うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

熱が落ち着いたかもしれない時に思うのは

競馬のことをつぶやいてない自分は無価値なんでは。
ふとそんなことを考えていた。
このところよく考えていた。
後ろ向きになってきてどうにもいけない。
考えれば考えるほど今の自分に対して否定的になってきて、普通にしてても萎縮してしまいそう。
とっても自意識過剰な考え方ですね。
でも、弱ってるときや自信のないときって、意味も根拠もなくそんな感じになりませんか。
私はなってました。意味も根拠もなく。

競馬への熱が落ち着いてきて、前みたいに予想と馬券で真剣勝負をすることも減ってきた。
そういうつぶやきも減ってきた。
好きな人馬を淡々と見守る感じになってきた。
自己完結的になってきて、興味のあることにしか関心がない、という状態。
タイムラインに流れてくるのでレース結果や有力どころの動向、競馬界の出来事なんかはだいたい把握しているものの、ちょっと遠い世界のお話のように感じている。
応援馬に未勝利・条件馬や障害馬が多いからというのもあるかもしれない。
楽しみ方が変わったのだ。

今競馬が楽しい!というひとはもちろん、今は別のことの方が楽しい!というひと。
そういう競馬が縁で親しくなったひとにもなんとなく引け目を感じるようになって、もともと競馬のことばっかりつぶやいてたアカウントだしなぁと、気にするくらいには気にしていた。
正直なはなし、競馬そのものへの執着は薄まってきている。
熱い濃い強い執着から、薄味の水や空気みたいな存在に変わってきている。
たぶんこの調子で私は“好きなものを好きなだけ”のマイペースで競馬を、競馬のなかの好きなものを愛でていく。
でも、今まで競馬への熱く強く濃い気持ちを声に出してきた自分からそういう競馬成分が薄まってしまったら、他にいったい何があるっていうんだろう。
そうしたら冒頭。
競馬のことをつぶやいてない自分は、無価値なんではと。

せめて一日にひとつは競馬のことをつぶやこう。
そんな日がつづいていくうちに、私のしていることは単なる“誰か”へのアピールなんじゃないかと思い至った。
“誰か”に認められるためにつぶやくのか?
違う違う。
「あのひとがこれ読んでくれてたらいいな」という気持ちで何かをつぶやくことも時にはあるけど、それはいわゆる空中リプライなんかじゃなく、自分自身も好きだったり感銘を受けたりしてたくさんのひとに伝えたいことだからだ。
私がアピールしつづけていた“誰か”はきっと、変わっていく自分をうまく受け入れられずに戸惑っていた私自身だ。
そうすることでエネルギッシュに打ち込む過去の自分自身に依存していたのだ。
人間が年齢や経験を経て変わっていくのは当たり前のことだというのに。
自分自身が変わっていく過程で、競馬は水や空気のようにそばにあって当然の、大切なものへと変わっていっているのだ。
いったいどうして、何を嘆くことがあったのだろう…

それにしても冒頭の言葉、そっくりひっくり返してみればまるで「競馬のことをつぶやいてる自分には価値がある」とでも言いたげでちょっと、いやかなり傲慢で恥ずかしい。
とても思いあがった未熟な言葉だけど、だからこそ自戒のためにこうして残しておく。
これまでどおり、価値のためでなく好きのために私はつぶやく。
素直な気持ちと正直な言葉にこそ力は宿る。

わたしなりの「馬が好き、競馬が好き」

馬とふれあう機会があった。
すぐそばまで近寄ったとき、どう接するべきなのかわからなくて戸惑った。
馬が服の袖を食んできた。
すっかり体がこわばってしまって、私は何もできなかった。
競馬ファンたるもの、本来ならもっと「なんてかわいいんだろう!」と感激しスキンシップを惜しまないシーンだったのだろうと思う。
でも私は、馬をどう愛でたらいいのかを知らなかった。
どんな声や動作で「かわいいよ、好きだよ」と気持ちを伝えればいいのかがわからなかった。
かろうじて撫でることのできた鼻先があたたかくて、嬉しくて切なくて、もどかしくて申し訳なかった。
こんなにも好きなはずなのに、私は本当になんにも知らないんだなぁと。

