うまいこといえない。

うまいこといえないひとがつたないなりに何かを残し誰かに伝えたいブログ。

それでもひとは旅に出る

ビジネスホテルが好きだ。あれは大人の秘密基地だ。
旅の目的は一、二点集中型。
競馬場へ行けてた時分は目当てのあの馬、あのレースのために。
行きたいところへ行って、食べたいものさえ食べられたら、あとはゆるゆるでいい。
今なら目当てのカフェのデザートセットとか、あの店のカレーとか、そういうささやかなもの。
ところが、旅の仲間がいるとそういうわけにもいかない。

人と旅をするのはたいへんだ。行く前から、行ったあとまで。
時間や希望、ライフスタイルや価値観のすりあわせ。
女性同士で温泉へ行くのであれば、月のものが極力カブらないよう綿密な日程調整が必要不可欠。
意見の衝突も起こるかも。
なにせ家族間でさえもハナシがなかなか決まらず、何度もなんとなくハナシごと流れた。今回も春先まで延び延びになった。
ウチの人間はわたし以外みんな出不精なのだ。
旅に出るにはわりと強固な意志がいる。なんとなくでは固まらない。
ひとりで決めてひとりで出てきたほうがよっぽどハナシが早い。
でも、人とする旅も、そろそろ恋しい。
旅館に泊まる大義名分を得られるし。

そう、わたしは旅館も好きだ。
おひとりさまもだいぶ市民権を得てはきたが、ひとりではまだまだ旅館には泊まりにくい。コストの壁もある。
昨年思い切って某温泉に素泊まりしてきたのだけど、複数人でシェアすべき空間にひとりで居座っている、そんな申し訳なさを感じていまいちくつろげなかった。
素泊まりだからお金もたいして落とせてないしね。
旅館。あれは憩いの場だ。大人の遊び場だ。
仲間と一緒になって、施設やお風呂やご飯にキャッキャはしゃぎあうのが楽しい。
ひとりだとその遊びができない。もちろん静かな感動はひとしきり得られるが。
ちょっとお金をはずんだら泊まれる権利は得られるのだけど、そういう問題でもないのだ。
これはやってみなければわからない実感だった。
単にわたしのおひとりさま熟練度が足りないだけなのかもしれないが。

旅行って、無駄を楽しむ究極の遊びだ。
お金も時間も労力もふんだんに使ってめちゃめちゃに遊ぶ。
ひとりでも誰かとでも、ここではないどこかへ出かけて家ではないどこかに泊まるのは心ときめく。
このときめきを味わいたくて仕事や生活をがんばったり、あれこれ計画を立てて心躍らせる。
そろそろまた味わいたい。ひとりでも誰かとでも、どっちでも。
今のご時世、まだまだ遠くへは出かけづらいけれど。
ほんのちょっとだけでも、慣れきった暮らしから抜け出して、どこかへ遊びに。

 

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不惑を前にして

結婚して子どもを産んで親孝行する。普通の人間になれなかったことに、なぜか今さら傷ついて。
あらためて傷つくことで、もともと自分自身が自分の人生に深く他人を求めてないと確信した。
自分が望んでもいないことで、誰かを幸せになんてできないのだ。親しかり異性しかり。
それは偽りの幸せだ。
そんな当たり前のことに今さら気づいて、ちょっとだけ力が抜けた。
気づいてよかったのか、気づかなかった方がよかったのか、今はまだはわからない。
でもわたしは、今までどおり嘘をつかずに生きていきたいとだけは、確かに思っている。

指定席、悲喜こもごも

そんなこといったら、わたしだってサウンドキアラのスワンステークス(予定)は何が何でも観に行きたいのだ。
これはもう運を天に任せるしかない。
当たるも外れるも、とにかく己の運次第なのだ。

なので、行きたかったけど抽選に外れた人の気持ちはとてもわかる。
けど同時に、当たったけど行けない、やむにやまれず行かない選択をした人もべつに責められるべきではないとも思う。
羨みこそすれ恨みはしない。
どうにも界隈が「席当たったのに行かなかった人なんなん」な雰囲気に流れつつある気がして、これはちょっと怖い流れだぞ、と内心感じたりしています。

当たったなら席を買うべき。
外れたけど行きたい人がいっぱいいるんだから行くべき。
買わない、行かないなんてもってのほか…
言いたい気持ちはすごくわかるんです。わたしにも、何が何でも現地で観たいレースがあるから。
でも、なんでも「~すべき」がいちばん怖い。
他人が強制したり責めてもいいことって、実はそれほど多くはないから。
「せっかく当たったのなら行って楽しんでほしいよ!」って願うのと、「当たったのになんで行かないんだ!けしからん!」って怒るのとは、似て非なることで。
ちなみにこれは誰かを指して…とかそういうのではまったくないのです。
なんとなくある風潮に対して自分なりに思い感じることをつぶやくのもまた権利のひとつ。

