うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

捨てて拾って軽くなる

いい作品だけど自分にとってはしんどい、疲れる、合わない漫画、というのはある。
好きだったけどそうでなくなった、自分の価値観や作者の考えだったり思想や傾向なんかが変わって合わなくなってしまった、読めなくなってしまった漫画もある。
漫画に限らず小説や映画、ドラマも。エンタメ全般。
連休初日はそういうものたちの整理をした。Kindleライブラリをすっきりと片付けた。いま紙の本をこつこつと買いなおしていて、連休中は買いなおした本を読んで過ごすつもり。

さようなら、好きだったものたち。
ありがとう、きょうまでのわたしを創ってくれたものたち。

宝石の国の最終話を読んだ

なんにもできない、なにかになりたかったフォスはいろんなものと混ざりあって、知恵と知性と力を得て、他者と世界を知って、それゆえに傷つけて傷ついてひとりになって、孤独ゆえに研ぎ澄まされて、途方もない時間をかけて、小さな美しい石に戻っていった。

それだけといえばそれだけの物語だったのかもしれないけれど、わたしは宝石のくせに宝石たちに馴染めなくて人間くさいどうしようもないフォスがわりと好きだったので、あの彼はほんとうに人間と一緒に消えてしまったのだなと、なんとも淋しい気持ちにもなった。でも報われて救われたのならいいや。なによりなにより。

 

だれかのきぶんをあかるくしてるといいな。

この台詞、ぜったいにどこかで誰かの口から訊いてるはずなんだけど、それがどうしても思い出せない。
というわけでもう一度はじめから旅に出る。
秋に13巻が出たら、あのキラキラときれいな紙の本も揃えるのだ。
物語は完結したけれど、楽しみはもうすこしつづく。

 

 

comic-days.com

 

 

語彙力なんてみんな、ないに決まってる

「語彙力がなくて」という言い方があんまり好きじゃない。
なんでそんなこというのみんな。
昨今はすっかり共通認識となってしまった「推しが尊い」みたいな一言で済んでしまうのだろうけど。
語彙力なんて、ないけれど言葉を尽くして語るのだ。言葉を選んで伝えるのだ。好きなものや自分の気持ちは。誰かに伝えたい想いは。
ほんとうに書きたいのなら、なにかを誰かに伝えたいのなら、便利な言葉で逃げないで、と思う。自分の感情がうまくかたちにならないことから。
書くことをあきらめる言い訳にしないで、とも思う。
言葉が拙いんです、だなんて自分で自分をへりくだらないでほしい。それを読んで決めるのは自分じゃなくて、自分以外の誰かだから。
懸命に編まれた言葉は必ずどこかの誰かの心を打つ。うまいへたじゃない。
人がほんとうに聞きたいことは、誰かがほんとうに言いたい、書きたいことだから。

ひび割れた心が戻らない

藤岡康太騎手が亡くなった。35歳だった。
若手だった頃からずっと見ていた人だ。いつも笑顔の人だった。
いつまでも若々しくて、朗らかで、かわいらしい人だった。
ほんとうに優しくていい人だったから、まるで友だちの弟を亡くしたみたいな気持ちになっている。

それでも競馬はつづく。
つづいていくのだ。たとえどんなことがあったって。
いったん引き戻されはしたものの、わたしはここからまた競馬を観よう、とはどうしても思えないでいる。
たくさんの落馬事故と、その後のホースマンの半生を見てきた。
かつて応援していた最愛の人は、長い治療とリハビリ生活の末に現役復帰を断念した。負傷した片腕は二度と動かなくなった。
もっと体が不自由になった人もいるし、志半ばで引退を選んだ人もいる。さまざまなことが重なってか、自らその後の人生を絶ってしまった人さえいた。
馬との別れは数えきれないほどある。それもすごく堪えた。
いつしか、この競技がいのちを扱うこと、いのちと密接にやりとりすることを前向きに肯定できなくなっていった。
わたしは受け入れがたいそれらを受け入れて粛々と競馬とかかわっていくことに、もはや疲れはててしまったのだと思う。
たくさんのつらい悲しい受け入れがたい現実を受け入れ、昇華し、乗り越えていくたびに心は少しずつひび割れていった。
もう何も知らなかった頃の、楽しい気持ちには決して戻れない。
無理だ。がんばれない。ごめんなさい。
自分自身は闘ってすらいないのに、ここ数年のあいだはずっとそんなことを思っていた。
「趣味」「好き」で思いつめたり、自分の人生や暮らしがつらいものになるべきではないという戒めもあった。
わたし自身もまた家族と人生の転機がおとずれ、暮らしが変わったのもある。
「趣味」「好き」に以前ほどたくさんのものを注ぎ込める状況でも、心境でもなくなってしまった。
すっかりと疲れはててしまった。生活に。現実の残酷さに。競技の過酷さに。
完全に心が折れてしまった。あまりに多く傷を受けすぎた。
だけどこの心と体でこれからの自分の人生を全うしながら家族を支えていかねばならない。

