叶わなかった。
永久に叶わなくなった。
叶わなかったけれど、今はある。今とこれからがあるのだ。

私は、願い望んでばかりだった。
いいファンにはなれなかった。
それでも私は今も競馬を愛している。
あの頃の私には想像もつかなかった今を生きている。
あなたがいたから。
あなたなくして今の私はなかった。
あなたには感謝しかない。
愛と情熱と執着ととも歩んできた道の果てには、終わりではなく続きがあった。
苦しみと淋しさの果てに、この想いが残った。
感謝の気持ちと、変わらぬ敬愛の念と、忘れられぬ思い出を胸に、これからも私は私の道を生く。

変化を受け入れて、新たな境地へ

これを余裕とみるのか、辛勝とみるのか。
歓喜にわくウイナーズサークルには元主戦の林満明騎手の姿があった。
その隣で、アップトゥデイトを勝利に導いた白浜雄造騎手が晴れやかな笑顔を浮かべていた。

「大事に乗りすぎてしまった。」
一戦目に挑んだ阪神スプリングジャンプを、白羽の矢を立てられたピンチヒッターはこう回顧した。
新たな主戦として臨んだ小倉サマージャンプでは「勝ちたい気持ちが空回ってしまった」と。
障害重賞20勝目に王手をかける名手は人知れず苦しんでいた。

慎重になりすぎている。
もっとアップを信じてもいいのに。
もっと思いっきり攻めても大丈夫なのに。
新たな相棒への期待と並行して、結果がともなわぬ悔しさともどかしさが確かにあった。
全盛期の姿が鮮烈であればあるほどファンはかつてのイメージにとらわれるが、馬は歳をとりながら、調教や実戦を経てたえず変わっていく。
そして白浜騎手は、林騎手にはなれない。
どちらかがより秀でているとか、敵わないとか、及ばないという意味では決してなく。
まったく同じ競馬を再現することはできないのだ。
競馬を愛するひとの中に、それを望むものが果たしているだろうか。
人は自分以外の誰かにはなれない。
強くなるために、よりよい自分になるために、ひとり努力と工夫を重ねるだけだ。
馬と人は、ともに変化しつづけている。
そんな彼らが心を通わせるには。
自信を得るには。
互いに信頼しあうには、やはりともに戦って勝利を掴むこと。
私もまた知らぬ間に、最も強かったときのアップトゥデイトと林騎手のイメージを彼らに望みつづけていたのだ。
縁あって手綱をとったジョッキーとともに喜びを分かち合いたかった。
誰かの代わりではなく、これまでの続きでもなく、いま目の前にいる人馬とともに。

一人旅からはじまった決戦は直線あわや、新進気鋭ラヴアンドポップとのマッチレースで最高潮を迎える。
半馬身差の矜持。
三度目の正直が成った。

これは辛勝か、それとも貫禄の勝利か。
トップハンデを背負いながらも並ばれてからは抜かせなかった。
しかし昨年のように突き放すことはかなわなかった。
どちらの見方もできるだろう。
ただ、ひとつだけわかるのは、苦しみながら彼らはともに大きな一歩を踏みだした。
アップトゥデイトの馬名には、最新の、という意味がある。
変化を受け入れて、新たな境地を彼らは目指す。

 

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努力と勝利のお話

今年も“この時期”がやってくる。
3歳未勝利戦を見ていると、“努力と勝利の関係”について考え込まずにはいられない。
馬も人もみんな勝ち上がるためにがんばっている。
みんなが揃って勝ち上がることはできない。
席の関係上、がんばっても勝ち上がれない馬のほうが圧倒的に多い。
勝ち上がれる馬は、ほんの一握り。

それなりの年月をかけて、この世界で報われないことの意味と大きさを知ってしまった。
思い入れと現実とは、大体かけ離れているものだ。
どうかどうかあなたは報われてほしいと競馬の神様のようなものに毎週祈りながら、自分が戦っているわけでもないのに、なぜこんなに苦しいのかと自問自答する。
競馬を通して、勝ち上がった馬たちの、あるいは栄光を手にした人馬の、努力が報われるさまをずっと見てきた。
これからも見ようとしている。
だから苦しいんだろう。
努力が必ずしも望む形で報われるわけではない現実が。
ひとは時に報われない愛を抱くこともある。