もっといろんな人や考え方に対して寛容であるべき、なんて言い方したらいかにも堅苦しくなっちゃうのですが。要するに。
せっかく競馬場がちょっとずつファンに開放されはじめたのに、ファン同士が「なんなん」って思いあうの、もったいないじゃないですか。
ちょっとでもみんながしあわせになるために、公にキャンセル募集してくれたらいちばんいいんですが。ね。指定席を買う権利。
たぶんシステム的に難しいんだろうけど。

そんな秋の夜長のひとりごとでした。

キラキラにあこがれて

今年こそは、思いきってクリスマスコフレ買ってみたい。
暮らしを飛び越えた先のキラキラを手にしてみたい。
でも高価だし、それよりまず服とか雑貨とか生活の足しになるものをつい優先してしまう。
あこがれているキラキラに見合う価値が果たして自分にあるのか?ないでしょ?と自問自答しているうちに、想いを遂げられず毎年終わってしまう。
キラキラを身にまとう自分を、どうしても受け入れられないのだ。

わたしは美しくない。
かわいくもない。
骨太でがっしりしてて太りやすい体質だし、色も白くない。
女性らしいかわいさや美しさを半ばあきらめて生きているうちに、かわいげもなくなってしまった。
わたしは自分の容姿がきらいだ。コンプレックスだらけ。
こんな自分を変えるべく、近年はイメージコンサルタントを採り入れてみた。パーソナルカラーと骨格タイプ診断だ。
ひとには髪や肌、瞳の色によってそれぞれ似合う四季の色グループがある。
生まれもった骨格によって3タイプに分類され、それぞれ似合う材質や形が違う。
ふたつの診断によって、自分の似合う装いがわかるというものだ。
くわしくは検索してみてほしい。理論的で奥深く、すごく面白いです。
結果、わたしはブルーベース冬、骨格タイプはストレートだった。
似合う色はモノトーン、青みのビビッドカラー、淡い淡いアイシーカラー。
ベーシックで女性らしいブラウンやベージュ、くすみカラーはタブー。10歳老けて見える。
似合う形はVネック、タイトスカート、センタープレスのストレートパンツ。かっちりした縦のライン。厚み光沢ハリのある上質な素材。スタンダードなもの。
トレンドのオーバーサイズやドロップショルダーのゆるっとした格好をすると、だらしなく着太りしてしまう。
薄いやわらかい素材も体の厚みに負けてボディラインを拾い、肉々しくなってしまう。
ああ、やっぱり、かわいくない。
似合うを追求したら、くそまじめに強い印象になるばっかりで、ちっともかわいくないのだ。

わたしはかわいくなりたかった。物心ついたときから。
フリルやレースをあしらったシフォンのやわらかなブラウスや、ひらひらとかろやかなマーメイドスカートをはきたかった。
ちょっとくすんだパステルカラーの、清楚でエレガントなメイクをしたかった。
極論、ウェーブサマーの華奢な女に生まれたかった。
でも好きな格好をしてもぜんぜん似合わない。似合うとはまったくの正反対だから。
いくらかわいいを身にまとっても、自分というものがぼやけてしまうのだ。
べつに診断の結果にとらわれる必要もないし、似合うものを着なければならない決まりもないけれど。
やっぱり、ウインターストレートの装いがいちばん馴染む。
これはこれでとても意味と価値のあること。
悩んで苦しんでようやく得た答えなのだから。

でもわたしは、かわいくもなければ、きれいでもかっこよくもない。そんな自分を赦せない。

でも、けど、だって、どうせ。
ずっとそれが口癖になっていた。
こんなひと、そりゃかわいくない。
なので、だめなところを省みるのは置いといて、よかった探しをしてみる。
診断を受けてみてよかったのは、自分の生まれもった性質をプロという他者に客観的に見てもらうことによって納得が得られた点。
似合うものを選べるようになって、義務感と疑心暗鬼に駆られながらのつらかったメイクや服選びの効率がよくなった。
ちょっとずつファッションで遊べるようになって、装う楽しさを感じられるようになった。
もっとも、あこがれていたものがどうあがいても似合わないというあきらめも同時に生まれてしまったのだけれど…。
でも。
それでもいいかな。
何歩も前へ進めたんだから。
少なくともいまは、「でも、けど、だって」の卑屈なループから抜け出そうとしている。充分じゃないか。
なにより、生きてて楽しい。

クリスマスコフレに手を伸ばす勇気は、実はまだない。現時点ではちょっと足りてない。
そのかわりに新しいコートを予約した。
フィンレイソンのキルティングコートだ。
これが届いたら、このコートに合う色のマフラーを探しにいこう。
パッと華やかな差し色、ロイヤルブルーがいいな。ついでにアイシャドウも見てみようかしら。
ああ、美しくなくても、かわいくなれなくても、きれいでもかっこよくなくても、こんなにも心躍る。
これでいいんだ。きっと。
こうやってちょっとずつ、キラキラを身にまとう自分を受け入れていきたい。

