うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

愛と情熱と、年齢とモチベーションのお話

東京ハイジャンプ秋華賞、買えないときにかぎってピタリと予想が当たる。
「まあいっかぁ」と苦笑いしてしまった時点で、私はもう馬券をたしなむ競馬ファンとしては終わりに向かって歩いているのかもしれない。
「絶対に走る」と見込んでいたグッドスカイとディアドラが結果を出したことは嬉しかった。
でも、当の私自身は力が出ないのだ。このところずっと。
「もういや」ではないし、「もういいや」でもない。
「もういいか」と「もういいのかな」のあいだを行ったりきたりしながら、どうにかつながりを保ちつづけている。

ふり返れば競馬とはかれこれ十年のつきあいだ。
ひとつ知ればまだ知らないこと、知りたいことが次から次へとあふれ出して、知れば知るほど好きになった。のめり込んだ。
いつしか競馬は暮らしの中にさえ溶け込んで、季節や概念そのもののようになっていた。
敬愛できるジョッキーと出会えた。
最愛の馬とも出会えた。
彼らとの出会いが、ほどなく競馬を趣味の域を越えた特別なものへと変えていった。

人馬を大切に想うがゆえゲームに興じられなくなった。
キズナをかわいいと思ったから引退を決めた」とは佐藤哲三元騎手が現役を退いた際の名言だが、氏のそれとはまた似て非なる感情だ。
競走馬と彼らに携わる人々を敬愛するあまり、私の中で競馬が神聖なものになりすぎたのだ。
気軽に思ったこと感じたことが言えなくなったり、他人の冗談を許せなくなったり、レース結果を茶化せなくなったり。
夢中になればなるほどに言えない、できないことが増えて、自由をなくし、自らに課した重みで身動きがとれなくなった。
そんな中で、ついに愛する存在を競馬の中から失った。
馬にも人にも私自身にも、等しく時間は流れるのだった。

以前のように競馬に対して情熱を注げなくなっていることに気がついた。
愛は変わらずありつづけるのに、応援している馬や人は他にもいるというのに、目的や意義は山ほどあるというのに。
決して気づきたくない事実だった。
薄々感づきながらも懸命にごまかしつづけていた真意がまとわりついて離れなくなった。
エネルギッシュになれない己自身に幻滅し、これまで抱いてきた愛への裏切りにさえ思えて、熱意を維持しようと足掻けば足掻くほどに心がすり減っていった。
つらかった。
まだこんなにも愛しているのに、愛に偽りは微塵もないのに、どうしてこんなにもはっきりと終わりが見えてきてしまうのか。
それでもなお競馬からは離れられない月日の流れの中で、やがてひとつの結論にたどり着いた。

人は年をとる。
年をとるということは、考え方や生き方が変わること。
年相応に成長するということだ。
好きなものとの関わり方、想い方も変わってゆくだろう。
好きなもの自体が変わることだってある。
年齢、環境、自分自身。
年月の移ろいとともにすべてが少しずつ変化してゆく中で、数えきれないほどのいろいろな取捨選択をしながら、人は生きてゆく。
趣味とは人が人らしく生きてゆくための活力であり、人生における彩りだ。
だからこだわりつづける。あるときは人生そのもののように。
強すぎるこだわりはいずれ執着となる。
過ぎた執着は人を苦しめる。愛したものであればあるほどに。
いつしか私は趣味にのめり込むあまり、愛したものたちに依存し、自ら成長することを拒みつづけていたのだった。
もういい加減で大人にならなければ。ひとつ成長するときがきたのだ。
しかし、大人になることとは、愛したものを捨てることとは違う。
そのことにようやく気づけたのだ。
だからもう大丈夫だと。

