うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

趣味と結婚の二択を迫られた時のお話

「僕と競馬、どっちが好きなの?」
二十代だった私が交際相手から受けた詰問を、十年近く経とうとしている今も時折思い出す。
転職先の上司として出会った年上の彼は何かにつけて親身になってくれ、ありがたいなと感じていた矢先に交際を申し込まれた。
異性として惹かれたことがはじまりではなかったが彼の生真面目さと誠実さを信じてみようと心に決めた。
お互いに“いい年”だったことも後押しとなった。
意識の先にあるものはやはり結婚。
暗黙の了解のように、私たちは寄り添ってゆくこととなった。

リアルタイムでどうしても観たいレースがあった。
競馬をはじめて一年あまりとまだ日が浅く、すべてのことが真新しく、何もかもが楽しくてたまらない時期だった。
これが後々の、すべての分かれ目となった。
付き合う以前から彼は私の競馬好きをよく知っていた。
彼自身は競馬をたしなむ人間ではなかったが、普段の物腰や言動から「この人になら大丈夫」と確信を得たのち意を決して打ち明けたのだった。
期待どおり彼は寛容な人間で嫌な顔ひとつせず、連れだって出かけるときはウインズへ立ち寄ることを勧めてくれたり、ビッグレース前後はさりげなく話題をふってくれたりと、私にとって常に理解ある上司であり友人であり、だからこそ恋人同士になってみようと思えた。
さりとて私から競馬について熱弁をふるったことはない。
彼に自分と同じものを好きになってほしいと望んだことはないし、ただ好きなものを好きでいさせてくれるだけでよかった。
競馬と聞くだけで露骨に眉をひそめたり、「馬券買うんでしょ?儲かってる?奢ってよ」と悪意なくあざ笑ってくる人間も多いなか、ただ黙って許してくれる存在は本当にありがたかった。
だから、今回だけはどうしてもとお願いしてみたのだ。
いつものように昼から会おうという誘いに対して、
「ごめんなさい、埋め合わせは後日必ずします。夕方からでもいいですか?」
と。
彼の顔色が変わった。

「二人の時間よりも趣味を優先するのなら、僕たちは何のために付き合っているのか」
責めるように彼は嘆いた。
さらに追い討ちをかけるように、ネット上での執筆を一切やめてほしいとも言い渡された。
なぜですかと訊ねてみれば、身内の妻のブログがきっかけで不倫が発覚したとか離婚したとかなんとか、あまりはっきりとは覚えていない。
私がしたためているブログは旅行や食べ歩き、読んだ本の感想など日々の生活のささやかな感動の記録であって、あなたとのことや他人については何ひとつ触れていない。
だからこの場で目を通してくれたってかまわない。
懇切丁寧に説いたものの、
「ネット上にものを書くこと自体が受け入れられない。裏ブログがないとは証明できない。僕は君がネット上で文章を書いているという時点で疑いの気持ちを抱いてしまう」
とりつくしまがなかった。
書くことが好きです、ブログを書いているんですと話したときも、「実は競馬が好きなんです」とおそるおそる打ち明けたときのように嫌な顔ひとつせず頷いていたひとは、今や別人のように顔をこわばらせていた。
本当は、彼は、私のやることなすこと全て気にくわなかったのだろうか。
笑って頷いてくれていたのは、私の懐に入るための方便だったのだろうか。
信じられないのは私のほうだ。
「わかりました。ブログはやめます。あなたとの時間を最優先します。だから許してください」
私は彼に頭を下げた。
男性とお付き合いをするのは、女性が結婚をするというのは、こういうことなのかもしれないと。
謝ってほしいのは私のほうだったのに。

好きなものの大半を取り上げられた私は大いにキレた。
はじめのうちこそおとなしく従う努力をしたものの、好きなことを何ひとつできない苦しみにひどく苛まれ続けた。
彼の要求は一方的だし、交際前後の手のひら返しにもまるで納得がいっていなかった。
あなたと私との妥協点を探り合いたいのだとあれから何度も声をかけたのに、最後までまともに話し合うことすらできなかった。
ほどなく二人は別れた。
生ける屍となりゆく私を彼が見かねたのだった。
私とて他者の自由と権利を奪い、話し合いにさえ応じてくれない相手への不信をぬぐうことはできなかった。
ごめんなさい、もう限界でしたと頭を下げた。
彼からの謝罪はなかった。

