うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

母との四十余年を想う

わたしは母が怖かった。ずっと。
とても愛しているけど、人間同士としてはどうも合わない。価値観が違いすぎる。そのことがふたりの関係性を難しくし、わたしを苦しめつづけた。
だけどがっかりされたくなかった。心配をかけたくなかった。喜んでほしかった。
結婚をして子を産んでみせられなかったこと、親孝行ができなかったことを、ずっと負い目に感じながら生きていくんだろう。
たとえわたし自身がそれを望まなかったのだとしても。母がはじめから赦してくれているのがわかっていたとしても。
母はわたしの最大の愛であり、呪いでもあるのだと思う。
なおこの「呪い」にネガティブな意味はない。
呪縛に近いのかな。でも縛られてるとはまったく思っていないからそれもちょっと違う。
「絆し」がしっくりくるかな。家族って、「絆」というよりそっちに近い。
だからほんとうは離れたほうがいいのかもしれないけれど、それもままならない今なので。
どこかでもう一度家から離れてひとりになる、という道を選んでもいいのかもしれない。
いずれは戻ってきて、最後まで一緒にいるのだから。
わたしはわたしのためにもう一度、ちゃんとひとりになりたいと思う。いつかどこかで。
そのために自分と向き合って、力をつけていきたい。
そうすれば母もいくらか安心するだろう。

ただ生きて、暮らしていく

逃げ恥(漫画)とはわかりあえなかったし星野源の歌は恋しか知らないけど、
意味なんかないさ暮らしがあるだけ
という歌詞に、今とても救われた。
人生に意味はない。あるとすれば後付けだ。生まれてきたから、生きて暮らしていくだけ。
それでいいんだと赦された気がした。

わたしは、腹を括ったこの先の人生に軽く絶望をしていた。
老いていく母と暮らしていく、この先の人生。
母は毎日酒を飲む。酒を飲んだら話が噛み合わなくなるし、次の日には話したことを忘れているし、早い時間から寝落ちする。
このごろそれらがパワーアップしてきたので、年寄りというのはそういうものだと思って、前みたいに怒ったり嘆いたりせず、適度に流して世話を焼いている。
もう酒のせいなのか老いのせいなのかよくわからない。
今みたいなゆるやかに世話を焼くみたいな行為は、いずれ介護へと変わっていくんだろう。
母はもうおばあちゃんなのだ。そらそうよ。孫だっているんだもの。
最近やっと認めた。強くて怖かった母は歳をとって相応に弱ってしまったのだと。
たぶん母はボケる。確信に近い予感がある。
わたしはくそまじめに思いつめる性格なので、たまりかねて母をぶん殴ってしまう前に施設へ入れるか行政に頼る。それまでがんばる。最善を尽くす。敬意と愛情をもって寄り添う。
あとはひとりで生きてひとりで無事に死ぬ。

あっ、だけど、いつまで弟も一緒に暮らしてるのかな。
どこへも行っていないのなら、おそらく変わらないであろう弟の世話も並行してくる。
母とわたしが末っ子の彼を甘やかしたせいで、なんにもしない男にしてしまった。責任を感じている。
今回の事故でいろんな話をしたし、多少は変わってくれるかなと期待したけど、どうも彼自身はあんまり堪えてもなさそう。歳をとった人間が変わることは難しい。
だから家事はずっとわたしの仕事だ。これからもずっと。
どうして? 不公平なんじゃない? いつまでつづくの? ずっと?
あなたは優しい人だけど、優しさだけでは一緒に暮らすのには不十分だよ、弟よ。
近ごろそんなことばかり考える。疲れているのかもしれない。

しかし、わたしは決めたのだ。これからは家と家族のために生きると腹を括った。
だから今までみたいに趣味に欲しいものにやりたいことにと謳歌する自由な時間は終わりにした。
以来、なにをするにつけても金に糸目がつく。
したいこと、行きたいところ、欲しいものが思い浮かんでも「でもお金かかるしなあ、我慢しよ」で打ち消してしまう。
あきらめ癖がついた。青春がひとつずつ終わっていく。わたしもまた老いていく。
一方で、金の話ばかりしてる人を見るといやしいなと感じる(そういう人が職場にいる)。
でも、そういう人とわたしになんの違いがあろう。
豊かで充実している人から見れば、好きなことに金と時間と情熱を費やせない人生もまた矮小でいやしいのではないか。そんなことさえも考えてしまう。
SNSで知り合った人たちはみんな豊かで充実しているから、こんな自分を恥じてしまう。
だから遠ざかった。ふりかえれば学生時代の友人らから逃げたのも、ひとりだけ職は安定せずパートナーもいない自分がみじめだったからだった。