若かったころ、愛とは無限のものだと信じていた。
愛さえあれば情熱は永遠に注ぎつづけられる、愛が無限に情熱を与えてくれるのだと信じて疑わなかった。
好きな人馬との別れを幾度となく繰り返すうちに、すべての物事には必ず始まりと終わりがあることを学んだ。
己の気持ちを偽ったり無理をしつづけているうちに、いずれ愛はすり減るし、情熱も涸れる。
疲れ果てて嫌にすらなるかもしれない。
そうならないためにはどうすればいいのか。
愛と情熱も有限で、終わりが存在する。
大切なのは終わり方、休み方なのだ。
情熱とは元気な自分自身の心の奥底から生まれる。
無理やりに愛をつなぎとめるために絞り出した偽りの情熱は、やがて執着となって心身を蝕む。
まずは自分自身が健やかでなければ、好きなものを楽しむための力はわいてこないのだ。
楽しめるときは楽しむ。楽しめないときはゆっくり休む。
自らの気持ちに抗わない。想いを偽らない。
たとえ一度夢中になって取り組んだものから離れることになったとしても、心の片隅に愛する気持ちが残っていれば、ふたたび眠っていた情熱に灯をともせる日もくるだろう。
だって人生は長い。人間は強い。
愛と情熱は有限ではあるが、時と場合に応じて充電だってできるのだ。

私は今も競馬と関わりつづけている。
情熱から熱のほとんどが引いて、愛と情が残った状態で。
時折は競馬場へ行き、写真を撮り、ささやかな馬券を買い、現地へ行かない日もそれとなく競馬のことを考える。
考えないときも増えたけれど、関心の範囲は間違いなく狭まったけれど、やはり季節や概念のように当たり前にそこにある。
明日の天皇賞を迎えれば競馬歴はいよいよ十年に到達する。
好きで応援している人馬との縁が今日まで私をこの世界に引き留めさせた。
しかし、なおも踏みとどまるのは間違いなく私自身の意志でだ。十一年目もそうなるだろう。
これを情熱と呼ばずして何というだろう。
私はやはり競馬が好きだ。
これを愛と呼ばずして何というだろう。

明日も雨の中、彼らに会いに競馬場へ行く。

おとなのかんそうぶん『機動戦士Ⅴガンダム』

結論から述べますと、とんでもなかったです。
Stand up to the Victoryなんてオープニングで明るく歌うもんだからてっきり元気な男の子がガンダムを駆って女の子を守る爽快なSFアニメとばかり思っていたのに…!(笑)
Amazonプライム無料体験の恩恵と、本作の特典期間が9月末までという期限が切られたなか駆け足で敢行したひとり観賞会。
先入観を持たず楽しむために視聴中はネタバレや他人の見解には目を通さなかったのだが、このⅤガンダム、とんでもなく凄惨で陰鬱なことで有名な物語だったのだ。

主人公の少年ウッソ・エヴィンはひょんなことからザンスカール帝国軍のモビルスーツを奪い乗りこなしてしまったことがきっかけで戦闘に巻き込まれ、反乱組織リガ・ミリティアと行動を共するうちにヴィクトリーガンダムパイロットとなる。
組織の大人たちは、優秀で“スペシャルな”ウッソを頼り、戦うことを強要する。
戦争は嫌ですと言えば他人事じゃないぞと脅し、良心の呵責に苦しんで敵をとり逃せば説教する。本当にとんでもない。
冒頭でウッソの幼馴染のシャクティが呆然と立ちつくしながら「この人たちみんなおかしいわ」と洩らしていたが、戦争で狂うというのはこういうことなのかもしれない。
異常が日常へと溶け込んでくる描写がぞっとするほどに生々しい。