私は彼と添い遂げるべきだったのだろうか。
時折ふり返って考えてみる。
彼とともに生きる道はあったのだろうか。
どれだけ考えても、なかったとしか言いようがない。
未練もない。
あのとき彼が望むとおりに競馬とブログを捨てていたら、私の心は死んでいた。
私は、自分の心を守ったことを悔いてはいない。
彼は私を自らの価値観、世間一般の女性という型枠におさめることを望んだ。
結婚、安定という美味そうなニンジンを目の前にぶら下げて私を意のままに操ろうとしたのかと彼を嫌悪した時期もあった。
もちろん私にも至らないところは多々あったのだろう。
お互いのどうしても譲れないものが不幸にもかち合ってしまった結果とはいえ、恋と男に生きられなかった私はきっとさぞかし強情な女なのだ。
他人をうまく頼れない、仕事でもプライベートでも肩の力を抜くことができずに独りで突っ張って立ち続けていた私を「君は可愛げのないところが可愛い」と許し認めてくれた男性だった。
放っておけない、この自分を頼れと申し出てくれた。
彼の想いに偽りはなかったと今も信じている。
あの言葉は確かに私の救いとなっていたからだ。

心は二つに割れたままとなっている。
実生活のうえで出会ったひとには、競馬が好きなことを打ち明けられない。
競馬場で出会ったひとには、実生活での“可愛げのない私”をさらけ出すことができない。
どちらも本当の私自身なのだけれども。
あれ以来、男性とお付き合いはしていない。できていない。
最後の最後に他者に対して心を開けないからだ。
対峙した相手には私が真に何を考えているのかが全く分からないはずだ。
克服と納得をしているつもりでも、あの時のような拒絶と否定がまだ怖い。
当たり障りのない返答で濁して、自らを型枠におさめて、無難な人間を装って自分を守る。
一番したくなかったことを結果的にしている。

たとえ同じものが好きでも、他者の価値観を否定し拒絶するひとはいる。
価値観が違っても、他者を許せるひともいる。
たとえ自分が許し受け入れても、相手がそうしてくれるとも限らない。
どうあがいても受け入れられないものもある。
何が何でも手放せないものもある。
信念を貫いてひとり生きてゆくことは難しい。そして時折淋しい。
多少の妥協や折衷はしても、曲げることなく、捨てることなく、解り合い許し合い、話し合って、お互いに尊重し合える関係というのは究極の理想でしかないのだろうか。
それを求めるのは強情だろうか。可愛げがないだろうか。
ただひとつ言えることは、私は想い慕った相手に二択など迫りたくはない。
しかし、そうせざるを得ないひとの心情も理解できる。
きっと、ひととひと、関係性によりけりなのだろう。
私は彼と深いところでの信頼関係を築けなかった。
そのことで長きにわたって自責の念に駆られていた。
もう、いいだろう。
まずは心を開くところから、もう一度ひとを信じるところから。
勇気をもって自分を再構築している。

怒らない、解りたい、許したい

ものを書いている限りは。
好きなものを愛でて楽しんでいる時は。

オジュウチョウサン号が満票で最優秀障害馬に選出されなかったことは、個人的には不可解に感じたし、とても残念なことでした。
この結果を受けてたくさんの競馬ファン、障害ファンの皆さんがやはり落胆し、あるいはおかしいと声をあげ、“満票を阻んだ該当馬なしへの一票”は大きな物議を醸しました。
私は「残念だな」と感じつつも、大きな論争の中に分け入り、一緒になって憤ることができませんでした。
こんな薄情な人間は障害ファン失格だと思う人がいるかもしれません。
先日の記事での言い分はおかしいと感じた人もいるかもしれません。
実をいうと、私も我ながら「おかしいのかな」とあれから思い悩みました。
なぜ残念だと感じているのに、みんなと一緒になって憤れなかったのだろうと。
それで、今一度よく考えてみて、気持ちの整理をつけようという決断に至りました。

