うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

怒って傷ついてほしくない

「なに怒ってるの?」
とよく訊かれていた。
黙って考え事をしていると、怒っているように他人には見えていたらしい。
気遣われるたびにちょっと傷ついていた。
怒りが感情を占める割合は確かに多かった。
あの頃の私に見えていた世の中は、許せないことだらけで苦しかった。
競馬と出会うまでは。

いわゆる注意喚起を、SNS上でほぼ毎日のように見かける。
ルールとマナーを知ってほしい、守ってほしい一心で、今日もどこかで誰かが自主的に呼びかけたり拡散したりしている。
中にはものすごく怒っている人もいる。
違反や間違いの証拠となる画像を添付したりして。
真剣だからこそ言葉に力が入り、感情がたかぶってしまう。
気持ちはよくわかる。
でもちょっと待ってほしい。
そもそも、やらかす人ははじめから他人の声に耳を傾けたりはしない。
結局、真面目な人たち同士で監視員のようになってギスギスしてしまう。
せっかく楽しい気持ちを共有しているというのに。

注意することと怒ることは、よく混同される。
発言する側の人間が感情的になったり、相手を攻撃するのはよくない。
注意喚起そのものが私刑のようになってしまうのは、もっとよくない。
たとえば競馬の中でなら、パドックで傘を差すなとか、敷物で場所を取るなとか、ファンファーレに合いの手を入れたり手拍子をするなとか、ゴミはゴミ箱に捨てて帰れとか、定期的に問題になる行動がいくつもある。
厳密にいえば、ルールとマナーは少しずつ意味合いが違う。
ルールは公正性や安全性のためにみんなが守らなければならない規則。
マナーはみんなが気持ちよく過ごすための気配り、優しさ。
ゴミ捨てや敷物禁止はルール、手拍子や傘は公式に禁止と言及されていない点でいえばルールというよりもマナーなのかな、というのが個人的な考え方だ。
私はどれも守っているが、マナーだからと何もかも他人に強いたりはできないし、しない。
このグレー部分における意識と解釈の違いも齟齬を生む原因となるのだろう。

『馬が驚いてしまうからパドックではなるべくレインコートを着用するか、どうしてもというなら傘はそっと開いて周りへの配慮をお願いしますね』
とやんわり諭されるのと、
パドックで傘を差すやつは競馬ファンじゃない!競馬場に来るな!』
と責められるのでは…
言うまでもない。
ひとは怒っている人間には同調しづらい。
少なくとも私は一緒になって怒れないし、そういう場面に居合わせたらいたたまれなくなってしまう。
だって、怒っている人はとても怖いんだもの。

正しいことを正しいと言うのは難しい。
間違いを正すのは勇気がいる。
それをできるのは素晴らしいと思う。
でも、どうか怒らないでほしい。
人は怒られたら萎縮するか、怒り返す。
せっかくの話し合いの場が感情のぶつかり合いになってしまう。
不当な言動を見かけたとき。大切にしているものをないがしろにされたとき。
憤る自由と権利が、誰にも平等にある。
怒ってもいい。いいんだけれども。
思い感じた事柄を人と人とのやりとりにするときは、ちょっとだけ落ち着こう。
落ち着いて話したら分かってもらえるかもしれない。
分かってもらえなくても、自分は礼を尽くしたよ、と納得ができる。
怒りはとても強い感情だ。
怒りの力は、相手にも自分にも傷を残す。
私は、あなたに傷ついてほしくない。

ほどよく楽しむ大人の遊び、競馬

競馬はギャンブルだ。
ジョッキー横山典弘がUMAJOへのメッセージカードに記したとおり。
いや他にも素敵なことがあるのだと認知されてほしい気持ちはあるのだけど、ギャンブルとしての競馬を曖昧に覆い隠したり、ギャンブル抜きにした競馬をことさらに神聖視するつもりはない。
私は予想して馬券を買う。
勝負に勝ったときの天にも昇るような心地と、負けたときの半身をもがれるような痛みを知っている。
金とは、勝負とは、抗いがたい魔力なのだ。
かつての私はこれに怒っていた側の人間だった。

ギャンブルは無駄で効率の悪いものという認識しかなかった。
若さゆえ偏見というフィルターを通して上辺だけでしか物事を見ることができず、自分ひとりの世界で憤りつづけていた。
その偏見で凝り固まっていた足元が崩れたとき、自分の見ていた世界の狭さと、一方的な頑なさを思い知った。
本当の世界は無駄なものであふれ、いびつに光り輝いている。
一見すると生きてゆくには必要のなさそうな娯楽や文化たち。
それこそが豊かさの証だ。
余白で何かを愛でたり嗜んだりして楽しむのは、ひとが人間である証だ。
人生に行きづまり、生きることに疲れ果てていたときには見えなかった。
私を人間に戻してくれたのは、世界の美しさを教えてくれたのは、競馬だった。