葛藤しつつも戦いに明け暮れるウッソ少年にも、年頃の男の子らしく憧れの女性がいた。
彼がカテジナさんと呼び慕う相手は商家のお嬢様で、ウッソの一方通行な想いであったものの二人はペンフレンドの間柄だった。
彼女の家庭は裕福ではあったが家族仲は冷え切っており、母は不倫で家を留守がちに、父親は高慢で暴力的な男。
そんな事情を知ってか知らずか、ウッソは家の二階で物思いにふけるカテジナさんを見あげたり、せっせと盗み撮りをしては胸をときめかせていた。
カテジナはウッソをやや煩わしく感じてはいるものの、表だって咎めだてはせずに当たり障りなく接する良識的な少女だった。
目的のためならば手段をいとわず子どもをも戦場に立たせるリガ・ミリティアのやり方を真っ向から非難したのも彼女だ。
しかし戦争は、この潔癖な少女をも大きく歪めてしまう。

空襲で故郷を焼け出され、両親とも生き別れてしまったカテジナは、ゆきがかりで同行したリガ・ミリティアの理念にも賛同できずにひとり苛立っていたところをザンスカール軍の青年士官に拾われる。
誘拐という形ではあったが、天涯孤独となった彼女にとってまさに運命の出会い。
他人と共にあっても満たされず常に孤独を感じていたカテジナが初めてめぐり会った優しい年上の男、それがクロノクル中尉だった。
この出会いが彼女の世界を変えてゆくのに、若い二人が親密な関係になるのに時間はかからなかった。
クロノクルは軍人でありながら人のいい生真面目な男で、捕虜として連れ帰ったカテジナに対しても常に紳士的な態度で接した。
女王の弟という難しい立場ゆえに周囲からは半ば疎まれてもいたが、持ち前の聡明さとモビルスーツパイロットとしての優秀さとで死線を潜り抜けてゆく。
いつしかクロノクルの隣には彼の副官となったカテジナの姿があった。

 …というのが大まかなあらすじで、紆余曲折を経てウッソとカテジナは戦場で再会を果たす。
敵対する者同士として、何度も邂逅する。
彼女が敵となったことを信じたくないウッソは「おかしいですよ、カテジナさん!」と訴えつづけ、そんなウッソが気に障るカテジナはこれでもかというくらい執拗にウッソをつけ狙う。
ここが物語の肝となっている部分で、とにかく両者のいうことやることなすことことごとく“噛み合っていない”のだ。
逃げて否定するウッソ、追って拒絶するカテジナ
二人はいびつに執着しあう。

カテジナはなぜあれほど忌み嫌っていた戦争に自ら加担するにいたったのか。
彼女はおそらく居場所を探していた。
家の二階の窓から外を眺めていた頃から、お嬢様以外の何者かになりたかったのだ。
誰かに必要とされたかった。求められ愛されたかった。
すべてを失ってたまたま連れていかれた場所には、優しい大人の男とマリア主義という崇高な思想と美しいマシンがあった。
生まれてから今日まで欲してやまなかったものをいっぺんに与えてくれたのがクロノクルだった。
クロノクルもまた女王の弟として、軍人として個人としての立場のあいだで孤軍奮闘する男であった。
互いに共感しあえるところがあったのだろう。
かくしてカテジナは軍人という与えられた目の前の役割を演じることにのめり込む。
彼女が時折うそぶく思想めいた言葉は、出来の悪いスピーチのように実感がこもっておらず薄っぺらいのだ。

一方で、ウッソにぶつける言葉には苛烈なまでの感情がこもる。
「いちいちこれ見よがしに強くなって現れる…可愛くないのよ!」
あまりに稚拙すぎて聞いているこちらとしても「なんだそりゃ」なのだが、当の本人の目は本気で血走っている。
後にウッソは「あなたの弱さがカテジナさんを変えてしまった」とクロノクルを責めたてるが、カテジナを最も追いつめたのは他ならぬウッソである。
「あなたは家の二階で物思いにふけったり、盗み撮りする僕をバカにしていればよかったんです」とウッソは初恋の君に訴える。
ウッソにとってのカテジナは“憧れのお嬢様”でしかなく、彼女を自分の理想という型枠に押し込めるばかり。
いまの自分を否定されればされるほどに反発するカテジナ
しかしカテジナもまた、自分がされているのと同じようにクロノクルを追いつめているのだった。
誠実ではあるが木を見て森を見ないところがあり、優秀ではあるが野心もほどほどの男…
いつしかカテジナの心中には恋い慕ったはずのクロノクルを侮る気持ちが芽生えていた。
己が選んだ男は、いつまでたってもウッソを出し抜けない。
ならば自分も共に、というわけだ。
「そそっかしさではなく真の強さを見せてほしいのに」とカテジナは嘆く。
彼女の求める強さとはなんだろうか。弱さとはなんだろうか。
想い合う三人は、まるで不毛な殴り合いをしているようだ。