「なぜ、そう思ったのだろう」。
人の話を聞くとき、文章を読むとき、報せを受けたとき。
別に何だっていいのですが、まずは当事者の心の内を知りたいと私は望みます。
今回の件については、「なぜ該当馬なしに投票したのだろう」。
オジュウチョウサンという他に並ぶものなき名馬がいながら、なぜ。
一年をかけて競馬を観ている人間ならば彼を最も活躍した障害馬と認めて票を投じずにはいられないはずなのに、なぜ。
昨年はそうしていたのに今年はそうならなかったのは、なぜ。
障害廃止論者であるとか、二年連続の満票を阻みたかっただからとか、炎上商法であるとか、憶測でなら何なりと言えるでしょうが、真意は当の本人にしか分かりません。
いくら他人が想像の限りを尽くしても、当人の口から語られでもしない限り、真実を知るすべはないのです。

では仮にそうさせる何らかの意志があったとして、「オジュウチョウサン号に投票する以外の選択は罪なのか?」
答えは否です。
オジュウチョウサン号に投票すべきなのでしょう、至極普通に考え感じたのならば。
理由は上に述べたとおりです。
競馬ファンとして、障害ファンとして、私も結果はそうあってほしかった。
想いを同じくした人が大勢いる。だから波紋を呼んでいます。
でも、そうしなかった何かしらの理由が当人にはあったのでしょう。
“思い、感じ、表現する自由”は誰しもに平等に与えられている権利です。
今回の場合は投票権です。
ここで誤解をしてほしくないのは、今は“自由と権利”の話をしているということ。
“すべき”というのはあくまで感情論であり、そうあってほしいという理想であり願望です。
しかし、これらの境界は非常に曖昧で混同しやすい。
たくさんの人が主観と客観に基づいて優秀な馬を選び賞を与えようというのですから、当然のようにさまざまな感情や思惑が入り乱れます。
今回は一票の思惑により、昨年は成った満票が今年度はかなわなかったという形です。
もちろん権利を行使した一票だったわけですが、感情がこれを拒絶するという気持ちは痛いほどわかります。
ただ、私はあくまで個人の自由と権利を尊重するという話を先日したのであって、私的な感情としては今日述べたとおり不可解に思えたし、とても残念でした。
障害競走を愛好し、オジュウチョウサンという名馬を素晴らしいと認める感情がそう思わせたのです。

今回の結果を受けて声をあげることは、何らおかしなことではありません。
率直な力強い声が数多く集まればそれがひとつの世論となります。
しかし世論が働きかけるべきは個人の主義主張ではなく、世相や団体です。
こういうときに是非を問うべきなのは、謎の一票というよりも、投票のシステムそのものなのではないでしょうか。
投票者の資格を問い直すべきだとか、そもそも賞金順やポイント制にすればいいとか、いろんな意見が聞かれます。
長年培われてきた伝統そのものを変えることは難しいのでしょうが、投じた票の意図を知るすべがあれば納得できる人は多いかもしれません。
何だかうまい考えが浮かばないのですが、各々の根底にあるのは“競馬への愛”だということはまず間違いないと思うので、個人の思想や行動を糾弾したり、理想とする結果を得るために異物として排除したり…というのは理にかなっていないな、怖いなと私は感じてしまうのです。
大元の団体やシステムが“投票するに相応しからぬ”と判断したとすれば、そうか…と頷きつつもやはり説明を求めるでしょうし。