これは運よく“こちら側に来ることができた”人間の言うことなので、話半分にでも聞いてほしい。
ギャンブル依存症患者がゼロにでもならないかぎり、ギャンブルである競馬を叩く人間はおそらく絶えない。
たとえゼロになったとしても重箱の隅をつつかれつづけるだろう。
生死観がひっくり返るような強烈な体験でもしないかぎり、人間が自らの価値観をあらためるのは難しい。
ギャンブルへの嫌悪と憎悪、偏見の感情はそれほどまでに強いのだ。
そして、金と勝負の魔力も負けず劣らず強い。
もしも私に子どもがいるとしたら、馬券を買える年齢になって、自分で働いてお金を稼いで、物事の善し悪しが判断できるようになってから競馬場へ行きなさいと言う。
今は小さい甥と姪にせがまれるようなことがあるとしたら、そう諭すつもりだ。
毒だからではない。悪だからでもない。
早すぎる、強すぎるからだ。
私がほどよく遊べているのは、理性があり、余裕をもってブレーキを踏める大人だからだ。
子どもにもきちんと説ける両親は連れて行ってもいいと思う。
その辺は個人の方針に委ねられるべきことだ。

ギャンブルが悪いのではなく、依存症という病気が問題なのであって、でも病にかかる人間が100悪いのでもなくて。
極力そうならないようにする仕組みが必要。セーフティーネットが必要。
しかし救済するシステムがあっても度を超す人間はギャンブルに限らずどの分野にもいる。
度を超した状態が病気にカテゴライズされるかされないかでいうと、ギャンブル依存症はやはり病気なのだ。
危機感を抱いたり、糾弾する人間がいるのも当然といえば当然だ。言い分と言い方くらいは選んでもらいたいが。
いまJRAはさまざまな試みに取り組んでいる。
一番はもちろん顧客のためだが、次に全方位へ向けた誠意の姿勢が必要とされているだからだろう。
できるかはわからないがやらないよりマシ、いや、やらねばならない。
守らねばならない。自分たちの居場所を、権利を、文化を、この世界に携わる人馬を。
競馬を愛する私たちは何をすべきだろう。何ができるだろう。
ファンにできることは、実はそう多くない。
戦ったり怒ったりするのが逆効果だとすれば。
本当に小さいことだけれど、各自お行儀よく遊ぶ、でいいんじゃないだろうか。
競馬はギャンブルだけど紳士淑女のスポーツだねって、同じことならば言われたいではないか。
私は言いたい。
競馬が好きだから。

ひとり、おんな、けいば

おひとりさま女子とはよくいったものだけれど。
ただの女ひとりに“お”も、“さま”もない。“子”でもない。
ひとりは淋しいのでも、ダサいのでも、暗いのでもない。
流行に乗っているのでも、気取っているのでもない。
私はどこへ行くにも基本的にひとりだ。
誰かと一緒の楽しさも知っているけれど、本当に好きなこととはじっくり向き合いたいから。

人生につまずいて生きる力をうしなっていたとき、競馬と出会った。
世界の美しさを思い出させてくれた競馬にどんどん魅せられていった。
自分で自分を抑圧し、自分を赦せなかった私は、生きる喜びと自由を競馬の中で見つけたのだ。
それをこころよく思わないひともいた。
十年来の親友には「女がギャンブルなんて」と顔をしかめられた。
つきあいはじめた男性には「僕と競馬どっちが大事なの」と問いつめられた。
みんながみんなそういう人間ばかりじゃないよと頭では理解できたものの、心から信頼していたひとに真っ向から否定されるとさすがに気がとがめてくる。
そりゃあ、競馬はギャンブルでもあるけれど。
だから受け入れられないひともいるのは、過去の自分がそうだったからよく知っている。
でも、“女”で拒絶されるって、なんだろう?
私が競馬場の中で出会ったひとたちは皆よき同志だった。
性別で線引きするひとはただのひとりもいなかったし、趣味仲間である以前に人間同士として考えかたや感じかたを尊重してくれた。
そんなひとたちとの間にもうけた場所はとても居心地がよかった。
じゃあ、ひとりで競馬を楽しむ女性をよく思わないひとって、なんなんだろう?