クロノクルの過ちは、カテジナを戦争に荷担させたこと。
「クロノクルは私に優しかったんだ!」とカテジナは吐露するが、本当に優しい男は恋人をモビルスーツなんかに乗せはしまい。たとえ彼女が望んだことだとしても。
ウッソとの一騎打ちに敗れ、コクピットから身を投げ出された彼がいまわの際に見たものは恋人の姿ではなく、先に逝った姉の幻影であった。
彼が闘う理由とは、女王の弟としての野望ではなく、傀儡の女王として利用され続けた姉マリアを救うこと、救えなかった姉を利用した人間への復讐だったのかもしれない。
執念でウッソとカテジナには劣ったのだ。
それこそが彼の甘さという名の優しさでもあったのだろう。
「マリア姉さん、助けてよ」
彼の最期の言葉が望んだとおり、差し出された手を最愛の姉はとってくれたと思いたい。

ウッソの過ちは、子どもの純真さゆえカテジナに自分が思う理想を押しつけ、目の前の生身の彼女を否定し続けたこと。
男と女が、人間と人間が解り合うことは難しい。
最後の戦いのあと、脇腹にナイフを突き刺された際に洩らした「まったく…」に続くのはおそらく、「あなたって人は…」であり、さらに続くならば「そういう人だったんですね」となるのではないか。
かつて憧れた“ウーイッグのお嬢様”ではない、今現実に目の前にいるカテジナをウッソがようやく認めた瞬間だったのだと脳内補完している。
それが永久の訣別の時になるとは、なんとも虚しい。

カテジナの過ちは…
なんだろうか。
あえて言うなれば、狂気の役どころから降りなかったことだろうか。
シャクティから「おかしいですよ!」と真っ向から指摘されたとき、彼女は「とうにおかしくなっている!」と即答した。
本当におかしくなった人間は、おかしいですよと言われてそうですおかしいんですなんて言わない。
正気のまま狂気を演じ抜いたカテジナ
そうでもしなければ自分を保てなかったのだろう。そして二度と引き返せなくなった。
「クロノクル、白いヤツを手向けにしてやる。そしたら…」
私もすぐにそっちへ逝く。
言葉は途切れたが、カテジナは先に逝った恋人に殉じる道を選び、全てをうしなった。
潔癖なプライドが彼女を奮い立たせもし、壊しもしたのだった。

ウッソとシャクティは、カテジナを許したのだと思う。
脇腹を刺されながらも、それ以上責めはしなかったウッソ。
月日が流れ、季節がめぐり、雪の降る中ひとりウーイッグの街を目指す彼女を彼女と気づかぬふりをして、多くを語らずに送り出したシャクティ
二人にとってのカテジナは、最初から最後まで“道に迷った旅人”だったのだろう。
全てとともに光をもうしなったカテジナは、それでもなお生かされ続けている。
そして、なお生きるために、生まれ育った地へと帰ってゆくのだった…。

