うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

心は記憶と感情の器

長年撮りためてきた画像のデータをGoogleフォトにバックアップした。
容量が増していくたびに「ある日突然これが全部飛んでしまったらどうしよう…」「そうなるかもしれない前になんとかしなければ…」と気が気でなかったが、これでひとまず安心だ。
デジタルカメラのメモリとスマートフォン端末をいっぱいにしていた中身をすっきりさせたことで、心のつかえがとれて身軽になった気がした。
ほんの少しの心もとなさとともに。
いま私は、自分の頭の中において、それと同じことをしようとしているんじゃないだろうかという疑念とともに。

ひとは忘れる生き物だ。よくも悪くも。
にもかかわらず、ひとには絶対に忘れたくないことがたくさんありすぎる。
だからこそ思い出のインプットとアウトプットをすることによって記憶のバックアップをとろうと試みる。
方法はひとによってさまざまだろう。
私にとっては写真と文章。
記憶が鮮明なうちに撮ったり書いたりつぶやいたりしたことが、埋もれた思い出をとりだすための鍵だったり、ちょっと立ち戻って見返すためのしおりとなるのだ。

その思い出を急ピッチで整理していこうと思いたった。
自分の中のとある事柄がもうじきひとつの年月の区切りを迎えるにあたって、これまでずっと大切に心の中にしまっておいたものを目に見える形として残しておきたかったからだ。
先日からちょっとずつとりかかっている。
ひとつ仕上げるたびにひとつ肩の荷がおりてゆく。
忘れまいと気を張っていた、忘れられずしきりに思い浮かんでいたことからの解放でもあった。
でもこの解放感って画像データのバックアップをとったときの安心感と似ているなと気づいたとき、なんとはなしに罪悪感のようなものを覚えたのだった。
忘れたくないから書いてるのに、書きおわって安心したら忘れてしまうのではないかと思い当たって怖くなった。
まるで安心して忘れたいがために急いて記録しているようにさえ思えてきて、自分で自分の頭と心が怖くなったのだ。
書いて消してをくり返すうちにいまある自分の心が空っぽになってしまいそうで後ろめたい反面、いつまでも忘れられない過去の未練にとらわれつづけていくのはつらいとも感じている。
その気持ちの昇華をするためにこそ書いている。
いまもなお葛藤はつづいている。
明確な答えはでていないし、まだ割り切れてもいない。
が、人生だってそんなものだろう。
私にはこれしかない。
絶対に忘れたくないことがあって、覚えておくためには書くしかないし、なにより私自身が書いておきたいのだ。
答えははじめから決まっていた。

ところで、それにしてもスマホはよく壊れる。
ひとの心もわりと簡単に壊れるらしい。
私事ながら人生大失敗したときにややきわどい時期がしばらくあって、まあ壊れるまでにはいたらなかったのだが(我ながら頑丈にもほどがある)、幸か不幸かその当時のことをあんまり覚えていないのだ。
ひとから言われてようやっと思い出すこともあれば、どれだけ諭されてもまったく思い出せないこともある。
あのころきつかったことが完全に過去となってからなんとなく唐突に思い出したこともある。
壊れないようほどほどに自己防衛が働いていたのだと思われる。人間の脳の神秘である。
生きていくというのは、たぶんそういうことのくり返しなのだろう。

ひとは忘れることで生きていける。
ひとは思い出があるからこそ生きていける。
矛盾に満ちているけれど真理。
ひとの心は記憶と感情の器だ。
器の中は、過去をよりどころにした記憶の容量と、いまとこれからを生きるための感情の容量とでまざりあっている。
どっちが重すぎても軽すぎても、おそらくうまくいかない。
ひとそれぞれにちょうどいいバランスがきっとある。
忘れる自由と覚えている自由、はじめからどちらも持ちあわせているのだ。
時機がきたからだとか、いつまでもこだわりつづけるのはよくないからといって無理に想いを打ち消す必要もなければ、忘れ去ることは裏切りや罪悪とばかりに自分を責める必要もない。
そもそもひとの心はデジタルのデータのようにきれいに消したり足したり、ファイル分けしたり、割り切ったりできるものではないのだから。
でも、前を向きたいからだとか、あのころの気持ちをいま一度呼び戻したいだとか、自らにとって必要なことならばそうするための工夫をすればいい。
ほかならぬ自分自身の心なのだから。

