うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

重たさと読まれなさと、気楽さと

sizu.me

 

書いてることほぼ今までの記事とおんなじなんだけど、あっちのほうがわかりやすいなあ。
ブログのほうで真面目に書こうと気負うほどに長く、わかりづらく、つまらなく、読みづらく、反応しづらい記事になってしまうのがずっと悩みの種。
向こうみたいに気楽に書くよ〜、と思えればいいんだろうけど気楽な話ではないし、そういう話ほど気楽に読んでもらいたいんだけど、わたし自身は気楽じゃないから難しいよねえ。
書いて出すときはいつも緊張するし、覚悟もしている。いたって真面目なのだ。
向こうでだってそれは一緒のはずなんだけど、場所が違うと気の持ちようも変わってくる。
わたしは、ブログでは、真面目な気持ちと言葉で伝えたいのだ。
だけどそうすると重たくなる。重たい記事というのは、読むのも反応するのもそれについて考えるのにも気合がいる。だからなんとなくアンタッチャブルな雰囲気をまとってしまう。はなから触らないほうが気楽なのだ。そういうことばっかり、こっちでは書いている。
必要な人にだけ届けばいいとは思ってるんだけど、読まれないのはそれなりにむなしい。やっぱり誰かに向けて書いてるわけだから。
矛盾してるなあ。そら読んでもらいたいです。重たいもん書いといてなんだけど。
だから、ここの他に書ける場所ができたのはほんとうによかった。
しずかなインターネット、ほんとうにおすすめ。

 

 

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生きて愛した証は残る

連休中に、思い出の整理をした。
もらったものと、最低限のものだけを手許に残す。
自然に忘れていくのなら忘れよう。覚えていることはいつまでも覚えているだろう。
愛と情熱をもって見ていた頃の競馬のことは自分でも驚くほど覚えている。馬名を見ただけでもたくさん思い出せるのだ。
だけど全部は持っていけない。持っていられない。前へ進めなくなるから。
覚えていられるだけ、持っていられるだけで充分だと今は思える。

わたしは、いいファンではなかった。
永遠にはつづかない情熱を燃やし、やはり志半ばで燃えつきてしまった。
好きだという気持ちばかりを押し出して、書き散らして、たくさんの人に迷惑をかけた。傷つけたり、嫌な思いをさせた。
この押しつけがましさのせいで縁の切れた相手もいるし、わたしを嫌いだという人もそれなりにいるだろう。
大人ではなかった。みっともなくて、恥ずかしい人間だった。
だけどわたしはやりたいようにやった。やりつくした。
思いっきり好いて、力いっぱい応援して、行きたいところへ行って、見たいものを見て、会いたいものたちに会って、無事と最善を祈り願った。
だから後悔はない。
後悔ではないけれど、なぜもっとじっとして、慎ましやかに、おだやかに、ただ心の中で好きでいるだけではいられなかったんだろうと、すべてが終わった今になってふり返る。
恥ずかしい好きかたをしたなあ、とは思うのだ。今ならもうちょっとうまくやれるのにと。

想いは伝えるべきではなかったのか。
最後まで貫けないのなら、はじめからないものとして心にふたをして、口を噤んでいるべきだったのか。
誰かを傷つけるのなら、何も書くべきではなかったのか。
何もなかったほうがよかったのだろうか。
好きになってしまって、伝えてしまったわたしにその答えは出せない。
うっかりと好かれてしまった人たち、かかわりを持ってしまった人たちにたずねることもできないし、そうするつもりもないから、答えは永久に出ないだろう。
ただひとつだけはっきりしているのは、それでも伝えずにはいられなかった、ということ。
好きとはエゴだ。想いを伝えることだって、そうだろう。
それでもわたしはやりたいようにやったのだ。
だから後悔はないけれど、折に触れてはよみがえってくる恥ずかしさに駆り立てられて、ようやく思い出の整理をした。
これは恥隠しだろうか? 自分への戒めだろうか? 思い出の封印だろうか? どれも当てはまる。
だけど、わたしがわたしの整理をしたって、わたしを知っている覚えている人たちからわたしが消えるわけではない。
どれだけ望んだって消すこともできない。自然に忘れられていくまでは。
逆にいえば、いくら忘れないでと願ったところで、忘れられるものは忘れられるのだ。
どんなに覚えていたくても、たとえ今際のきわまで覚えていたって、人間はいつか必ず死ぬし、記憶も一緒に消え去っていく。
それでいいやと思えた。