この物語が発表された時くしくも私はウッソと同年代だったのだが、縁あって再会し、大人の視点で触れることができた。
あの当時こんなとんでもない物語が子ども向けアニメとしてテレビで放送されていた、ということに二十数年越しの驚きを禁じ得ない。
すさまじいエネルギーにただただ圧倒され、「機動戦士Vガンダムとはなんだったのか?」と振り返ってみると、“女の情念”という言葉が最もしっくりきた。
すべてを疎み拒絶しながらも、愛を求め、人に執着し続けたカテジナ
この物語の主人公はウッソ・エヴィンだが、この物語は故郷を焼け出された少女が再び故郷へと帰るまでの闘いの記録でもある。

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アップトゥデイト優勝! 縁と絆の結晶

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装い新たに、悩める前障害王者がパドックに姿をあらわした。
鮮やかな水色地に赤いラインのバンテージ。
ある日突然オーナーの名義が変わって驚きと動揺を覚えたが、馬もひともなんら変わらずリラックスして周回する様子にホッと胸をなでおろした。
きっと何か浅からぬ事情があったのに違いないのだろうが、外にいるファンが詮索し言葉にすべきことではない。
だから応援幕は何度も迷ったすえ作り替えはせず、黄色と黒の勝負服と芦毛をイメージした従来のものを張り出した。
人馬の様子に、そのことを許された気がした。
いつでもどこでも彼は彼、年齢を重ねても若々しくて変わらない。
この日はむしろ以前よりもはつらつとして見えた。
勝手知ったる阪神の庭がそうさせるのかもしれない。

630日。
アップトゥデイトが勝利から遠ざかっていた日数である。
並みいるライバルたちをねじ伏せ最優秀障害馬の称号をほしいままにした中山大障害から実に1年と9か月。
大きな不調や故障こそなかったものの、自身の細かな脚部不安や鞍上の負傷にともなう乗り替わり、現王者オジュウチョウサンを筆頭とした好敵手たちとの激戦…
アップトゥデイトは常に厳しい闘いとともにあった。
彼自身に衰えはない。
ただ、二年連続で誕生した強すぎる障害王たちの存在が間違いなくハードル界のレベルを底上げしていた。

いつのときも、どんな存在でも、勝負に完勝することは一番難しい。
出走すればオッズは1倍台、いわゆる銀行レースという言いまわしがあるが、勝って当たり前の馬なんて本当はどこにもいないのだ。
どの陣営も薄氷を踏むような綿密にして繊細な過程を経て日々の鍛錬を積み重ね、レースに臨む。
みんな頑張っている。きっと我々の想像をはるかに超えるほどに。
鍛錬と勝利を繰り返すことでいつしかアップトゥデイトは2着、3着では許されない馬となった。
高みへと昇っていったことの証に、今度は追われるようになったのだ。

私は信じていた。
アップは衰えた、ピークを過ぎた、勝ちきれない。
そんな声を聴くたびに、
違う、悔しい、アップ見返してやれ! と拳を握りしめ奥歯をかみしめた。
彼に勝利の感覚を思い出してほしかった。
しかし、悔しいのは私で、馬自身が悔しさや勝利への執念を糧に走るわけではないということも理解していた。
私が抱く想いは擬人化であり、ファンとしてのエゴでもあった。
そういう語り口は好きだ。でも決して押しつけたくはなかった。
真に願うのは無事と最善。過程の先の結果を受け入れるだけ。
ひとが勝ちたいと願い、馬はひとと夢を乗せて本能で走り、ひとが最後の一押しを手助けする。
ひとが馬を信じ、馬がひとの信頼に応える。
すべてがかみ合ったその先にあるのが勝利の栄光だ。
結果が欲しかった。彼らならもう一度掴めると信じて疑わなかった。

未明から断続的に降る雨でほどよく荒れた馬場を味方につけた。
ハナに立つと集中力を欠く恐れがあるので番手が理想。
指揮官のコメントとは裏腹に、彼らは打って出た。
行く馬がいないと見るや先頭に立ち、危なげない飛越と地力とで6頭の精鋭たちをリードした。
レースも終盤、3角でミヤジタイガの奇襲にあっても彼らの呼吸に乱れはなかった。
互いに信頼しあい、全身全霊で駆け抜けたその先に待ち望んだ栄光があった。