いやしくて、小さくて、なんにもない中年になってしまった。
そうまでして、わたしが生きる意味とはなにか。
家と家族のためにただ生きて死ぬのか。
でもそれは母が子のために生きてきた半生でもある。
順番がまわってきたのか。それとも報いなのか。
母が誇れるいい娘になれなかった、失敗作になってしまった罰なのか。
母はわたしに何も望まなかったけど、ほんとうは結婚して子を産んで欲しかっただろう。
否、自分が離婚をしたから、したくなければしなくていいとも思っているだろうけど。
わたしは自身の性質ゆえに他者との暮らしを望まなかった。
ともに暮らしていくことを望んだ相手が家族だった。だから腹を括ったのだ。
だけど、それがこれなの? という気持ちに正直なってもいる。
先が長い。終わりが見えない。夢も希望もない。
人生ってこういうものなのか。うまく生きられなかったツケなのか。

わたしは何を望んでいるのか。
意味がなくても、ただ平穏に暮らして、ただ生きて無事に死にたい。家族にもそうであってほしい。
豊かさとは金だけではないはずだ。金はぜったいに必要だけど、だからといって必要以上にいやしくなることはない。
生きることは難しくて苦しいけれど、死なずに生きてきた自分をまず赦したい。前向きに生きようと思えている今の自分を卑下するのもやめたい。ちょっとは好きなこともしたいし、自分の楽しみだって持ちたい。
家のために、家族のために。
わたしが背負わなければと思ったし、そのつもりでいるけれど、気負うことはやめようと思う。
ちょっと疲れた。しんどかった。ひとりでやるのには限界がある。だから家族がいるのだ。
わたしはただ暮らしていく。自分のために。

小倉競馬場へ行きたかった

「あきやんの引退式、小倉なのか。」

tospo-keiba.jp


ちょっと意外だった。
そんな心の声が漏れたのは、阪神競馬場でやるとばかり思っていたから。
小倉。いいじゃないか小倉。
小倉は好きな競馬場だ。大阪から行きやすくて、食べものもおいしく、遠征との相性がいい。
気がつけばわたしは名門大洋フェリーの会員ページを開いていた。
予約シミュレーションをしてみる。
なんと満席だ。いや正確にはデラックスルームしか空いてない(2月11日夜の時点で)。みんなわりと乗るのね船。卒業シーズンだからかな。

フェリーがだめなら新幹線で日帰り。
アカンめっちゃ高い。そもそも今は旅行をしている余裕がない。家も家族も大変だし。

なら現地はあきらめて、阪神競馬場だ。
朝イチで並んで先着順に配布されるメモリアルリーフレットなるものをもらったとして、中継が流れるであろう最終レースのあとまで場内で待機する。
一日仕事だ。もちろん合間に見たい人馬はいるだろうけど。
それにしても、そんなに長い時間を場内で過ごしていられるだろうか。肉体的にというより精神的に。
昔はしょっちゅうやっていたというのに。それが楽しかったというのに。

もっとも引退式の模様はYouTubeライブ配信されるらしいし、遠くない未来で調教師秋山真一郎には関西の競馬場で会えるわけだから、生の引退式に立ち合えなかったとしてもそこまで残念がることはない。
……まあ、いいじゃないか。
納得した瞬間、わたしの心の中の「わくわくさん」が死んだ。
一瞬を尊ぶ魂が。好きな人馬と同じ空気を吸い、同じ時間を共有する喜びを追い求める心が。ヲタクマインドが。
現地リアルタイム至上主義だったわたしの魂はコロナ禍で瀕死の重傷を負った。
サウンドキアラのヴィクトリアマイルを観に行けなかったのが致命症となって、個人の想いの力だけではどうにもならないことが世の中にはあると知り、あきらめることを覚え、何度もそうしているうちにやがて競馬から離れていく一因となった。情熱の喪失である。

だけど今はこうも思っているのだ。
今まではどうにかできていたからどうにかしていた。心も体も金も、ない力をふりしぼって、やっぱりどこか無理をしてきたのだ。
もしもコロナ禍がなかったとしても、わたしは似たようなタイミングで競馬から離れていたと思う。まったく逆の理由で。
情熱の喪失でなく、オーバーワークで。
擦り切れて燃え尽きて疲れ果てて、気力も体力も金もすっからかんになって、廃人同然になっていたと思われる。
まあそれは極端なたとえだけれど、もし想いが気合と根性で叶いつづける世界のままだったなら競馬そのものを嫌になっていただろう。
今よりもifのほうが悪い。いいかたちで卒業ができた、と言っていい。