「馬が好きなの?競馬が好きなの?」
と問われて、「どっちも好きです」と私は答えた。
もともと動物が好きだから馬もかわいい。
競走馬として応援している馬がいる。応援幕を作って出している。
馬に携わるひとを尊敬し、応援している。
競馬場へ行けば応援のみならず予想と馬券にも取り組む。競馬のために遠征もする。
下手だけど写真も撮る。そのためにカメラを買った。コンデジだけれども。
今までもこれからも競馬の中で楽しめることなら何でも挑戦したい、と。
偽らざる本音で真実だ。その姿勢は今も変わらない。
これ以外の答えはないと納得しながらも、「~~号のダービーを観たのがきっかけで馬が好きになったんです」と迷いなく答えた、自分よりもずっと若くひたむきな同行者のキラキラした様子がまぶしかった。

私の競馬との出会いは、家族とともに興じる予想と馬券とレースだった。
まずはそこからはじまって、ギャンブルとしてゲームとしてスポーツとしての競馬を面白いと感じているうちに、敬愛するジョッキーとめぐりあった。
一度目の変化。世界は彼を中心にまわるようになった。
そして二度目の変化。
最愛の騎手が現役を退き、これまで世界の中心となっていたものをなくし、信仰を失い、自分の競馬を見る目と向きあいかたは変わらざるを得なくなった。
今も変化の途上だ。
ひとだけでなく馬そのものを見るようになった。
騎手だけでなく厩舎やオーナー、馬の周りにいるひとたちも見るようになった。
これまであまり興味のなかったこと、別に知らなくても楽しめると後回しにしていたこと、手つかずだったことも少しずつ理解していこうと心がけるようになった。
不思議なことに、好きで好きでたまらなかったひとを熱心に見つめていたあのころよりも競馬というものの全貌に対する理解は深まってきたように感じる。
今にして思えば、特定のひとりへの愛が広いはずの世界をひと一人とその周りのわずかな範囲にまで狭めていたのだった。
それはとても甘美な日々ではあったけれど、あの愛ゆえに私は今もどうにもしがたい淋しさと闘っている。
もうじき3年の時が経つが、この淋しさとはきっとこれからもずっとつきあっていくのに違いない。
しかしあの年月があったからこそ今があるのだ。
当時の自分を若く拙かったとふり返りこそすれ、愚かだったと笑うつもりも、もっとこうすべきだったと後悔する気持ちもない。
そのときその瞬間を全力で生きたことの積み重ねの上に今日があるのだから。

おそらく私は、そういう全部をひっくるめた競馬の世界が好きなのだと思う。
あのとき問われて答えたことがすべてだ。
ところが、わずかながら馬とふれあったとき、これまで自分にとってはレースというなかば2.5次元の世界を走っていた彼らの生身の肉体に対面したとき、大きく未知なるものへの恐怖にも勝る欲求が静かにわいてくるのを感じた。
もっと知りたい、ちゃんと愛でたい、向きあいたい。
でもそうしてしまったら、きっと自分は彼らを愛さずにはいられなくなるだろう。
乗馬も、一口馬主も、馬の仕事の現実も、もっと踏み込んだ応援も、それとなく避けてきたのは覚悟が持てないでいるからだ。
本当に何もない、知識も財力も若さも覚悟もなんにもない無力で薄っぺらな自分が、分不相応に馬を愛してしまったら…と思うと怖いのだ。
なんにもない私は、彼らを愛しても、なんにもしてあげられない。
覚悟が持てないのなら浅瀬のままでいいと、広く浅く楽しむ競馬ファンとしてこれまでを謳歌してきた。
たとえばあと十年若ければ、彼らとかかわることを生涯の仕事にと一念発起して、まだ見ぬ世界へと単身飛び込んでいけただろうか。
できたかも知れないし、今とさして結論は変わらないような気もする。
仕事にまでせずともアプローチの方法はほかにもたくさんある。
かかわりと理解を深めるのなんて、ひとそれぞれ独自の世界の中でひそやかに興していくことだ。

私はあのとき、「馬が好きです」と答えたかったのだと思う。
答えられなかったのは、彼らをあまりにも知らなかった自分自身が恥ずかしかったから、そしてその葛藤を対峙した馬にもひとにも見透かされていることを悟ってしまったからだ。