今、わたしの手許には、選りすぐった少しのものだけが残っている。
ずいぶんとかるくなった。これで残りの人生をそれなりに歩いていけるだろう。
執着となって重たく凝りかたまっていた愛を自由にして、わたしもまた解き放たれる。
そのために、たくさんのものを手放した。
手放しても大丈夫だと思えたのは、手放したのと同じくらい、いやそれ以上にたくさん書いてきたからだ。
書いたから覚えている。思い出せる。忘れることはない。
わたしが見て聞いて思い感じたことのほぼすべてが文章の中にある。
何もなかったわけがない。なかったことにだってならない。どこへも消えない。
いつかわたしや誰かが忘れたって、この世に文字が在りつづける限り、ずっと残りつづける。
日記が、備忘録が、観戦記が。ファンレポが。ファンレターでありラブレターが。
もう恥ずかしいとは思わない。悔いてもいない。思い出となった今はただすべてが懐かしい。

わたしは充分すぎるくらいに残した。生きて愛した証を。
幸せな記憶と思い出が手許に残った。
これからも好きでいられる。
思い出を胸にしまって、時々は取り出して懐かしんだりしながら、前を向いて生きていける。

「好き」を好きなように

sizu.me

しずかなインターネットで書いてる途中に「これ最初からブログに書いたほうがよかったな〜」ってことがよくある。「まあいいや〜」って思いながら共有。
続けても休んでもやめてもいいけど、わたしが言えることではないから「たくさんのあなた」に、こういうところでこっそり言います。
続けるのも休むのもやめるのもぜんぶ、向きあいかたのかたちです。わたしは「好き」と向きあう「たくさんのあなた」が好きです。

望まぬすけべが描かれる世界

うわあ、もうやっちゃったか。

今後の展開によっては好きな作品になるかもしれないな、と様子を見ていた漫画が予想よりずっと早くすけべな展開になってしまったことに幻滅した。ひとりで勝手に。
もっとゆっくり丁寧にふたりの感情だったり、周りとの擦り合わせとか、コミュニケーションを深める過程なんかが描かれていくもんだと思っていたから「えっ…、ええぇっ、もう、そういうことするの!? もう!?!?」と、あまりの展開の早さに作者の思惑以上の強い力を感じてしまった。
これもそういう漫画になっちゃったのか。そうじゃないと思っていたのに。そうじゃなかったじゃん最初は。もっとゆっくり丁寧だったじゃん。だから期待していたのに。そうか。そうなのか。そうだったのか。そうなっちゃったのか。
こっちの勝手な期待が外れてしまっただけ、勝手に期待してただけ、といえばそれまでなんだけど。
やっぱりそういうアプリで連載を持つと、そういうニーズに応えちゃうんだなあ。
恋愛とセックスを描けって言われちゃうんだ、やっぱり。
紙媒体の雑誌で連載がはじまった頃とは明らかに作風とスピード感が変わったもんなあ。
あのアプリの連載漫画、恋愛からセックスへ向かうタイプの漫画が多いし、一抹の不安は正直あった。
気の弱そうな女性がいけめんに強引に迫られながら頬を赤らめたり困り顔してるサムネイルばっかりだし。
女性向けだしまあそういう媒体なんだな、と苦手なものには目をつぶって気に入った漫画だけをお気に入りにして読んでたんだけど、毎日無数のそういうサムネが目に入ってくるだけで胸焼けがしてきてやめた。頭がへんになりそうだったのでアプリ自体をアンインストールした。
みんなそんなに他人の恋愛とセックスの話が読みたいのか。わたしにはわからないよ。
そういう漫画で描かれる恋愛ってすけべを描く口実みたいなところあるしなあ。
そんなに見たい?他人の恋愛とセックス。供給過多じゃない?描くほうも読むほうも望んでるからwin-winなの?
だとすれば漫画、だけじゃないやエンタメが推してくる恋愛至上主義にはついていけないや。

好きになれそうだった作品を、自分勝手な幻滅とともにひとつ失った。これはしょうがないさよならだ。

きょうは天皇賞だったんだ

もうツイッターもときどき流し見るくらいになったから、人に言われてようやく「ああ、そういえば」と思い出すっていう。
わたしが競馬を熱心に見ていた頃にデビューしたり若手だった人たちが年齢とともに経験を重ねて、大レースを勝ったりして。
その時の流れと営みにわたしはもう寄り添ってはいけなくなってしまったけれど、遠くから風が吹いてくるように、話に伝え聞くだけでも嬉しい気がする。
そういう感情がちゃんと残っていたのは自分でも再発見だったし、嬉しいことだった。