うまいことはいえないが。

書きたいように書いていたい。自分を救いたい。誰かになにかを伝えたい。

やめたツイッターと、ネットの友だちのこと

よくよく考えなくても、ネットの向こう側の人がどこで何をしようと自分には関係ないことなんだよなあ。
関係ない、と言い切ってしまうとあまりに冷たくなっちゃうので「好きだけど関われない」がいちばん近いかな。

ネットの友だちは、ネットの友だちだ。
ほんとうの意味でその人の人生や暮らしに関わることは、ほぼできない。
趣味の場で会うことは可能だし、価値観が合えば真剣な話だってできるけど、お互いに深く踏み込むことはできない。
普段からその人がどんなに赤裸々に自分自身を語っていたとしても、踏み込まない関係性のあいだではただ流れてくる情報にしかならない。
そしてだんだんと「わたしは知るだけだなあ」という無力感と罪悪感がつのっていく。
言葉や感情では触れあえるけど、その人のために時間や労力やお金をなげうつことはできない。
人と人がほんとうに関わりあうというのは、やはり自分が相手に何かをなげうつ、相手も自分にそうしてくれることだと思う。
「好きだけど、そこまではできない。」
ネットの友だちとのあいだには、はじめからそういう一線が引かれている。

そんなあたりまえのことをぼんやりと思い出したとき、わたしはようやくあの依存から抜け出せたんだと実感した。
前の名前でつぶやいていたとき、競馬場へ行くとか、何を食べたとか、あのレースを観て何を感じたとか、そういうことを逐一タイムラインに向かって報告していた。
そうしたらどこかの誰かが拾ってくれて、「ああ、あなたは関わってくれるんですね」と安心できたから。
あれは依存だったと思う。
いま遠目からそうしている人を見ていると、ほんとうは不安で淋しいのだなということが手にとるようにわかる。
必要なんだろう。救いにもなっているんだろう。あるいは幸せで楽しいんだろう。誰にだってそういう時と場所がある。
でも、いまのわたしはそれと同じことをして誰かを救うことはできない。楽しむこともできなくなった。
好きだけど関われないむなしさを味わい尽くしたから、あの場所から降りたのだ。

エックスでは新たに非公開アカウントをとり、趣味と関心ごとのリストからほしい情報だけをメルマガ感覚で選んで読んでいる。
わたし自身が何かをつぶやくことも、誰かとやりとりすることも一切ない。
ブログの時代の感覚に戻れたな、と思う。
そして、そのことに安心している。満足もしている。
会話じゃなくて対話がしたい。リアルタイムじゃなくていい。
誰かと何かの話がしたい。実際の会話がなくてもいい。読んだ、読まれた、たぶん。コメントがなくたって、文章ならばそれだけでも対話になる。

友だちってなんだろう。あの人たちは友だちだったのかな。
好きだった。友だちだったと思う。
ただ、わたしに深く踏み込む勇気がなかっただけ。踏み込まれるのが怖かっただけ。

 

 

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