努力とは、勝利を保証するものではなく、挑戦する権利を得るためのものなのかもしれないとこの頃は思う。
みんなが当たり前のように努力をしているその中から、突き抜けられる力の正体とはなんだろう。
最後の決め手はほんの少しの運だったり、タイミングだったりするのかもしれない。
そういう掴みうるすべてを掴むための、日々のがんばりなのだ。
一握りの勝者となるために。
だからこそ勝利は尊い
勝利を目指して己を高め、果敢に挑んだものたちもまた、同じく尊い
このことを私は絶対に忘れたくないし、たとえ苦しくとも、想い願い祈ることを諦めたくないのだ。

Going My Way

「こんなことって、またあるんだ。」
競馬に絶対はないといいながら、無意識のうちに願っていた。
ずっと見てきたのに、想像もつかない結末がまだまだたくさんある。

アップトゥデイトは三度目の小倉サマージャンプを二着で入線した。
懸念材料はいつだって終わってからようやく敗因として鮮明に浮きあがってくる。
スタートの課題と、より瞬発力勝負となる距離短縮と。
そのどちらともがうまくいかず、他馬との駆け引きに苦慮している間に抜群の立ち回りを見せたヨカグラがすべてにおいて圧倒した。
くしくも昨年の優勝馬ソロルと同じく、西谷誠騎手と中竹和也厩舎のコンビ。
先月の騎乗をもって現役を退いた林満明騎手が最後に勝ちあがらせた障害オープン馬。
清々しいまでの完敗だった。

「悔しいな。でもアップ、ときどきこういうことがあるから。」
阪神スプリングジャンプサナシオンに逃げ切られたときのことを思い出していた。
落馬負傷した主戦にかわり、白浜雄造騎手がはじめてアップトゥデイトの手綱をとったレースだった。
そのときも今回も、敗因のひとつに鞍上を挙げなければならなかったのだろうかと。
そもそもファンが抱く『悔しい』という感情とはいったいなんなのだろう。
彼らのために悔しいのか、それとも自分のために悔しいのか。
思い描いた結果とかけ離れてしまったから悔しいのだとしたら、後者なのだろう。
しかしわたしたちは、誰もが負けたくて負けているのではない、勝つために最善を尽くしても必ずしも報われるわけではないということを知っている。
だから前者でもあるのだ。

アップトゥデイトは障害レースにおいては最高の結果を求めてもいい、いや求められる立場にある馬だ。
でもそれだけが彼の生き様ではない。
たとえばライバル打倒のためだけに走っているのではないし、勝ち負けとは結果で、数えきれないほどのベターとベストを積み重ねたうえに成り立っている。
その中にはもちろん新たな主戦を抜擢した陣営の決断も含まれている。
目下の結果としてまずは黒星がついた。
これを今後どう活かすかを彼らはまた考え、実行する。競馬とはそのくり返しだ。

戦い終えて馬場から引きあげてきた勝者たちを、白浜騎手は悔しさをにじませながらも終始笑顔でたたえていた。
見るからに気持ちのさっぱりした潔いジョッキーだ。
実は私は彼のことをあまり知らない。
だからこれからアップトゥデイトとともに知っていきたい。
応援とは相手を、かかわる他者や世界を深く知ることでもある。
ずっと見ていてさえ初めて知ること、まだまだ知らないことがたくさんある。
そういう機微をできるかぎり、余すことなく見ていきたいのだ。

たぐいまれなる強者として、彼らは多くのひとに多くを願い望まれている。
しかし競馬とは自分たちの戦い、自分自身との闘いだ。
わたしたちもまた、オジュウチョウサンの、林騎手の存在をいつまでも見出し、比べつづけるのではなく。
勝利を当たり前のように求めるのでもなく。
あんまり結果に固執し過去にとらわれすぎると、まるで今とこれからの未来を減点方式で見てしまうようだ。
大切なことにあらためて気づかされた一戦だった。

名コンビになっていってほしい。
自分自身のために。自分たちの道を行きながら。
彼らにはそれができるはずだ。

 

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オジュウチョウサン、その夢のあとさき

「走ってほしくないなあ。アップトゥデイトとの対決を見たいから。」
先日現役を退いた林満明騎手の言葉をたくさんの記事の山から見つけたとき、これだと深くうなずいた。
アップトゥデイトが勝てないオジュウチョウサンって何者なんだ。
探し求めてやまない答えを、あらためて競馬の中で問うてみたいと思った。