趣味でいいのだと思う。
生涯いちファンでいいのだと思う。
趣味をたしなむ競馬ファンでかまわないと思いながらもなおこんなにも考えることが止まらないのは、本当はもっと深く知りたいからなんだろう。
ちゃんと愛してみたいからなんだろう。
「まだまだだから、もっと馬のことを勉強しよう」と憧れてやまないひとから不意に贈られた言葉が、ずっと私の心とともにある。
この言葉を受けとったときは「レースや血統とかじゃなくって、馬のことなんだ」と意外に感じたものだけれど、今ならわかる気がする。
ようやくわかりかけてきた。
かのひとにも見透かされていた。気持ちや姿勢はおのずと伝わるものなのだ。
過去は忘れずに今を見て応援してほしいと願うひとは、これまでもこれからも馬がいるんだから少しも淋しくないじゃないかと言っている。
そういうふうに、今は解釈している。

私には好きな馬がいる。
この先も競馬ファンとして、できるところから彼らとのかかわりかたを模索していくだろう。
今はまだ悩みの最中、三度目の変化を迎えるかどうかという分岐地点に立っている。
どこへ向かうのか、どっちへ行きたいのか、何がしたいのか。
このごろ何とはなしにモチベーションが下がってきたといいつつも変わらずのつきあいがつづいているので、このまま凪いだ状態がつづくのか、現状を変えるべく新しい何かをはじめるのか、それとも。
実をいうと、もうこの先は競馬でなくてもいいのかもしれないな、と胸をよぎった時期もほんのわずかながらあった。
競馬との出会いは偶然だったけれど、それから後は必然で、競馬でなくてはならなかった。
でもこの先はわからないかもね、と揺らぎかけていたのだ。
しかし離れることはやっぱりできないようだ。一週間あいただけでもう競馬場が、馬が恋しい。
それに、競馬に命を救われたこの身はまだ誰にも何も恩返しができていない。
もっと自分には何かできること、すべきことがあるんじゃないかと思っている。思いたい。
たとえ何もなかったとしても、これから探していきたいのだ。生きがいとして。
私は馬が、競馬が好きだから。

みんな誰かのいとしい馬

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強さと愛らしさに惚れている。
駅から競馬場へとつづく長いロードの両脇を飾るパネルのフレーズがふと目にとまった。
ほかのひとにとっては数いる未勝利、条件馬のうちの一頭にすぎないが、自分にとっては思い入れの深い馬。
競馬を続けていればそういう存在もできてくる。
障害オープン戦を観戦しに中京まで行ってきた。メイショウアラワシに会うために。

話せば長くなるが縁あって応援している馬で、会うたびに情が移って、もはや無条件でかわいいと思う。
アップトゥデイトもかわいいし、このメイショウアラワシもかわいい。
実績もルックスも全く違う2頭を、どちらもそれぞれにかわいいと思って応援している。
男馬にかわいいは褒め言葉になるのかどうか疑問だけれど、かわいいものはかわいいのだ。
“好き”に理由なんていらない。

このアラワシ、どちらかといえば男前というよりも個性的な顔つきで、オープン1勝と重賞2着3着の実績はあるものの近ごろは伸び悩んでいる。
前走の東京オープン戦は4着。
トップハンデを背負いながらも復帰戦としてはまずまずの内容だった。
次に向かうものと思っていた東京ジャンプステークスには登録せずに待機していたので、おそらく時計を出した翌週のここに来るだろうと踏んでいたのだ。
水曜日の想定で馬名を確認したあとは、もうじっとしていられなくなった。
昨年の京都ジャンプステークスを現地で観戦してから実に8か月弱。
会いたくてたまらなかった。

 

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少しのあいだ見ないうちに、アラワシはすっかり落ち着いた大人の男になっていた。
3歳のときから各地で障害を飛んでいるベテランももう6歳。
分別もついて、貫禄も出て、大人びてもくるだろう。
停止命令がかかったあとの癖だった前掻きもしなくなっていた。
装い(頭絡)も新しくなり、隣につき添って周回していたのはいつもの担当厩務員さんではなかった。
藤沢和雄厩舎を支えつづけた大ベテランの大館厩務員が6月末日付で定年という一報を目にしたので、おりしも上半期終わりというこの時期、もしかしたらアラワシ担当の方も同じ事情だったのかもしれない。
そうではなくて、何か別の事情があって今日はたまたま来られなかったのかもしれないし、もっと他に理由があるのかもしれない。