ツイッターもブログも、心のままに

ツイッターでつながったフォロワーさんは競馬以外のブログは求めてない、ブログからの読者さんは日常雑談ツイートは求めてないっぽい。
ツイッターはこれまで築いてきた、ブログはこれから築いていく場所だからなのかな、ととらえてます。
心も暮らしもちょっとずつ豊かになっていって、よりどころにしてきた競馬だけが絶対の世界じゃなくなって、いろんなわたし、あたらしいわたしになっていけたらいいな。
それによっていったんさよならするひと、出会うひと、どちらもいるんだろう。
ひとの反応をみて求められるわたしになろうとするんじゃなくって、わたしはわたしの心のままにやっていく。

したいからする

日曜日、トレーニングを一日だけお休みした。
わけもわからず落ち込んで、心がいっぱいいっぱいになって、体と向き合う力がどうしてもわいてこなかった。
ずっと気分よくつづいてたから、穴をあけてしまってさらに落ち込んだ。

これはなんのため。
誰が褒めてくれるわけでもない。
べつに体を見せる人もいない。
毎日、自己満足のトレーニングをして、メイクをして、服を着て。
ツイッターして、ブログ書いて。

誰かに媚びてるわけじゃない。
赦しを得たいわけでもない。
認められたいのでもない。

でも、どこかで意識はしていた。
これをしたら誰かが喜ぶとか。
こう言ったら誰かが安心するとか。
こうしておけばなんとなく赦された気持ちになれるとか。
だいたいの人には嫌われずに済むだろうとか。
ひとりで勝手に見えない誰かと比較して、顔色うかがって、誰も傷つけたくなくて、自分も傷つきたくなくて。
当たり障りのない感じのいいひとになろうとしていた。

そういうのがいちばんしんどくてしょうもないのに!

ストレッチはじめたのはコロナ禍で激太りして「いま体型戻さなかったらおばさんから二度と戻れなくなる!ここが世界線の分岐点だ!」と思ったからで、目的がやがて健康体になる手段へと変わったからで、もうこれは完全にしたいからしてるだけなのだ。
メイクも、おしゃれも、ツイッターも、ブログもそう。全部そう。
したいからする。誰にも強制されてない。
そこに自分以外の誰かなんて、はじめからいないのだ。
なりたい自分になるために、自分が納得するために、好きなものを選んて、したいことして、このキツい人生なんとか楽しく生きて乗り切ってやろうというだけ。

誰か何かを意識するのもそれはそれで素敵な動機ですけど、いっぱいいっぱいのときは自分がなくなっちゃうのであんまりオススメしない。
自分がしたいからする、の力がいちばん強い気がします。そりゃそうだ。

お得意様になりたくない症候群

パン屋さんにですね、顔を覚えられてしまったっぽくて。
土曜日の仕事早く終わった日に、隔週くらいで食パン買って帰るんですけど。
それはもう気さくに話しかけてくださって。すごいいいひとだなぁって。
いつもありがとうございますって言われて、うわーこちらこそありがとうございますぅって喜ばなきゃいけないんだけど、うっ…てなって逃げたくなってしまいました。
(顔覚えられちゃった…もう気軽に寄れない…普通でいいのに…!)って。

どうもこんにちは、行きつけの店の顔馴染みになりたくないひとです。
行きつけの店には何も考えず気楽に行きたい。
そこでまで人間関係できてしまうと、日常で気を遣うひとがさらに増えてしまってキャパオーバーになってきつい。
そういう気疲れから逃れるために行きつけの店は大事においときたいので、できれば普通に応対してほしい。
さりげなくふつうに接してくれるのが理想。
顔覚えられるのはべつにいいんですけど、コンビニやスーパーみたいに必要最小限でいいです…。
ニコニコ仲良くしてくれたら、こっちも同じテンションでお気持ち返さなきゃならなくなるから。
それってもう人間関係だから。しがらみから逃れたくてホッとする場所つくってるのに…!

いや、でも店員さんとフレンドリーな関係求めてるひとのほうが多いのかなぁ。
まあわたしは変わってるからなぁ…。
わたし、ひととかかわるときは常に緊張してます。いい意味でも悪い意味でも。
どんなに親しくなってもリラックスはできない。
安らぎは人間以外に求める。行きつけの店ってそういう場所。
飲食店でも、買い物する店でも、サロンでも、なんっでも。

めちゃくちゃなこと言ってるのはわかってる…けど…!
できれば知らんぷりしてください!また気軽に行きたいので!
わがままでほんとごめんなさい!!