最後に、個人的な話をさせてください。
できれば、できるだけ、私は怒りたくない。否定批判をしたくないという考え方です。
許せることは許したいし、許せないことともうまく折り合いをつけていきたい。
そのために今一度よく考えて、気持ちの整理をつけるためにブログやツイッターで文章を書きます。
どこにも書けないことは、おそらくどうしても許せない、理解できない、好きになれないことです。
そういう事柄にはわざわざを魂を削りません。
文章を書きあげるためには恐ろしいほどの膨大な時間と精神力を消費します。
我が身を削って呪いのような言葉を編みあげたところで、読んだ人とて気持ちよくはなれないでしょう。
書くということは許したい、解ろうとしたい気持ちのあらわれなのです。
価値観は多様であるべき、“自由と権利”と“感情と願望”はそれぞれ分けて考えるべき。
そのうえで頭ごなしな否定批判はしないという覚悟で私はものを書いています。
長いあいだ競馬をやっていると本当にいろんな人、いろんな主義主張や価値観との出会いがあります。
似ているもの、違うけれど惹かれるもの、不思議なもの、相容れないもの…
幾多の出会いと別れの中、やはり気持ちや好きなものを同じくする人がいて、そういう縁をこそ大切にしていきたい。
今回のことをどうしても誤解したままでいてほしくない人がいるので、これはいわゆる私信です。
伝わればいいなと願いながら、伝わらなければそれもやむなしと心を決めました。
失望されても、嫌悪されても、価値観の違いなので仕方ないねと受け入れるのみです。

綺麗事かもしれない。臆病なだけなのかもしれない。
私はこういう生き方しかできない人間です。
ものを書いている時は、好きなものを愛でて楽しんでいる時は、綺麗でありたい。優しくありたい。
だから、ごめんなさいと謝りながらでも、私は書き続けます。

勇気ある投票

オジュウチョウサンに何票入るかな。
中山大障害を観戦し終えてからずっとこの日を心待ちにしていた。
彼がこの賞にノミネートされてしかるべき名馬で、推される資格に値する活躍を見せたことは競馬ファンならば誰もが知るところだろう。
結果、290票中287票を獲得し、年度代表馬キタサンブラックとなった。
オジュウチョウサンには残る3票すべてが投じられていた。

報せを聞いたとき、ひとりでに胸に熱いものがこみあげてくるのを感じた。
もっと入っていてもよかったなぁ、当然だよ、すごい馬なんだから!と自分の馬でも携わっているわけでもないのに勝手に誇らしくもなり、ところ構わず大きな声で叫びたい気持ちになった。
これは進歩だ。
一頭の障害馬が無敗の王道を突き進み、2017年度の競馬界を牽引するとともに多くの記録と記憶を残したことを正当に評価した、勇気ある3票。
短距離と中長距離。芝とダート。そして、平地と障害。
レースは必要に応じて細かな区別がなされていて、各路線にて覇権があらそわれている。
しかし、名馬を名馬と讃えるのに垣根は必要ない。
その垣根を取り払おうという声が、今年ついにあがった。
オジュウチョウサンという稀代の名馬がそうさせた。
満場一致で最優秀障害馬に選出されてから一年の時を経て、彼はそうさせるにふさわしい名馬へとさらなる進化を遂げた。
障害界に、いや競馬界にとっての勇気ある発言。大きな意味と意義のある投票。
わたしたちは今まさに、新たな歴史がつくられる瞬間を目の当たりにしているのだ。

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一方で、最優秀障害馬の部門は昨年のように満票での選出にはいたらなかった。
アップトゥデイトが同年J・G1ふたつを快勝した年のことを思い出した。
あのときも文句のつけようもない戦績と実績だったにもかかわらず1票だけ該当馬なしに、もう1票は同年に活躍した他の障害馬に投じられていたのだった。
競馬は多面体なのでいろいろな見解があってもいいと思う。
投じる人間にも主義主張や立場があるのだと思う。
異なる意見を持つ者を糾弾するつもりもないし、結果を受ける側のファンが投票権を持つ記者いち個人の事情を慮る義務だって別にない。
各々が率直に思い感じたことが真実だ。

“該当馬なしに入れた人”がどこの誰だったかというのには私は全く関心がない。
ただ、2017年という月日の競馬の中で“あの中山大障害”を観戦したことを大前提とするのならば、あのレースを観て何を感じ、何を思ってその答えにたどり着いたのかはぜひ聞いてみたい。
と同時に聞くのは怖い気もする。
私が心つき動かされ涙を流した名勝負が、他の人にとっては全く関心がない番組のひとつにすぎないのかもしれない。
自分が好きなものを他人に好きじゃないと言われるのは淋しいが、そんなことは生きていれば往々にしてあることだし、なにより個人としての価値観をみだりに批判すべきではない。
しかし投票権をもった公人としては、やはり私はいち競馬ファンとして「どうしてそう思ったんですか」と聞いてみたいし、票を投じる人間には投票の意図を説明する義務が与えられていてほしいと思う、というのが本音だ。
そもそもJRA賞を新聞記者が選出するというシステムからして不思議ではあるのだが、まあそれは置いておくとして。
2年前から私の考え方はなにひとつ変わっていない。

