うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

ひび割れた心が戻らない

藤岡康太騎手が亡くなった。35歳だった。
若手だった頃からずっと見ていた人だ。いつも笑顔の人だった。
いつまでも若々しくて、朗らかで、かわいらしい人だった。
ほんとうに優しくていい人だったから、まるで友だちの弟を亡くしたみたいな気持ちになっている。

それでも競馬はつづく。
つづいていくのだ。たとえどんなことがあったって。
いったん引き戻されはしたものの、わたしはここからまた競馬を観よう、とはどうしても思えないでいる。
たくさんの落馬事故と、その後のホースマンの半生を見てきた。
かつて応援していた最愛の人は、長い治療とリハビリ生活の末に現役復帰を断念した。負傷した片腕は二度と動かなくなった。
もっと体が不自由になった人もいるし、志半ばで引退を選んだ人もいる。さまざまなことが重なってか、自らその後の人生を絶ってしまった人さえいた。
馬との別れは数えきれないほどある。それもすごく堪えた。
いつしか、この競技がいのちを扱うこと、いのちと密接にやりとりすることを前向きに肯定できなくなっていった。
わたしは受け入れがたいそれらを受け入れて粛々と競馬とかかわっていくことに、もはや疲れはててしまったのだと思う。
たくさんのつらい悲しい受け入れがたい現実を受け入れ、昇華し、乗り越えていくたびに心は少しずつひび割れていった。
もう何も知らなかった頃の、楽しい気持ちには決して戻れない。
無理だ。がんばれない。ごめんなさい。
自分自身は闘ってすらいないのに、ここ数年のあいだはずっとそんなことを思っていた。
「趣味」「好き」で思いつめたり、自分の人生や暮らしがつらいものになるべきではないという戒めもあった。
わたし自身もまた家族と人生の転機がおとずれ、暮らしが変わったのもある。
「趣味」「好き」に以前ほどたくさんのものを注ぎ込める状況でも、心境でもなくなってしまった。
すっかりと疲れはててしまった。生活に。現実の残酷さに。競技の過酷さに。
完全に心が折れてしまった。あまりに多く傷を受けすぎた。
だけどこの心と体でこれからの自分の人生を全うしながら家族を支えていかねばならない。

競馬だろうが、野球だろうが、自転車だろうが、競技が何であれ強く傷ついたら人は死ぬ。
どんなに環境をととのえて細心の注意を払っていたって、リスクを引き受けながら勝負をするのだ。どうしたって、どこかで、どうしても不慮の事故は起きてしまう。
競馬だけがことさらに危険だと主張するのはすべてのスポーツへの否定になるし、そんな気持ちは一切ない。
スポーツは不要不急、言わずもがな危険のともなう行為で、人間が生きていくのに絶対に必要なものではない。
人が人らしく、人であるがゆえの、知的でエネルギッシュな営みだ。
人はそこに意味を見出すのだと思う。
だからこそ惹かれる。心をあずける。願いを託し、情熱を燃やし、愛さずにはいられない。無事と最善を祈り、声援を送るのだ。

競馬は人に感動と夢と笑顔をあたえる素晴らしいものだと康太さんの父、健一師は言う。
彼を忘れずに、競馬を愛し応援してと言う。
わかっていても、その通りだとうなずいても、愛も敬意もなにひとつ変わらないのに、ひび割れた心がそこに戻らない。
もうこんな悲しい思いをしたくない。だけど悲しいことがあるたびそこに引き戻されるだろう。この先もずっと。
離れるけれど、離れられない。これもまた一度結んだゆえの、決して切れることのない縁なのだろう。
だけど。それでも。
わたしがかつて見守り声援を送ったすべての愛すべきホースマンたちが願うように、変わらぬ心で競馬と寄り添っていくことができなくなった今のわたしは、やはり競馬からは離れたほうがいいだろう。