『競馬場にひとりで来てる女って何なのwww』
競馬場にひとりでいる女は騎手の追っかけ。
関係者の愛人。
めんどくさいこじらせサブカル
馬が好きな自分に酔ってる自称UMAJO…
定期的にあがってくるこの話題、5ちゃんねるや情報サイトの掲示板はなるべく見ないようにしていても、SNSのタイムラインに流れてくればどうしても目に耳に入ってくる。
キュレーションサイトの見出しだけでなんともいえない気持ちにさせられてしまう。
趣味の中でまで“女と偏見”の目で見られるのかと。
わざわざこんなことを言うひとたちは、一体誰で、なんなんだろう?
オンオフを問わず、たくさんの人間が集まるところにはいろいろな価値観が入り混じる。
特に匿名が許されるネット上には自然と悪意も集まる。
悪意は攻撃性となって、叩ける対象を探り当てる。
ほんのちょっと羽目を外した意地悪な気持ちがひとつの集合体となる。
同じ気持ちが集まれば、何とはなしに大きな気持ちになって、ちょっと乱暴なことを言いたい、何を言ってもかまわないと錯覚してしまうのだろう。
現実世界では口にするのもはばかられる不適切な言葉であふれているコミュニティもある。
その断片が時おり自分のテリトリーにも紛れてくるのだ。

きっと、ひとりひとりに深い悪意は、言葉のひとつひとつに深い意味はないのだろう。
でも時に真に受けて考え込んでしまうのは、私自身が心のどこかに後ろめたさを感じていたからだ。
女性としての成果もあげられず、女性としての役割も果たせずに、こんなところでひとり遊びをしている場合だろうか。
そういうところを暗に責められているんじゃないのか。
ひとりで自由に競馬を楽しむほどに、世間的に見れば一人前の女性になりきれず、自分勝手に生きているだけなんじゃないのかという、ぬぐいきれない後ろめたさも感じていた。
かつて親友に、恋人に拒絶されたことを忘れられずにいた。
おなじ競馬を好きでも恋人と信頼関係を築いたり、結婚生活と両立している女性はたくさんいる。ひとりでも凛と胸を張って生きている女性もいる。
そういう素敵なひとたちとふれあうたびに、「なのに、私はできなかった」と自分を恥じて小さく縮こまっていた。
「女なのに」「女だてらに」と私をとがめていたのは、ほかでもない自分自身の弱い心だった。
失意のどん底にいた私を受け入れてくれたのは、閉じていた心を開いてくれたのは競馬だったというのに。

いまや競馬は名実ともに紳士淑女、老若男女のものだ。
競馬場の門はいつのときも大きく開かれていて、何者をも拒まない。
性別で分け隔てをすることもない。
趣味で男性らしさ女性らしさを推しはかるものではないし、こうあるべきと押しつけるものでもない。
二人や大勢で過ごすのが好きなひとがいるように、ひとりで楽しみたいひともいて、それが男性であるか女性であるか、そこに大差はあるだろうか。
もって生まれた性を、多かれ少なかれ意識しながらひとは生きてゆく。
たったひとりきりで生きてはゆけないから、自分が他人にどう見られているのかも気にとめながら生きてゆく。
それでも。だからこそ。
せめて好きなものの中では解き放たれてもいい。
それくらいの自由は認められてもいい。
愛し楽しむ人間を赦し受け入れる懐の深さが、競馬にはあると思うから。

私のもうひとつの中山グランドジャンプ物語

待ちに待った。
二年かけて彼が中山に帰ってきた。
絶対王者がグランプリ初制覇したときの3着馬、メイショウアラワシが。

春の大一番のあと小倉サマージャンプを2着と好走し激走がフロックではなかったと証明するも、この実績に彼は長らく苦しめられることとなった。
非重賞へ行けばとにかく斤量を背負わされる。
極端な競馬になると得手を活かしにくくなるため勝ち星はおろか馬券圏内も遠のいてしまった。
彼の持ち味とは、ずばり飛越のうまさ。
スピードよりも、じっくり持久力勝負。
まさに大障害コースを走るための障害馬そのものではないか。
調教から実戦まで熱心に手綱をとる主戦の森一馬騎手も中山向きと明言してきた。
しかし、一度踏んだ夢舞台は果てしなく遠かった。

なかなか勝ち負けにならない悩みの期間に、曳いている人間が二度ほど変わった。
それが何を意味するかはあくまで憶測の域を出ないが(開催の関係上人手が分散されているのかもしれないし)、バックヤードで様々な工夫がなされていたことは想像に難くない。
甲斐あって、現王者と前王者の再戦で話題が持ちきりとなった春の祭典へとつづく前哨戦のひとつ、三木ホースランドパークジャンプステークスでようやく彼は復調の走りを見せた。
目の前にひらけた景色は新緑の京都ではなく、春風の中山だった。