忘れてもいい。覚えていてもいい。
自分をほんとうに許せるのは、自分だけだ。

エスポくんと、ごっちゃんと、てっちゃんと

「あれ?何かつながりあったっけ?」
思わず声が出た。
ほかならぬ相棒のこと、長い戦線離脱という同じ境遇にある主戦騎手が口をきいたりしたのかな?
というふうにまずは解釈したが、落ち着いてほんの少し紐解いてみればチャクラ、メイショウオスカルの頃からのつながりが浮かびあがってきた。
トレーナーとジョッキーとのあいだには実に十年来の深い信頼関係が築かれていたのだ。
かくして宙に浮いていたエスポワールシチー号の手綱は、ごっちゃんこと後藤浩輝騎手に託されることとなった。

彼は長らく迷いの中にいた。
迷いというより恐れだったのかもしれない。
迷いと恐れを抱き前へ進もうとしている人間に対して、思いやりや誠意を適切な態度で示すことは簡単なようで難しい。ましてや実利が絡むともなれば。
綺麗事だけではもちろんはなく、師いわくゲートのうまいジョッキーに乗ってもらってスタートのちょっと苦手なエスポを何かしら工夫してもらいたかった意図だとか、これまでの関係性からの頼みやすさ、オーナーであるクラブも含めて、諸々の見解の一致もあったのだろう。
「この馬に乗って」とお願いするというのは、全部ひっくるめてそういうことなのだ。
彼が復帰を表明してから一番はじめに飛び込んできた騎乗依頼だったという。
騎手後藤浩輝復活への筋道を、誰よりも早く提示したということだ。
乗り役としてもっとも欲しかった信頼の証を胸に、彼は信じた道へと勇気をもって挑むことができたに違いない。

さらに時をさかのぼれば、哲ちゃんこと佐藤哲三騎手もまた迷いの中にいた。
いわく「ケガでモヤモヤしていた」とき、師は彼にエスポワールシチーの一切を任せたという。
この先はあまりに有名な語り草となっているのでくわしくは省略する。
夏のあいだ小倉へ連れて行きたいと言われればそのとおりにし、僕の言うタイミングでレースを使って欲しいとお願いされたら、使える状態にあってもじっと主戦のゴーサインを待った。
今どきこのご時世において、厩舎サイドと乗り役がこんなにも深いかかわりを持てるものなのかと、ジャパンカップダート後のレース回顧や数多の後日談に耳を傾けながら感銘を受けたものだ。
そしてそれがとても稀有なものであるということもすぐに想像がついた。
丁寧に対話を重ね、最善を尽くし、すべてを慎重に積み重ねながら築きあげられた信頼関係だった。

名馬エスポワールシチーを通して私が見たものは、馬と人、人と人との熱く優しく強いつながりにほかならない。
数々の数奇な縁をつなぎ合わせた先に未来と栄光があったのだ。
二人の騎手にとっては希望そのものだっただろう。
彼らを見つめるファンにとっては夢そのものだった。
エスポくんとともに勝利を掴んだごっちゃんをまぶしく見つめながら、私は、彼をふたたび現役のジョッキーとして応援できるファンの人たちがうらやましかった。
このことを誰とはなしに言おうか言うまいか、この今が過去になったときにでもそっと独り言のように打ち明けられる日が来るだろうと考えているうちに、決して口にしてはならない言葉となってしまった。

彼らがともに信頼しあったから。
彼らが馬を人を信じたから。
彼が想いのすべてを汲んで乗ってくれたからこそ、たくさんの人が、あんなにも一緒になって喜べたのだ。
今も目に焼きついている。
あのときの記憶が鮮やかなままで時計の針は止まっている。
彼が一度進めた時間の流れだ。
もっと見ていたかった。
見ていられると信じるには充分すぎるほどに、確かな手応えだったのだ。

そして彼らはステッキを置いた。
信念を分かち合った二人の名手の引退に際して、彼らを陰ながら支えた安達師はそれぞれに惜別の言葉を贈っている。
同じ口を開くのならば、あんなふうにあたたかい言葉をかけられる人間でありたいものだ。
ねぎらいながら想いを伝えることは、とてもとても難しいことだけれども。