私は障害競走が好きだ。障害馬が好きだ。オジュウチョウサンが好きだ。
競馬が好きだ。競走馬と、彼らに携わる人が好きだ。
すべての名馬が分け隔てなく讃えられる世界に近づいたこの日を、ずっと待ち望んでいた。

みんなが信じる自分を信じろ!

自信がない。
ということは、他人が認めてくれている自分自身の姿を客観的にとらえられていない。
芯からひとを信じられていないのと同じこと。
自己肯定がうまくいっていない。
そう気づいたのはやはり他人とのかかわりの中でだった。
好きなものを通してひととの縁に恵まれる機会が増えてからというもの、私はまだ誰にも心を開けていないのだと思い知らされた。

地道に取り組んできたものを褒めてもらえることが多くなった。
そのたびに、そんなことは決してないと恐縮した。
贈り物のようにありがたい言葉の数々を、自ら望んだ言葉をまるでひとに言わせているような申し訳ない気持ちになって持てあました。
私はあなたのような立派なひとにそう言ってもらえる価値のある人間じゃないと縮こまった。
優しくしてもらっても、優しさを受けとることへの罪悪感を拭えずにいた。
他人へ向ける優しい気持ちを自分自身に向けることがどうしてもできない。
それは甘えなのだと戒めた。
甘えていたのは、自分自身の心にだった。

私は、他人が怖かった。
ひととのかかわりが怖かった。
他人からどう見られているのかが気になるのに、ひとの真意を知るのが怖い。
覚悟をもって言いたいことを書くといいながら、思想や言葉でひとを不快たらしめて忌み嫌われることが怖い。
本当の気持ちをさらけだして引かれるのが怖い。
好きなものを好きじゃないと言われるのが怖い。
求めて拒まれるのが怖い。
だから、自らひとと深くかかわろうとすることができなかった。
あらかじめ自己評価で自らに赤点をつけて、ひとに批評されることから逃げようとした。
傷つくことを恐れるがゆえに、私のプライドは、ちっぽけだと蔑む自分自身の心をばかり守りつづけていた。
これこそが目の前にそびえ立つ心の壁だったのだ。

私は、書いたものを認めてもらえて嬉しかった。
優しくしてもらえて嬉しかった。
競馬を通して好きなものを分かちあえることが嬉しかった。
限りある時間の中で同じ瞬間をすごせて嬉しかった。
あなたを好きだと言ってもらえて、たくさんの素晴らしいひとと出会えて、心はずむ会話ができたことが嬉しかった。
こんなにも満たされてきたのに、いつでも“目の前にいるあなた”を好きだと心から信じて疑わないのに、なぜ相手は違っていたかもしれないなどと恐れていたのだろう。
失礼にも程があるじゃないか。無責任にも程があるじゃないか。
自信がないにも程があるじゃないか…

自分を信じることはきっと、ひとを信じること。
ちっぽけな私はまだまだ自信を持つなんて大それたことは言えないけれど、縁あるひとを信じることならできる。
ああ、好きだなぁ、と思えるひとが私を認めてくれている。
これ以上の厚い信頼があるだろうか。
だから、ひとを信じるように自分自身を信じてみる。
優しい言葉や嬉しい評価を、贈り物のようにありがたく受けとってみる。
信じることはきっと、許し認めることだ。
あなたを好きになるように、生涯をかけて自分を好きになる義務と権利が、私にはある。