勝者を迎え入れたウイナーズ・サークルが笑顔であふれかえっていた。
かつて見た、懐かしい、しかしこれまでで一番嬉しい光景だった。
長い長いトンネルを抜けた先にある光。
たくさんの人々から雨とともに祝福を受けたアップトゥデイトは、まるで人々と一緒に喜んでいるかのように見えた。
彼にはきっとわかっているのだ。
喜びを分かち合う彼らは、確かに心が通じ合っていた。

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厳密にいえば、これは復活劇ではない。
彼らは一度も沈んでなどいなかったのだから。
ただそれでも、勝つことだけは難しい。
馬もひとも、レースでさえも生き物なのだから。
当たり前ではない。届きそうで遠くて、厳しくて難しい。だからこそ欲する。
研鑽を積んで何度でも挑む。そのさまが美しいのだ。

アップトゥデイトを管理する佐々木晶三調教師は、渇望してやまなかった阪神障害タイトルで節目の500勝を飾った。
くしくも400勝目を贈ったのもアップトゥデイトだった。
そのとき新馬戦の鞍上にいたのは、かつて厩舎の主戦をつとめた佐藤哲三騎手。
2017年阪神ジャンプステークスが行われた9月16日は、さかのぼること三年前、同ジョッキーが長い闘病生活を経て引退を表明した日でもあった。
この勝利は馬とひと、ひととひとの縁と絆が結ばれあった先に成就した奇跡でもあったのだ。

いざ新潟へ。ファンは勝手に好いて追う。

今年はメイショウアラワシ号が連れていってくれた。 
特別登録をしていた小倉サマージャンプを回避したのち(相手関係や鞍上の調整上の判断と思われる)、新潟オープン戦をトップハンデの64キロで僅差の4着と善戦。
その先にいよいよ見えてきたのは、悲願の重賞初タイトルだった。

しかし結果は案外。
前走から4キロ減で臨めると大いに期待して決戦のときを迎えるも、二、三番手追走からしぶとく粘りこむという持ち味が生かしきれず、二周目に入ったところではすでにポジションをずるずると後退させていた。
前、前のスピード勝負で決まる順まわり、置き障害メインの新潟コースにおいて、厳しい位置どりと立ち回りなのは明白。
嫌な予感は的中し、メイショウアラワシはついに見せ場なく8着に沈んだ。
そのはるか前方で4歳牝馬のグッドスカイがゴール板を鮮やかに駆け抜けていった。
彼女の手綱をとっていたのはくしくもアラワシの主戦、森一馬騎手だった。

いろいろと複雑に悔しかった。
ほぼ何もできずに終わってしまったこと。
前走とはまるで別の馬のようだったこと。
主戦騎手がこの馬でなく他のお手馬とともに目の前で栄光を掴んだこと。
そもそもメイショウアラワシはスピード勝負よりもタフなコース向きの馬だ。
置き障害よりも中央の高い障害向きの飛越巧者。
いわゆる末脚勝負、平地力でねじ伏せるタイプではない。
ここ新潟で思うようにいかないかもしれないということは、予想という範疇で考えればなんら不思議はなかった。
現に5番人気というオッズが顕著に示していた。
にもかかわらず、私は期待した。
今の彼ならば不得手を克服するだけの力を発揮できるはずと。
きっと期待しすぎていた。勝ち負けのイメージしか持ってこなかった。
それだけ信じて期待をしたのだ。

パートナーの森騎手は乗れなかったが、元主戦の植野騎手が前走から調教からしっかりと付き合ってくれた。
そのことが嬉しくも頼もしくもあった。
これは乗り役としての優劣云々の話ではない。
昨年の春、林騎手の負傷によりアップトゥデイトの鞍上が慌ただしくスイッチした際にも感じていたこと。
惜しさや無念はあったが、たとえ万全の状態でなくとも最善を模索する陣営を、最後に命運を託された人馬を信じて期待できた時の気持ち。
ジョッキーをメインに競馬を観ていた頃とはまた違った感情が私の中には芽生えていた。