現実問題、今は小倉へは行けないと頭の中ではわかっていた。
だけど行くことを思い描いて経路を調べていた。
それが秋山ジョッキーのラストライドと式典のためというのが、われながら不思議でおもしろかった。
人としても騎手としてもいわゆる「おもしれー男」。
ストライドはメイショウウタゲのエニフステークス、というのはこれからもしつこく主張していきたい。
アイアムカミノマゴ阪神牝馬ステークスの衝撃も捨てがたいけれど。

「むしろウツなので結婚かと」を読んで考えた。

こんな漫画があるのは知っていた。けど、ずっと避けていた。
「競馬に、結婚が絡んでくる漫画なんて!」と。う〜ん恥ずかしい。
だから読むなら今だと思った。
競馬という趣味を手放し、家族のために生きる決意をした今だと。

 

comic-days.com

 

一気に読んだ。
オフ会で知り合った男女と、競馬と、ウオッカと。まじわりあう彼らの生のお話。
競馬って、人生なのだ。
競馬って一度見ると、常に人生と並走してくる。
わたしが挫折から立ち直ろうとしているとき、あのふたりは死の淵に指をかけて懸命にぶらさがっていた。
わたしたちは違う場所で、だけどウオッカを見ていた。たったそれだけのことでまるで運命共同体のように感じる。
それが競馬だ。ひとりひとりの人生の中に、違うかたちで、同じ馬がいる。
どうして競馬を好きになったのかを思い出した。
どうして競馬がつらくなったのかも思い出した。
好きすぎて、自らを重ねすぎて、そして重たくなりすぎた。
体は離れたけれど、心までは捨てきれなかった。ただ並んで走れなくなっただけ。
わたしはやっぱり競馬が好きだ。その事実から逃げようとしていたけれど。

前に似たような漫画を読んだことがあるなあと思い出した。
「ツレがウツになりまして」だっけ。あっちもパートナーの男性が発症して、女性が寄り添い支えるお話。
読んでいて正直めんどくさいな……と思った。めんどくさいぞセキゼキさん。
人の心がわかるくらいには繊細で、人の献身を煩わしく感じるくらいには傲慢で、迷惑かけてる自分を嫌悪するくらいにはプライドが高くて。だからこそ鬱になるのね。優しすぎるのね。考え感じすぎるのね。
それでいて自分がわからなくなって、自分と人を傷つける。無意識のうちに死へと向かっていく。人間が壊れていく過程というのは、他者の視点からのそれは、地味に静かにこわい。
鬱というのは心の病というよりも体、脳の機能の故障だ。
頑なに否定しつづけていたセキゼキさんとは逆で、わたしは心を病んだとき「鬱なのでは?」と何度も思ったものだけど、これ読んでぜんぜん鬱ではなかったなあと再確認した。
「死にたい」とも「生きたくない」とも思ったけれど、あんなにまでわけがわからなくなったことはない。
自分と他人と世界、という意識と線引きはいつもあった。至極まともだった。
正気だったからこそ立ち止まるための大義名分を他者から与えられたかった。
ただ生きるのが難しくて億劫でしんどかっただけの、すこぶる健康な人間だった。そしてそれはとても幸せなことだった。
家族はわたしを信じてくれたのに、わたしが家族を信じられなかっただけ。
自分を信じられない者には、信じてくれる者と、信じられる者だけが救いだ。
当時のわたしには家族と競馬、シロイさんとセキゼキさんにはお互いとウオッカ
だけどわたしはシロイさんみたいに、あんなにまで他人のためには尽くせないだろう。だから結婚とは縁のない人生になったわけだけど。
何かができるとしたら、はじめから家族だった人たちのためにだ。
他人だったふたりも、だから結婚して家族になったのだ。

「やっぱり競馬が好きだな」とか、「信じるとは何か」「何をもって裏切りと感じるのか」とか、いろんなことを考え感じながら、一気に読んだ。
「自分以外の誰かと生きる」とは、信じて、信じられること。それを得られるのは得難く幸せなことで、同時に難しいことでもある。
わたしは、人を信じられるだろうか。人から信じてもらえるだろうか。
これからの人生で、生涯をかけて得なければならないものを、思いがけずこの漫画の中に見た。

日記

sizu.me

“わたしを嫌いな誰かのためにわたしは死ぬわけにもいかないし、わたしの場所でもあるところからわたしだけが消えなきゃならないなんて冗談じゃない”

 

 

しずかなインターネットで書いてる日記、なんだか毎日つづいてます。みんな日記書こうぜ。