障害レースにメイクデビューはない。
かわりに未勝利戦があるのみだ。
競走馬はほぼ例外なく平地競走からスタートを切る。
惜しくも勝ちあがれなかった馬や頭打ちとなった馬、その中でも素質や気性を見込まれた馬が、まずパートナーとともに横木を跨ぐところからハードル界に足を踏み入れる。
やがて頭角をあらわし、自信と実績を得た馬がかつて断念せざるを得なかったフィールドで再挑戦をする。
そんな道もあっていいはずだ。
それは決して今までたどってきた道を蔑ろにすることにはならない。
オジュウチョウサンほどこの挑戦にふさわしい馬はいない。
新天地でこれほど才能が開花し、未知の可能性を感じさせてくれた馬はいなかったのだから。
もっとも、彼が類い希なる才と強さの持ち主だからこそ、ありとあらゆる葛藤が渦巻いているのだけれども。

競馬における挑戦とは、ひとり胸の内に秘めていた夢を他者に打ち明けるところからはじまる。
閃きを得て、決意表明をして、模索をしながら、突き進む。
決断や過程が正しければ必ず結果が出るとは限らないし、逆に思わぬ成功をみることもある。
正解不正解でひとくちに語れるものでもない。
馬が自らの意志で選んで走るのではないから、周りにいる人間のありかたで真価が問われる。
その馬に関わるひとがどういうひとたちなのか。
オジュウチョウサンに携わるひとたちは、尊敬と信頼に値するプロのホースマンだ。
馬を愛してやまないオーナーと、信念をもった厩舎陣営。
そんな彼らが新たに夢を想い描くのは、いけないことだろうか。
夢を叶えるための覚悟をもった挑戦は、無謀な冒険なのだろうか。
険しい道となることは他ならぬ彼らが百も承知だろう。

戦場が変わっても、絶対王者の足音は力強いままだった。

競馬ファンとしては、心躍る挑戦にこのうえなく胸がたかぶった。
障害ファンとしては、稀代の障害王者を失うかもしれない恐れを抱かずにはいられなかった。
アップトゥデイトの応援者としては、生涯のライバルを失うかもしれない寂しさと、しかしこれも競馬だという達観があった。
ではオジュウチョウサンに惹かれる者としては、私は何を思えばいいのだろう。
開成山特別へのカウントダウンが切られたときから、そのことばかりをずっと考えつづけてきた。
ほどなく「今年は障害に戻すつもりはありません」と、勝利の興奮さめやらぬなかでオーナーサイドのコメントが目に飛び込んできた。
予期されていたひとつの未来が示唆された瞬間だった。
暮れの大障害コースで相棒の石神深一騎手とともに猛々しく躍動する姿を見られないことがほぼ確定的となり、想像していた以上につらい。
競馬ファンとして、障害ファンとして。
オジュウチョウサンに惹かれる者として。
そして、アップトゥデイトの応援者として。
すべての立場において、心の底から、口惜しい。

オジュウチョウサンと厩舎陣営の挑戦はこれからもつづく。
まだはじまったばかりだ。
具体的にどのような道をゆくかは明かされてはいないが、なんといっても馬も人もレースもみんな型枠にはまらない意志を持った生き物だから、途中で話が二転三転する可能性は大いにありうる。
今は安堵と高揚のなかで真っすぐに前だけを見据えていることが言葉の端々から伝わってくる。
しかし夢や信念が必ずしも真っすぐ叶えられるとは限らない。
最善を尽くしたとしても、思い描いたとおりのストーリーに仕上がるかどうかはわからない。
変えても変わってもいい。
そうすることは嘘つきでも、逃げでも、格好悪いことでもない。
たとえ曲げても曲がっても、当事者である彼らがよりよい選択を重ねていくだけだ。
ゆく先でふたたびハードルとまじわる道も、もしかしたらあるのかもしれない。
長年苦楽をともにしてきた人馬が邂逅する未来も、あるのかもしれない。
でも、だからといって「戻ってきてほしいから負けてほしい」とは、誰もなかなか思えるものではないだろう。
競馬を、競走馬を、愛することを知っているならば。
誰だって好きな馬にはがんばって勝ってほしいと願っている。
だからこそ、誰もが言葉にしがたい複雑な想いを胸にくすぶらせながらも、今日という日の挑戦を固唾をのんで見守った。
見守らずにはいられなかった。
おそらくこれからもずっと。

喜びも、寂しさも、驚きも、興奮も、疑問も、悔しさも。
オジュウチョウサンは私にすべてをもたらしてきた。
アップトゥデイト中山大障害連覇の夢を、問答無用の力で阻んできたあのときから。
どこへいくのか、どこまでいくのか。
彼はいったい何者なのか。
答えはきっと、すべてのレースが終わったあとにしかわからない。

 

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