想っては振られ、追いかけては逃げられ、届くかにみえた目の前の勝利にはするりとかわされ、ときに夢叶い、ときに夢破れ。
一頭の競走馬を応援するのは、なかなかこちらになびかない奔放な男にひたすら恋い焦がれるのに似ている。
好きな馬を応援する理由なんて「この馬が好き」それだけで充分だ。
しかし彼らは競走馬、ただ「かわいいかわいい」ではなく、プロのアスリートとして接する。
それは好きな馬に携わる人間も一緒に信じることでもある。
たとえ期待していた結果が思うようでなく落ち込んで悔しくても、死力を尽くして戦った彼らに対して怒ったり責任を求めたり失敗だ間違いだと決めつけてかかるようなことはしたくないし、夢にも思わない。思ったことなど一度もない。

ファンとはあくまで勝手なものだ。
ただ勝手に好きになって、勝手に期待して、勝手に応援しにいって、勝手に喜んだり悔しがったりするだけ。
応援も遠征も馬券も“してあげている”ではない、したいから勝手にする。
好きにするからこそ、勝手を押しつけない。
「連れていってくれた」という言い方を私はたびたびしているし、心の底からその通りだと思っている。
しかし相手に決断を委ねているのでも、誰か何かに強制されているのでもない。
この言葉は感謝と敬意と愛情ゆえの表現だ。
たくさんの人馬の中から、縁あって、見つけて出会って好きになって、掛け値なしに応援したいと思ったから、勝手に好いて追ったのだ。

気づいたら今年も新潟にいた。
次はどの競馬場へ連れていってもらえるのか、きたる季節へ向けてもうすでに胸が躍っている。
好きな相手を信じて期待し、夢を託してその背を追ってゆけるのは幸せなことだ。

 

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なんとなく、ツイッター

否定批判をされるのが、私は何よりも怖い。
好きで文章を書いているくせに押しには弱く、頭の回転が鈍いので物事への理解が遅いし、議論も苦手だ。
だから他人に対しても、自分がされて嫌なことは絶対にしないようにしている。
こっちのこともある程度許してほしい、という気持ちの裏返しでもある。
なんでもまず見聞きしてみて、たとえ受け入れられなくても、深入りせずにただ通りすぎる。
趣味界隈において自分の萌え(好き)は他人の萎え(嫌い)、逆もまたしかりだから。

ところがあるとき、なんとなく疲れていてタガが弛んだんだろう。
普段は絶対言わないようにしていたことをポロッと洩らしてしまったていにして、自分にも当然ある好き嫌いについてつぶやいてみたくなった。
いっつもこんだけ黙ってるんだからたまにはいいよね、と。
魔が差したのかもしれぬ。
ほんとうに他愛のないつぶやきだった。
否定批判みたいな大げさなものではなくて、「私はこれ、実はあんまりなんだー」程度の。
偶然なのか、私の発したささやかなトゲが相手の良心を刺してしまったのか。
いったん閉じて次にホームを開いたとき、どこかの誰かにリムーブされていた。
フォロー関係の増減を逐一通知するサブクライアントを入れていたのがまずかった。
(FF数や関係への執着からではなく、単に多機能で使いやすくタイムラインの取得に強いから使っていただけなのだが)
それがとどめのひと突きだった。
一瞬チクッとしただけの、いつもなら傷にもならないようなダメージだった。
ゲームでいうところの、HPをほんの1ポイント削られたような。
しかしそのときの私は満身創痍で、残りHP1状態だったのだろう。
ゲームのキャラはステータス的には死にかけていてもビジュアルはピンピンしている。まさにあんな感じだ。