競馬だろうが、野球だろうが、自転車だろうが、競技が何であれ強く傷ついたら人は死ぬ。
どんなに環境をととのえて細心の注意を払っていたって、リスクを引き受けながら勝負をするのだ。どうしたって、どこかで、どうしても不慮の事故は起きてしまう。
競馬だけがことさらに危険だと主張するのはすべてのスポーツへの否定になるし、そんな気持ちは一切ない。
スポーツは不要不急、言わずもがな危険のともなう行為で、人間が生きていくのに絶対に必要なものではない。
人が人らしく、人であるがゆえの、知的でエネルギッシュな営みだ。
人はそこに意味を見出すのだと思う。
だからこそ惹かれる。心をあずける。願いを託し、情熱を燃やし、愛さずにはいられない。無事と最善を祈り、声援を送るのだ。

競馬は人に感動と夢と笑顔をあたえる素晴らしいものだと康太さんの父、健一師は言う。
彼を忘れずに、競馬を愛し応援してと言う。
わかっていても、その通りだとうなずいても、愛も敬意もなにひとつ変わらないのに、ひび割れた心がそこに戻らない。
もうこんな悲しい思いをしたくない。だけど悲しいことがあるたびそこに引き戻されるだろう。この先もずっと。
離れるけれど、離れられない。これもまた一度結んだゆえの、決して切れることのない縁なのだろう。
だけど。それでも。
わたしがかつて見守り声援を送ったすべての愛すべきホースマンたちが願うように、変わらぬ心で競馬と寄り添っていくことができなくなった今のわたしは、やはり競馬からは離れたほうがいいだろう。

かかわりたくない人がかかわってくる

郵便局のシニア配達員が馴れ馴れしくしてくるのが、ずっと嫌だと感じている。
「今日はどこからどんな荷物がきたよ」「(下の名前)ちゃん」「今日は家にいるんだね」。プライバシーに踏み込まれたり、とるにたらない雑談で居座られたり。わたしは人と話すのも知らない人も苦手だから、困るし怖い。
正反対の性格の母は気にならないみたいだから、これをよしとする人もいるんだろう。
相手にとっては娘や孫に接するような、アットホームで感じのいい応対のつもりなんだろう。
だけどわたしは配送先の客でしかなく、相手の身内や知り合いじゃない。
年相応でない未成熟な容姿らしいわたしは、どうも男性からなめてかかられる傾向にあるようだ。
そう。かわいがられてるんじゃなく、なめられているだけだと思う。だって不快なんだもの。
一部の年配の男性って、年下の女性には敬意も遠慮も気遣いもいらんと思ってる節があるよねえ。乗り合わせたエレベーターで挨拶も会釈もしないのは、だいたいおじさん、おじいさんだ。
馴れ馴れしく踏み込むことを親しみや優しさと履き違えてるところもあるよねえ。前の職場のセクハラパワハラ上司もこれだった。越えてはいけないラインがその人の中にはないのだ。
みんながみんなと言うつもりはない、一部の人はそうだよね、その一部の人になめられやすいんだろうなあ自分は、って話なだけで。
そういう人たちになめられながら生きるのは正直しんどい。めんどくさい。男性自体にかかわりたくないさえ、うっすら思えてくる。
件の配達員に運んでもらうのが嫌で可能な限り別の業者や宅配ロッカーを使うようにしているけど、選べない避けられないケースだってあるもんね。
クレームを入れればいいんだろうけど、自宅と個人情報を知られているから、それもちょっと怖い。
あとほんとにへんな話なんだけど、よかれと思ってしてくれてるんだろうなあという年配の方を傷つけることになるかもしれないのも気が重い。言わなきゃわからないんだろうけど。言っても言われてもわからないんだろうけど。女性と男性とでは見えている世界が、いや世界の見え方が違いすぎるんだから。
ああ、なんでわたしが気を遣ってるんだろうなあ。こんなだからなめられるんだろうねえ。たぶん。