そう、好きな馬の世話をしてくれているスタッフの名前すら私はほとんど知らないのだ。
重賞を勝ち負けした、これからしようという馬には取材が申し込まれ、記事になって人となりが判明することもあろうけれど…
しかし自分が知りたいから教えてほしい、というのも違うと個人的には思っている。
以前から私が私自身の知りたいという欲求に一本線を引いている部分だ。
見えているぶんだけ。見せてくれるぶんだけと、足るを知る。
詮索しない、暴かない、深追いしない、みだりに公表しない。
もし不意に垣間見えてしまうことがあったとしても、胸の内に秘めて外には漏らさない。

控え室前で談笑する楽しそうなアラワシ陣営が撮れていたけれど、ひと同士のプライベートシーンのような写真は公の場にはあまり出さないようにしている。
基本的に競馬場で馬と一緒の写真を、というのがマイルール。
このごろは思ったような写真が撮れずスランプを感じていたが、好きな馬の写真は自然にこれでもかというほどたくさん撮っていて、不思議と出来が良かった。
ひとつの答えが出たような気がした。
写真撮りとしてはここが限界なんだろうなぁとも悟った。
競馬も写真も“好き”がモチベーション。
あえて公開するのは評価されるためではなく、“好き”を自分以外の誰かと共有したいからだ。この記事だってそう。
すっかり趣旨を忘れていたが、前走のアラワシを撮ってツイッター上にあげているひとを見かけなくて内心とても寂しかったから、今回は自ら出向いたのだった。
行けば会えるし好きなだけ撮って残せるじゃないかと。
念願は叶った。

かくして遠路はるばる立ち合った中京障害オープン戦。
アラワシは内をついてコーナーワークで距離を稼ぎ、先行力と危なげない飛越とで直線の最終障害では3番手まで詰めるも、ラストで差されての4着入線。
納得の4着でもあり、悔しい4着でもあった。
が、これはあくまで私が自分のために感じた悔しさであり、本当に悔しいのは私ではなくアラワシ陣営だ。
「自分のための悔しさを相手にぶつけてはならない」というのが応援の肝なのかな、とこのごろは感じている。

鞍上の森一馬騎手のコメントによれば、
飛びの上手な馬なので平地力が有利な置き障害よりも中央の大きな障害のほうがいい、その中で最後までよく頑張ってくれている。
とのこと。相棒を讃える言葉が心強い。
おそらく近いうちにもう一戦、状態にもよるが福島オープンか、それとも月末の小倉サマージャンプか…
小倉へはあらかじめ行く予定があるが、福島ともなれば難しい…
しかし私が行こうが行くまいが、厳しい勝負になろうが、担当さんが変わろうが(これは定かではないが)、陣営が最善を尽くすことに何ら変わりはない。
戦い終えて帰ってきた彼らの安堵の表情をかちうまプレビューのガラス越しに眺めていると、「この陣営なら何があっても大丈夫」と大きく構えていられる気がしてくるのだった。

次走を心待ちにしながら、渾身の萌えブレで締める。

 

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好きと趣味と、年齢とモチベーションと

「せっかくの重賞ある日も、メインを見ずに帰ることが多くなってしまったなぁ。」
もったいない気もしつつ早めに切りあげながら、いつからこんなふうになったんだっけとぼんやり考えていた。
競馬場へ行く目当てが障害競走や応援している未勝利、条件馬中心になってきたこともあって、11レースまで現地にいること自体がまれになった。
もちろんメインの重賞やオープン戦ともなれば心躍るメンバーが集う。
居続けて楽しまない手はない。
だけど、このごろ何だかふんばりがきかないのだ。競馬が大好きなはずなのに。
モチベーションの問題なのかなと、ひとりため息をつく。
でもよく考えてみると、モチベーションって、いったい何なんだろう?