気がつけば二年と少しの月日が経っていた。
今年度はエスポワールシチーの子どもたちのデビュー年だ。
地方からはすでに産駒の健闘が伝えられている。
歓喜にわく日はそう遠くないだろう。
あのとき夢に見た希望の物語は、ほんの少し形を変えて、ずっと続いていく。

 

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ツイッターにトリセツはないけれど

ここにやってきた人って、もともと他人としゃべるのはちょっと得意じゃないけど別に人間が嫌いというわけじゃなくて、むしろもっと人と話をしてみたくて、なにより自分の中に話してみたいことがたくさんある人たちだと思うのですが、どうでしょうか?
ゆるいつながりとはいってもある程度つづけていればそれなりの関係は生まれてくるもので、たくさんの人間がいてたくさんのコミュニティがあれば、どこかに属し誰かとつながる喜びと悩みはいつも背中合わせ。
はじめのうちは気がねなく、ゆるく楽にいられたはずなのに…。

この人とはつながりも絡みもなかったはずなのに、ふと気づいたら先んじて拒絶されていた。
それなりにやりとりがつづいていたのに、いつの間にか関係が一方通行になっていた。
前にお別れしてしまった人にもう一度ちゃんと謝りたいけど自己満足もはなはだしいから踏み出せない、でもいつまでもモヤモヤと後悔が消えない。
もしかしてただ気づいてないだけで、自分は不特定多数の人に嫌な思いをさせてるんじゃないだろうか。

やりとりを重ねて親しくなった人とオフで対面してみたもののオンのときのようにうまくいかなくて、ツイッターと違っておとなしいんですねあんまり喋らないんですね、とがっかりさせてしまったかもしれない。
オンラインではついつい違う自分を演じてしまう。

いい作品、いい人、いい言葉と出会ったとき、自分にはないものを羨んで、自分には何もないことを思い知らされる。
本質は同じようなことを言っているはずなのに他の人のほうがうんと注目されて評価されるのはどうしてなんだろう、自分の伝えかたはそんなにだめなのかな…
などなど。

言葉や作品は、表に出した瞬間その人からはいったん離れて、受けとる相手に全部ゆだねられます。
たとえば『会いたい馬や人には会えるうちに会っておこう、行きたい場所には行けるうちに行っておこう、後悔しないように』という前向きで素敵な言葉も、家庭や仕事や身体の事情でそうすることが難しい人にとってはつらい言葉となってしまうかもしれない。
人の心とは多面体で、いいものをいい、そうでないものとそうでないなぁと客観的にジャッジする反面、今の自分の想いや境遇にあてはめて本音では共感したり、勇気づけられたり、あるいは反発したり、憤ったり、拒絶したり…
本当に、受けとる人によって見える聞こえるかたちが変わってくるものです。
絶対的な善悪はさておき、あれが好きとかそうでないとか、あなたはわたしはこう思う、というような個人の想いに正解不正解をつけられるわけがなく。

万人が巧い、素晴らしいと口をそろえる作品があるかたわらで、一部の熱狂的なファンを虜にしている作品もあります。
他の人には数ある競馬写真の一枚にすぎなかったとしても、もしも被写体が自分の好きな馬や人だったら『撮ってくれた人にお礼を言いたいくらい嬉しい!わたしにとってはこの一枚が最高!』という思いがけない出会いもあるはず。
そして、どこかの誰かにとってのそういう一枚を、もしかしたら自分が撮っているかもしれない。
もちろんこれはほんのたとえばなしで、写真でなくても絵や文かも、もしくはハンドクラフトかもしれないし、なにげない気持ちで投稿したツイートかもしれない…

ツイッターではいいね・リツイートの数で評価が可視化されてしまうぶん絶対的な指標ととらえられがちです。
数の評価というのは目に見える確かなもので、それを欲するのは作ったり表現するうえでのあたりまえの欲求なので無理もありません。
が、大多数のみんなが一番欲しいものは、評価ではなく共感なんじゃないでしょうか。
わたしの好きなものを知ってほしい、見てほしい。
自分はこのことについてこう考えてるんだけど、みなさんはどうですか。
リプライがつくと嬉しい。
いいねがつくともっと嬉しい。
リツイートされると同意してもらえたような心強い気持ちになる…
原点はそこにあると思うのです。