オジュウチョウサンとアップトゥデイト、二頭の名馬について

新旧王者が揃って青い枠におさまった。
この瞬間、伝説は約束された。
前々で対象をぴったりとマークし、自ら仕掛けて獲物をしとめるオジュウチョウサン
悠々と先行してスタミナで押し切るアップトゥデイト
隣り合った彼らがすんなりとゲートを出たらどうなるかは火を見るより明らかだ。
アップトゥデイト陣営は、勝ちにいく競馬をすると高らかに逃げ宣言をした。
ハイペースを望むならば自分たちが作ればいい。
はじめから影も踏ませぬところまで突き放せばいい。
一か八か、大敗覚悟の、一世一代の大勝負。
宣言通りに彼らは大障害コースを単騎で駆けた。
このうえなく勇敢ですさまじい、見惚れるほどに美しい逃亡劇だった。

迎え撃つオジュウチョウサンは、ゴール板を解っているのだという。
いわゆる名馬と呼ばれるような優れた馬は、己が何者で、自分が何を成すべきかを理解している。
しかし、はかったようにゴール前で差し切られたとは、この日に限ってはどうしても思いたくなかった。
オジュウチョウサンは慌てていたからだ。
飛越のあとの着地で二、三度つんのめるような動作を見せ、そのたびにねじふせるように立て直し、遙か彼方をゆく白い影を懸命に追った。
来るなら来い、やれるものならやってみろよと大逃げを打つアップトゥデイトに、虎視眈々と追走していたはずの彼は極限まで追いつめられた。
前王者が死守せんと抗い、現王者が猛然と食らいついた。
昨年は9馬身差。
気の遠くなるような、残酷なまでの力の差が再び拮抗した。
わずか半馬身差で雌雄が決した。
障害レースという枠内だけにとどまらぬ、競馬史上に残る名勝負誕生の瞬間だった。

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生涯のライバルとの死闘を終えて無事に帰還した人馬を、佐々木調教師と同助手は満面の笑顔で出迎えた。
興奮の最中にあるのか、敗れたことが解っているのか、アップトゥデイトは時おり首を上下に振って何かを訴えかけるような仕草を見せていた。
私には、彼らが無事を喜び、健闘を讃え、安堵し、ねぎらいあっているように見えた。
馬と人のあいだに明確な言葉は存在しないのかもしれないが、通い合う感情が彼らのあいだにはある。
一点の曇りもない。
悔いなく戦い抜いた男たちの表情は、この日の空のように晴れやかだった。
すべて報われたのだ。
この光景を見に来た。
ここに来てよかった。
その瞬間、喜びとも悔しさともつかぬ、なんとも形容しがたかった感情に名前がついた。
ふと耳を傾けてみると、場内の拍手と感嘆の声がまだ鳴りやまない。
ここにいる誰もが心をつき動かされ、酔いしれ、熱狂し、魅せられていた。
ようやくその中のひとりとなって私もむせび泣いた。

アップトゥデイトは時代を間違えて生まれてきたのではない。
主戦ジョッキーの言葉をいちファンが打ち消してしまうのはおこがましいことだろうか。
確かに、そう思って悔しがった時期もあった。
オジュウチョウサンのいない時代に生を受けていれば、アップトゥデイトはたぐいまれなる強者として障害界に君臨しつづけていたのかもしれないと。
一度頂点を極めたからこそ、一度打ち負かした相手に敵わないことがなおさらに悔しかった。
今は私情ではなく障害ファン、競馬ファンとしてオジュウチョウサンに惹かれ敬う気持ちがあるからこそ、彼を凌駕する存在がいずれあらわれてほしいと願う。
その存在は願わくばアップトゥデイトであってほしい。
二頭の名馬はともに時代に選ばれ、時代に愛された。
彼らはいずれ永遠に語り継がれる存在となる。なるべくして伝説となったのだ。

王者たちの戦いはつづく。
ゴールの瞬間に新たなスタートは切られていた。
オジュウチョウサン陣営は国内での記録挑戦に、アップトゥデイト陣営は今回の競馬に磨きをかけて“打倒オジュウ”にさらなる意欲を燃やす。
その間にも新星たちが次なる王者となるべく勝ち上がり、力を蓄えてくるだろう。
ハードル界の未来を予期させる素晴らしい中山大障害だった。