今年に入ってからというもの、体力の衰えと、気力が以前ほどわいてこないことに年齢を感じるようになった。
いくら元気な健康体とはいえ三十代も後半戦、なかなか若いころと同じようにはいかない。
もちろんそのとおりなのだけど、もっとこう、
「好きなことのためなら何だってできる!ずっと好きなことしていたい!!」
というはつらつとしたエネルギーが、ほんのちょっと前までは湯水のごとくあふれてきたのに…。
今はほぼ目的のためだけに動き、目的を遂げると「週明けからちゃんと仕事をこなすために…」などと自分に言い聞かせながらすみやかに撤収する。
われながら年をとったと思う。
競馬と出会ってからもう十年が経とうとしている。そりゃあ年をとるわけだ。
でも不思議なことに、老けたというふうには感じていない。
なのでモチベーションがあがらないのと加齢とはちょっと違う問題なのかも、と思い直してみた。

たしかに体力気力の原動力となるモチベーションをあげる瞬発力や持久力そのものは、年代により違ってくる。
年を重ねることによって物事との向き合いかた取り組みかたが変わってくるのは、ごくごく当たり前のことなのだ。
見ているものや興味の対象だって、時の流れや予期せぬ出会いと別れによってうつろい変わってゆく。
きっとそういうことなのだろうなと分かっているにもかかわらず不安を覚えてしまうのは、今までの自分から何かが変わろうとしているからだろう。
いずれ今のままではいられなくなりそうで、でもこれからも日々を暮らしていかなきゃならないわけで、今とこれからの自分にとって必要な変化を迎えつつあるのが私の現状なのだと思う。
これまでがありえないほどに楽しかったからこその不安だ。
変化を受け入れて、できることをささやかに楽しむのか、まだまだやりたいことがある!とあらがうのか。
たぶん好きなもの次第でどちらへもいけるのだろう。

実をいうと、以前のようなパワーが出ない自分にちょっと罪悪感を覚えていた。
競馬を愛しているのに、その気持ちは何ひとつ変わっていないのに、いつしか競馬の中の興味と関心のある物事にしか心と体を動かしづらくなった。
精力的に“好き”に向かっていくひとの若さやひたむきさをまぶしく眺めながら羨んで、「好きならもっと元気が出るはずなのに、私は何でこうなの?」と自分をそれとなく責めていたのだ。
楽しいはずのことも楽しくなくなりそうな悪循環に陥りかけていた。
物事に真面目に真剣に取り組むほどに、レベルアップとともに自らに課すハードルは高くなってゆく。
でもそれって決して義務なんかじゃないのだ。あくまで趣味。
ほかならぬ自分自身が心から好きで楽しくて、こういうことをやりたいなぁっていう前提でなければ、遅かれ早かれ息がつまってくるんじゃないだろうか。
好きならここまでやるのが当たり前、できて当然、できないのは愛や熱意が足りないから…
こんなふうに自らにノルマを課したり、自分ができるからといって他人に対しても同じレベルを求めてしまうというのも、ちょっと違うんじゃないかなぁと。

これは何にも通じる話で、たとえば写真界隈でもたびたび巧拙や道具や出来映えについての話題で盛りあがったりするわけだけれど…
個人的には、被写体への敬意を忘れずに最低限のルールとマナーが守れるのであれば、あとは自己責任で自由に楽しんでいいんじゃないですか、という考え。
だって写真に対するモチベーションだって千差万別なのだから。
プロレベルのガチ勢のひともいれば、好きな馬や人との思い出を残すために撮ってるひともいるだろうし、機材や撮影そのものに意味を見出すひとだっている。
それをみんなおんなじ写真クラスタ!なんてひとくくりにできるはずも、全員の足並みを揃えられるはずもないわけで。
話は横道に逸れたけれど、ちょっと気になることがあったので本題に絡めて結論を出しておいた。

ひとは変わる。
好きなものも変わる。心も変わる。考えかたも変わる。
物事との向き合いかたも、取り組みかたも、熱しかた冷めかたも。
年齢、経験、出会いと別れ、仕事、ライフスタイル。ありとあらゆる事柄から影響を受けながら。
それこそが、ひとが成長と呼ぶものなんじゃないだろうか。
ともあれ今とこれからの私は、これまでの『競馬のいいとこ全部どり!』から『好きなものを好きなだけ』に。
“動機づけ”と和訳されるように、モチベーションって文字どおり、好きなもの、好きなことへの自分の想いそのものなのだ。
うまく気持ちの変化を受け入れることができれば、趣味とも自分自身とも楽しくつきあっていける。
今はまだちょっと戸惑いつつも、そう信じて。

哲ちゃんと晶ちゃん先生のお話

「この勝利を佐藤哲三騎手に伝えたい。」

キズナが第80回日本ダービーを制した直後に伝えられたトレーナーの言葉だ。
私はすでに泣きに泣いていたが、それを聞いてさらに泣き崩れた。
先生のことだから、きっと感極まって心の叫びがそのまま口をついて出たんだろうと。