いわゆる“バズってる”ツイートって、大多数の人の胸のうちにあるであろう『そうそう、あるある』を簡潔明瞭かつ巧みに言いあらわした140字だったり、パッと見ただけでわかる日常の中の『あっ』という風景を切りとった画像だったり、共感を呼ぶものが多いです。
共感が共感を呼んであれよあれよという間に…というやつです。
逆にあんまり奇をてらったものは見ないような。
評価を狙って作られたものって、案外みんな無意識のうちに見抜いてるということかも(そうして狙った評価をきっちり得られる人はその道のプロです)。

いいものを作ろう、いいことを言おう、いい人でいたい。
面白いこと役立つことを言わなきゃ価値がない、飽きられる、離れられるんじゃないかしら。
ありのままをすべてさらけだす必要はないけど、こうありたい自分を演じるのは、、、
もしかしたら、人によっては楽しいのかも。
でも、ちょっと頑張ってそうしてると、いずれしんどくなってくるかも。
タイムライン上の饒舌な自分も現実世界での人見知りな自分もどっちもわたしなんだから別にいいじゃないですか。ちょっとくらい失敗しても。

物事には始まりと終わりがあります。
同様に、人には出会いと別れがあります。私はどちらも卒業ととらえてるのですが。
ツイッターそのものだったり、つながっていたあの人だったり、ずっと取り組んでいた趣味だったり、愛でつづけた作品だったり。
人間は前へ進んだり後ろを振り返ったりしながら考え方や感じ方が変わっていくものです。
ずっと同じ人が神様じゃなくていい。
自分の中に実在する神様を据えると、なにかあったとき、気持ちが揺らいだときにしんどいです。
ずっと同じものを同じ熱量で好きでいるのはとても難しい。
どんな生き物もずっと全速力で走りつづけることはできません。
そうして愛していたものや考えかたが今までとはちょっと変わってしまったなと自覚したとき、『嫌いじゃないけど、いったんさようなら』と誰か何かから距離を置くことは、決して拒絶や嫌悪からくる後ろ向きな別れではないはずです。
自分もいつかどこかでしているし、されているかもしれない。
最初から価値観を大きくたがえた相手とならなおさらのこと。
いつかどこかでタイミングが合ったときに、情熱がよみがえったときに、想いが通じたときに、縁があればまた結びなおせばいいじゃないですか。
幸運にも相手が同じ気持ちでいてくれたなら。
でなくでも思い出は確かに心の中にあり続けるのですから。

私事ではありますが、ツイッターに流れ着いてはや7年がすぎました。
趣味である競馬に紐づけて言いたいことを言うために軽い気持ちでアカウントをとったのが、時を経て今ではそれ以上の意味合いを担う場となっています。
人との関係や好きなものと向き合う姿勢について考えたり、なんだかとてもいろいろあった気がするのですが、この空間の中での悩みって数年前も今も老いも若きもだいたい共通してるんじゃないかなぁと感じています。
ゆるいつながりのSNSとはいえ根本は人と人とのかかわりなのだから、コミュニケーションツールとして以上の取扱説明書なんてないのです。
でも、人は人の気持ちを察して思いやることができます。
他者とのかかわりを通して自分を大切にすることもできます。
この頃はさすがにそのへんのやりかた、割り切りかたがちょっと分かってきた気がするので、ツイッターはじめたてであれこれ悩んでいた自分がどこかの誰かに言って欲しかったであろうことを暫定のベストアンサーとして挙げてみました。備忘録として。

いつのときも勇敢な挑戦者。アップトゥデイト、二度目の中山グランドジャンプへ

勝つことしか考えていなかった。
アップトゥデイトオジュウチョウサンを打ち破るには自分の競馬、セーフティーリードをとって持久力勝負に持ち込むよりほかないと、当日までに何度も何十度も、想い描いていた。
レコードを叩き出したしたおととしの再現、道中でオジュウチョウサンにマークをさせずに三角でどれだけ後続を突き放しているか、いかに持ち味のロングスパートを成功させるかが鍵だったのだ。
陣営はこの日のために乗り込みを増やし、スタミナ強化に努めてきた。
まさにメイチの出来にあった。しかし。
逃げるメイショウヒデタダを追走し、仕掛けのタイミングで前をとらえにかかるも後ろとの間隔を大きく広げるにはいたらず、とうとう自身も捕まってしまった。
直線を向いて勝ち馬との差は広がるばかりで、末脚に懸けたサンレイデュークの後塵をも拝した。
主戦の林満明騎手いわく、本番では気合が乗りすぎて跳びがよくなかったという。
賢い馬なので雪辱を果たしたいという周囲の期待を敏感に察していたのだろう。
持ったままで並びかけてきたとき、オジュウチョウサンの手応えは唸っていたという。
完敗だった。

