うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

生きて愛した証は残る

連休中に、思い出の整理をした。
もらったものと、最低限のものだけを手許に残す。
自然に忘れていくのなら忘れよう。覚えていることはいつまでも覚えているだろう。
愛と情熱をもって見ていた頃の競馬のことは自分でも驚くほど覚えている。馬名を見ただけでもたくさん思い出せるのだ。
だけど全部は持っていけない。持っていられない。前へ進めなくなるから。
覚えていられるだけ、持っていられるだけで充分だと今は思える。

わたしは、いいファンではなかった。
永遠にはつづかない情熱を燃やし、やはり志半ばで燃えつきてしまった。
好きだという気持ちばかりを押し出して、書き散らして、たくさんの人に迷惑をかけた。傷つけたり、嫌な思いをさせた。
この押しつけがましさのせいで縁の切れた相手もいるし、わたしを嫌いだという人もそれなりにいるだろう。
大人ではなかった。みっともなくて、恥ずかしい人間だった。
だけどわたしはやりたいようにやった。やりつくした。
思いっきり好いて、力いっぱい応援して、行きたいところへ行って、見たいものを見て、会いたいものたちに会って、無事と最善を祈り願った。
だから後悔はない。
後悔ではないけれど、なぜもっとじっとして、慎ましやかに、おだやかに、ただ心の中で好きでいるだけではいられなかったんだろうと、すべてが終わった今になってふり返る。
恥ずかしい好きかたをしたなあ、とは思うのだ。今ならもうちょっとうまくやれるのにと。

想いは伝えるべきではなかったのか。
最後まで貫けないのなら、はじめからないものとして心にふたをして、口を噤んでいるべきだったのか。
誰かを傷つけるのなら、何も書くべきではなかったのか。
何もなかったほうがよかったのだろうか。
好きになってしまって、伝えてしまったわたしにその答えは出せない。
うっかりと好かれてしまった人たち、かかわりを持ってしまった人たちにたずねることもできないし、そうするつもりもないから、答えは永久に出ないだろう。
ただひとつだけはっきりしているのは、それでも伝えずにはいられなかった、ということ。
好きとはエゴだ。想いを伝えることだって、そうだろう。
それでもわたしはやりたいようにやったのだ。
だから後悔はないけれど、折に触れてはよみがえってくる恥ずかしさに駆り立てられて、ようやく思い出の整理をした。
これは恥隠しだろうか? 自分への戒めだろうか? 思い出の封印だろうか? どれも当てはまる。
だけど、わたしがわたしの整理をしたって、わたしを知っている覚えている人たちからわたしが消えるわけではない。
どれだけ望んだって消すこともできない。自然に忘れられていくまでは。
逆にいえば、いくら忘れないでと願ったところで、忘れられるものは忘れられるのだ。
どんなに覚えていたくても、たとえ今際のきわまで覚えていたって、人間はいつか必ず死ぬし、記憶も一緒に消え去っていく。
それでいいやと思えた。

今、わたしの手許には、選りすぐった少しのものだけが残っている。
ずいぶんとかるくなった。これで残りの人生をそれなりに歩いていけるだろう。
執着となって重たく凝りかたまっていた愛を自由にして、わたしもまた解き放たれる。
そのために、たくさんのものを手放した。
手放しても大丈夫だと思えたのは、手放したのと同じくらい、いやそれ以上にたくさん書いてきたからだ。
書いたから覚えている。思い出せる。忘れることはない。
わたしが見て聞いて思い感じたことのほぼすべてが文章の中にある。
何もなかったわけがない。なかったことにだってならない。どこへも消えない。
いつかわたしや誰かが忘れたって、この世に文字が在りつづける限り、ずっと残りつづける。
日記が、備忘録が、観戦記が。ファンレポが。ファンレターでありラブレターが。
もう恥ずかしいとは思わない。悔いてもいない。思い出となった今はただすべてが懐かしい。

わたしは充分すぎるくらいに残した。生きて愛した証を。
幸せな記憶と思い出が手許に残った。
これからも好きでいられる。
思い出を胸にしまって、時々は取り出して懐かしんだりしながら、前を向いて生きていける。