私は、自分が傷つくより他人を傷つけたり不快な思いをさせるほうが怖い。
でも、自分にはチクチク刺さっていた。
遠い場所で起こっている争い事だったり、決して綺麗ではない言葉だったり、こちらに投げられたのか反応すべきかそうでないのかわからない空中リプライだったり、なんの接触もない相手からの謎の先行ブロックだったり、激しい喜怒哀楽だったり、たくさんの異なる思想や主義主張だったり…
深入りせずに通りすぎると達観しながらもどこかで真に受けてしまって、心の中でマジレスを繰り返しながら、少しずつ毒として取り込み続けていたのだ。
でも、他人のことをチクチク刺したくはないと口を噤んで平静を装い続けてきた。
でも、でも、でも、を繰り返しながら。

かくして、この針のひと刺しでこれまで張りつめていた内なるガマン風船が割れてしまった。
致命の一撃なんて得てしてそんなもんだ。
それ自体に大した意味も殺傷力もないけれど、プッツンいくときは、たまたまうっかりの流れ弾がだめ押しになってしまうのだ。
たまりにたまったツイッター歴7年数ヶ月分の内なる毒素の存在に気づいたとき、私はけっこうがんばっていたのだなぁと思い知らされた。
そして。

ほかのみんなはけっこう好き嫌い言ってるのに、私が言うのはだめなんですね。
そうですか。ですよね。
ああそうか、もういいや、もういいです。
ああ、そういえば、しんどいんだったなぁ…。

その瞬間すべてを否定されたような気持ちになって、いままで他者や多様な価値観を容認してきたことすらただの偽善で自己満足で不十分です~!はいダメ~ぜんぜんダメ~、あなた失格~!とでも言われたかのように感じてしまった。
この低俗な揶揄も自らの弱った心が生みだしたセルフツッコミである。
自分で自分に疲れ、くたびれはてた末の自爆であった。

寝るとき部屋のあかりを落とすときのように、心安らかだった。
もののついでにインスタグラムも削除した。
どこの世界においても、誰かひと一人いようが消えようが、大してなにも変わらない。
30日間のあいだに戻る気にならなかったらそれはそれでいいかなという気持ちだった。
この期に及んでまだ戻るという前提があったのは、目前に新潟ジャンプステークスがひかえていたからだ。
好きな馬の晴れ舞台がとても楽しみだった。
もうツイッターはいいかなと半ば達観の境地にいたものの、好きな物事についてはずっとブログで触れていくつもりだったし、書いたからにはやっぱり誰かに読んでほしい欲求はあった。
誰かとは、これまでの縁でつながった人たちだったり、同じく競馬が好きな人たちだったり、いろいろだ。
極端なはなし、誰だっていい。
喜びやワクワクを共有したい人たちがいる。
まだ見ぬ誰かに何かを伝えたい。
それと同じくらい、誰かの何かを見て聞いて感じて知りたい。
…そうだ、私がツイッターをしていたのは、このためだったのではないか。

新潟ジャンプスステークスの出走馬が確定した木曜日に、なんとなく復活した。
なんとなくやめてからたったの3日が経っていた。
ここは“ツイッターから消えてみた”というよりも、“自分の中からツイッターを消してみた”と言い表したい。
ツイッターは居場所ではなくツールだ。
寄りかかる度合いはそれくらいにとどめておきたい。
好きでやるんだから、理由づけなんて、なんとなくくらいでちょうどいい。
なんとなくアカウントを消して復活させた、たったそれだけのことで価値観なんてそう変わるものではないし、いままで通り「否定批判しない!自分の萌えは他人の萎え(逆しかり)だからおおむねのことは許す!」を地で行くだろうけれど、たまにはうっかり本音を洩らすことも、なんとなく消してみることもできるししてもいいんだという実感が得られただけでももうけものだったとしておく。
誰かが許してくれなければ私が私を許すことにする。

なおサブクライアントは、はむーんからツイタマに替えた。