私は彼をちゃんと理解していなかったのかも知れないな、と思った。
なんというか、私の想い描くアップトゥデイトと、アップトゥデイトそのものは違うのだ。当然のことながら。
着差以上の強大な力に愛する馬が打ち据えられて、それはもう悔しいのだけど、ひとりでに涙が出てくるくらい悔しかったのだけど、当然それって自分の気持ちのための悔しさなのだ。
どうして、っていっても、頑張って走って結果が出た以上、どうしてもだし、現実がこうなのだ。

アップトゥデイトそのものを一番よく知っているのが厩舎陣営であり主戦騎手だ。
どうして逃げなかった、どうして離さなかったというのは、それはもう結果でしかない。
逃げられなかったのだろうし、逃げないほうがいいと判断したのだろう。
行ったけど離せなかった、離さないほうがいいという判断だったのだろう。
初めての大障害コースに挑み、自分たちの競馬に徹したメイショウヒデタダが最下位に沈んでいるように、深追いをするのは危険だと察したのだろう。
果敢に挑んで散りゆくさまは美しい。挑戦者の美学だ。
一理あるが、そうして無理をおして大敗し、リズムを崩した馬をこの十年のあいだに何頭も見てきた。
ファンは自らの理想と願望とを人馬に当てはめて夢を見たり馬券を買ったりできるものの、願い祈るだけで彼らを応援する以外に何もしてやれないし、ましてや一緒に責任を負ってやることもできない。
たしかに競走馬は戦うために、勝つために生まれてきている。血を繋ぎより強い力をと生産されている。
だからといって、命を賭して闘った人馬を、心身ともにすり減らして帰ってきた彼らを、勝負に敗れたからといって、力が及ばなかったからといって、展開に翻弄されて力を発揮できなかったからといって、下手だった、弱かった、だらしがなかったなどと切り捨てることはできないししたくはない。
ときに事実としてそういうこともあるのかもしれないが、私はそれを判断するだけの知識も経験も立場も持ち合わせていない。
あったとしてもできないし、しないだろう。
ファンはいつだって見るだけ。言うだけ。思うだけ。感じるだけ。
だから信じて受け入れる。
アップトゥデイトは最善を尽くして絶対王者に、なにより自分自身の限界に挑んだのだから。

無事に闘いを終えて帰ってきてくれたからこそ、次のこと、これからのことが考えられる。
今日もこれまでもいつのときも、いちファンとして『絶対に勝てる』という一心で、彼の力に見合うだけの期待をかけて応援してきたが、今回の勝負づけを見て、いよいよ来るべきときが来たのかもしれないと一抹の覚悟が胸をよぎった。
しかし私は決して夢を諦めない。彼らが挑みつづける限り。
蓋を開けてみなければ中身のわからない宝箱のように、競馬というものは必ずしも一番強い馬が勝利を手にするわけではない。
勝った馬こそが強いのだと讃えられ、歴史に名を刻む。
しかし讃えられ記録と記憶に残るのは、必ずしも勝者だけではない。
敗者もまた勇敢な挑戦者なのだ。

アップトゥデイトはもはや私にとっては競馬の歴史そのものとなった。
その名が示す通り、常に新しく、進化を遂げ、自身を塗り替えていく。
生まれた時代が悪かったという声も散見されるが、彼自身もまた記録と記憶に残る輝かしい一時代を築いたのだ。
願わくばふたたびの栄光を。いつのときも最善と最良を。
私の夢と彼らの挑戦はこれからも続いていく。

 

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食わず嫌いの作法

いよいよ桜花賞だ。
今年もクラシックの季節が到来した。
ひとあし先にプロ野球ペナントレースも開幕した。
競馬も野球もどちらも大好きだ。
スポーツが好きだ。
馬も人も、勝利や達成を目指して闘うアスリートはかっこいい。