あくまで個人的に感じていた憶測でしかないが、二人のあいだにはキズナが最後の大仕事だという共通の意識があったように思う。
ともにゆるぎない自信と万感の想いがあったのだ。
しかし新馬戦と黄菊賞をこのうえない内容で連勝し、さあまさにこれからというときにあの落馬事故が起きてしまった。
その先はあらためて説明する必要もないだろう。
新たな鞍上に武豊騎手を迎え、キズナはまるで天命に導かれるかのようにダービー馬となった。
かつてのパートナーが栄光をつかんだとき、かつて背にいたジョッキーはひとり病室のテレビでその瞬間を見守っていた。
その彼への、公共の電波をフル活用した私信であり心の叫びだった。

哲三騎手が再起をはかるかたわらでキズナ陣営は凱旋門賞を目指し、その後も数々の栄光と頓挫の道を駆け抜けながら、実に長い月日が流れた。
その間、哲三騎手は精力的にさまざまなメディアで近況を報告したり競馬について語らい、佐々木師もまた主戦への激励を絶やさなかった。
今にして思えば、佐々木晶三調教師こそが騎手佐藤哲三の一番のファンだったのだ。

やがてその日はやってきてしまう。
哲三騎手の引退式で花束贈呈に臨んだ佐々木師は終始笑顔だった。
が、その際に握手といくばくかの言葉を交わしあい離れたあと、天を仰いで感極まっていた姿もこの目にしっかりと焼きついている。
本当は誰よりも無念で悔しくて寂しくて泣きたかったのに違いない。
しかし涙はなかった。
新たな門出を迎える同志へのはなむけといわんばかりの笑顔だった。

それから数ヶ月後、カメラの前で佐々木師は人目をはばからずに泣いた。
立場も身の上もある大人の男性があんなかたちで堂々と人前で泣くのを私は初めて見た気がする。
騎手の肩書きを返上してからも日々仕事をこなし、ようやく身辺も落ち着いてきたであろう哲三氏は、そのすぐ隣で神妙な表情を浮かべながら師の言葉にじっと耳を傾けていた。
以下は、おととしの年明け頃にグリーンチャンネルで放送された特番『ジョッキー魂』内で行われた二人の対談(厩舎訪問)の覚え書きである。


晶「いつからだったかなぁ、サクラエキスパートで初めて(一緒に)重賞勝って。

  コンビ組むようになったのはタップダンス(シチー)の朝日チャレンジカップから。
  (哲三元騎手は)思い切った騎乗をしてくれる。
  私なんか競馬勝つのなんて奇跡だと思ってるから、
  どうせ負けるなら思い切って乗ってくれたほうがありがたい。
  
タップダンスの朝日チャレンジカップがあまりにもうますぎて、
  亡くなった当時の友駿(ホースクラブ)の会長に
 「タップダンスは生涯、佐藤哲三騎手で」って東京までお願いしに行って。

  最初の有馬記念の、ファインモーションをつぶした佐藤哲三
  
あれはおもしろかったですわ。
  あのとき初めて、競馬っておもしろいんだなぁって。
  
言ったことないけどね、私が三度目が勝負だと思ってたら、
  彼は思った通りに乗ってきたのでね。

  なんだ、俺の心が分かるのか、と。」

哲「ずっと一緒にやってたらだんだん分かってくる。
  先生も僕がどんな競馬するのか分かってると思うし」

晶「10年間で22の重賞を勝たせてもらってね。
  哲ちゃん引退して、今なんか重賞出せる馬いませんわ。最悪ですわ(笑)。
  (隣の哲三氏を見ながら)もう一回カムバックする?
  こうやって、片手で、腕くくって…」

哲「しますか(笑)」

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この二人、なんとなく雰囲気が似ている気がする。


いくばくかの未練を残しながら鞭を置いた元ジョッキーに「戻っておいでよ、また一緒にやろうよ」だなんて、たとえ冗談であれ本音であれ、口にするにはかなり勇気のいる言葉だ。
師はそれをあえて本人に言ってのけたのだった。
ほかならぬ師にああ言ってもらえて、過去を過去にしてもらえて、哲三氏もいくらか心の荷が降りたのではと感じた。
だったらいいなと思わずにはいられなかった。
そう思わせるほどに二人の表情はおだやかだった。
二人で笑いあって過去と今との間に線を引いたのだ。
線を引いたからこそ、ようやく師は心おきなく泣けたのだろう。
ああ、ついに彼らの信念の物語が結末を迎えてしまったのだなと、私もまた一緒に泣いた。
対談にはもう少し続きがある。


晶「てっきり調教師の試験受けるもんだと思ってたんだけど。

  腕が動かないと、装鞍ができなくてマイナスになるのでね…」

哲「いつか先生と肩を並べてG1勝ち負けしたい。
  でも、今のままだと絶対負けるので。
  いつも言ってるように、今は今の仕事をね」

晶「来るべきときが来れば。そのときだね。」

 

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哲三氏が「かわいいと思った」キズナである。無邪気でかわいい。

 

佐々木師は哲三氏と、これまでとは違うかたちであったとしても同じ志を持つ競馬人として切磋琢磨をしていきたかったはずで、本当は調教師を目指して欲しかった、目指すものだと思っていた、いや願っていたのだろう。
結果として佐々木師はこれまでどおりトレセンに残り、哲三氏は決意を新たにトレセンを後にした。
信念を分かち合った二人が袂を分かった瞬間だった。
内と外とで分かたれてしまった二人のゆく道がいつかどこかで交わりあうことはあるのだろうか。
いつの日かそのときが来てほしいと、二人の仕事に魅せられたファンはあの夢の続きを望まずにはいられない。
どんな形であるかは、今はまだ見えないけれど。

一方で、今もなお続いている物語もある。
新馬のころを二人が手がけたアップトゥデイトは最優秀障害馬にまでのぼりつめ、7歳を迎えた今も現役で活躍しつづけている。
同馬を担当しているのは、父の背を見て育ち、タップダンスシチーに魅せられてこの世界を志した佐々木貴啓調教助手だ。
時はこれからもさらに流れてゆく。
かつての名手が背を知る馬たちも順にターフを去り、同じく障害レースの道に果敢に挑んだダローネガは先日競走中に逝ってしまった。
長らく厩舎を支えつづけた彼に感謝をするとともに、ここであらためて冥福を祈りたい。
佐々木晶三厩舎において、主戦をつとめた哲三騎手とともにレースに臨んだ経験を持つ馬は8歳馬のスランジバールと、このアップトゥデイトのみとなった。
アップはあのキズナとは同郷で同期。縁の力を感じずにはいられない。
どの馬も無事に競走生活をまっとうすることを願うばかりだ。

時はさかのぼって2014年12月はじめ、中京競馬場で行われたタップダンスシチー号お披露目の場で、かの伝説の男たちがふたたび一堂に会した。
彼らはそれぞれに年をとっていたが、往年の輝きは色褪せていなかった。
タップは二人の姿をみとめるや否や怒りどおしで、二人はかつて描いた夢をふり返りながら笑っていた。
佐々木師は哲ちゃんがいなくなって寂しいと口にし、哲三氏はすみませんと応酬する。
なごやかな談笑の中で、哲三氏がもう佐々木師を昔のように愛称では呼ばなくなっていたことに気がついた。
ラジオの公開収録という公共の場だったこともあるのだろうが、なにより今はもう生きる世界をたがえた彼なりのけじめなのだろう。

佐々木晶三調教師は、騎手佐藤哲三、人間佐藤哲三に心底惚れていた。
こちらにまでめいっぱい伝わってくるほどの熱量で。
あんなにもひとりの男に惚れられた哲三氏はジョッキー冥利に尽きる。
あんなにもひとりの男に惚れ込んだ佐々木師もトレーナー冥利に尽きる。
お互いに、人間としてホースマンとして生涯最高のパートナーと出会えたのだ。
これを仕合わせと呼ばずしてなんと云うだろうか。
そして、そんな彼らを長らく応援することができた競馬ファンもまた幸せだったのだ。
同志で親友で相棒。
ともに信念を分かちあった彼らのあいだに言葉はいらなかった。
このうえない絆で結ばれた唯一無二の関係だった。

私は、佐々木師が親しみを込めて哲三騎手を哲ちゃんと呼び、哲三騎手が少し照れたように師を晶ちゃん先生と呼ぶのが大好きだった。
これは、そんな二人の信念の物語がひとまず終幕をむかえた際の、いちファンの備忘録である。