実は、少し前までは野球のどこが面白いのかがわからなかった。
投げて打って走るだけの競技になにを何時間もかけているのかが理解できなかった。
あの選手たちは大人数でいったい何をしていて、ファンがどこに面白さを見いだしているのかが単純に疑問だったのだ。
そんなナイター中継に子どものころはアニメやバラエティ番組、大人になってからは毎週欠かさず観ていたドラマをつぶされたり延長で押し出されるたびに「ああ、またか」と苦々しく感じていた。
あるとき本当に腹に据えかねて、つぶやきに洩らしてしまったことがある。
ほぼ延長することになるんだから住み分けしたらいいのにと。
諭されて冷静になって大人げなかったとすぐに猛省したが、「でも、私は間違ったことは言ってないよ…」という、モヤモヤとした気持ちはずっと晴れなかった。
人間、よくわからないものに対しては恐れを抱くものなのかもしれない。
怒りや不安を感じるものなのかもしれない。
だからとりあえず拒絶する。
自分はこれが嫌いだと心に決めておく。
すべては子どものころからの積み重ねだったのだ。

しかし私は、長らく嫌いだと信じて疑わなかった競馬を大好きになった。
この成功体験をもってすればどんなことも克服できるという自信が今はあった。
なぜ好きになれたのだろう?とふり返ってみたとき、競馬の魅力はさることながら、競馬というものを具体的に“知ること”ができたからだと思い至った。
知る前までは、知らないままにこれが嫌いなのだと頑なに思い込んでいた。
知ろうとしなかった。食わず嫌いだった。
物事を知るというのは自分の気持ちを紐解くこと、感情の正体をつきとめることでもある。
どうして嫌いだと思うんだろう?どうして腹が立つんだろう?
なにがわからないんだろう?ルールなのか、システムなのか、その周辺なのか?
なぜ野球の試合は長引くのか?9回表裏の中でいったいなにが起こっているのか?
ギャンブルって本当に悪いことなのか?競馬は賭博でしかないのか?
etc.etc.

知りたいという私の疑問に快く応えてくれたひとが身近にいてくれた。
これも大きな幸運だった。
競馬のときのようにナイターも一緒に観てくれた。
どちらも、もともと観ていたところに私が参加するようになっただけなのだが。
球種の見分け方がイマイチわからないとか今でも他愛もない質問を投げかけるが、無知を笑ったり責めたりもしてこないし、はじめてのときのように喜んで答えてくれる。
自分の好きなものを知ろうとしてくれるのが嬉しいのだそうだ。
その感覚は、競馬をおよそ十年見てきた私の中にもある。
自分の好きなものをひとと共有できるのはとても嬉しい。
たとえ細かいことはよくわからないうちでも、真剣に見ていると伝わってくるものはあるからだ。
これができるけどあれは苦手だというひとを、あれが得意だというひとがカバーする。
なんでも一人で全部できる人間なんていない。完璧な人間なんてどこにもいない。だから高めあってサポートしあう。
野球選手ってかっこいい、プロの職人集団なんだと初めてわかったとき、形は違えど一頭の競走馬とともに勝ち星を目指す競馬と同じだと自分なりに理解できたのだった。

とはいえ、不安定に延長するから腹立つというひとの気持ちも、ギャンブルなんて嫌いだというひとの言い分もわかる。
好く権利も、嫌う権利も、誰にだってある。
好きと嫌いのどちらも経験した私にはどちらの気持ちも理解できるというだけだ。
「ドラマ録り逃した!延長なんなの!」と怒ったときに「まあまあ」と諭してくれたひとの気持ちも今ならわかる。
この心の移り変わりは我ながら大きい。
だからといって他人に対してとやかくいう権利はないし、なにかを押しつけるつもりもない。
ちょっとだけ知ってみればもしかしたら嫌な気持ちが解消されるかもしれないよ…と、自らの経験を踏まえて独り言をつぶやくだけだ。

ちょっと一口つまみ食いしてみて、おいしかったらもうけもの。
やっぱりおいしくなかったら、口に合わなかったでいい。
ただ、つまみ食いにもマナーがある。
それを料理したひとも、おいしいというひともいる。
口に合わなかったからといってバンと席を立ち「これ嫌い!」と言い放ってしまうと、せっかくの宴席が気まずくなって、みんなおいしくなくなってしまうかも。
あと、食わないうちから嫌いだと罵っていると、いつか自分の言葉に追いつめられる日がやってくるかもしれない。

というわけで、ごめんなさい、競馬も野球も面白かったです。