パドックに鈴なりとなった大勢の競馬ファンに、アラワシもさぞ驚いたことだろう。
時折イヤイヤしたり立ち止まったりして、曳いている人はなかなか大変そうだ。
アップが9番でアラワシが7番だから自分が立ち位置にしくじらなければどっちの陣営も撮れるな、と皮算用していたのだけれど、前走と同じく一番後ろを周回している。
あれ、こんなに気難しい馬だったっけ?
思い起こせば不振のあいだは曳き手を困らせることなく従順に歩いていたので、やはり本調子ではなかったのか。
騎乗命令がかかると前掻きをはじめるのも、競馬のしんどさを彼自身が覚えていて最後の抵抗をしているからなのかもしれない。
身近にない競走馬の仕草をわたしたちはどう解釈すれば正解なのか。
外からはただ推しはかるしかないので、私は気合い乗りのバロメーターだと思って見ている。
荒ぶるアラワシの様子に、おかしな話だがワクワクを禁じ得なかった。
よし、今日も元気だ。
さあがんばろう!

ゲートが開いて一拍おいて、栗毛の馬体と青ピンクの勝負服がポンと飛び出した。
前を見ながら好位につけるものとばかり思っていたので「えっ」と声が出た。
心の中ではガッツポーズ、声にならぬ大絶叫だった。
『やった!元気だ!!』
先頭はすぐに入れ替わったものの束の間リードをとり、実況にたくさん名前を呼ばれるアラワシを目で追いながら『あぁ、ほんとに中山に帰ってきたんだなぁ』と胸が熱くなった。
安定した飛越で最大の難所の大竹柵と大生垣も難なくこなし、それでも先頭は遥か遠く、すぐ前をゆくシンキングダンサーには大差をつけられたものの、昨年の2着馬サンレイデュークをハナ差しのいでゴール板を駆け抜けた。
なんと2017年度の勝ち時計と同タイム。
二度目の挑戦は、着順以上に価値のある8着だった。
これは理論上中山グランドジャンプを勝てる力があるってことだぞ。すごいぞアラワシ。本当にえらい。
まもなくマイネルクロップが帰還を果たし、2018年度中山グランドジャンプは感動のフィナーレを迎えた。
終わった。長いようであっという間の5分間だった。
やがてゆっくりと実感がわいてくる。
ゴール直後は、玉砕覚悟で逃げたアップトゥデイトが満足に逃がしてもらえずオジュウチョウサンに完膚なきまでに叩きのめされた衝撃でものも言えずに固まっていたのだが、視界と脳内を画面二分割してアラワシの勇姿はしかと見届けた。
各馬陣営それぞれに対し、こみあげるものがあった。
みんなおかえり。帰ってきてくれてありがとう。

 

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メイショウアラワシ、今回も人馬ともに無事完走。
さすがに力を出し尽くして疲れきったのかおとなしくジョッキーに連れられ、はなみちでトレーナーと担当スタッフに出迎えられじっと労われていた。
汗びっしょりのアラワシを囲んで、みんなが安堵の笑顔だ。
これこれ、この光景が見たくて現地まで来るんだよなとこちらも自然と頬がゆるんだ。
なかなか大変そうな馬ではあるけれど、この負けん気の強さがあるからこそ3歳からコンスタントに障害を飛んでこられたのだろう。
ひと仕事を終えた森一馬騎手は「まだまだやれる」と相棒を讃えた。
言葉のとおり、これからもきっと彼らは重賞戦線で、悩みながらもがんばってくれるはずだ。

この馬を応援している理由はたくさんある。
数珠繋ぎとなった縁が私をここまで連れてきてくれた。
オジュウやアップのような大スターではないけれど。
なかなかうまくいかなくて、もどかしくて、悔しくて。けれども走ってくれることが嬉しくて。
そういうすべてをひっくるめて、かけ値なしにかわいい。愛おしい。
私にとってのメイショウアラワシを、競馬ファンはきっとそれぞれ心の中に住まわせている。
あのときあの場所にいたひとりひとりが好きな馬を見つめ、惜しみない声援を送っていた。
場内をふるわせた熱狂の渦はただただ二強のみに注がれた情熱ではなかったのだ。

障害レースを志すもの、愛するものにとって中山は特別な競馬場だ。
ふたたび彼らとともに行けることを願って、いや、信じてやまない。

天馬に挑む

言葉をうしなった。

すべての人馬が無事に完走できてよかった。
ようやく絞り出した声が細く震えていた。
そうだ、よかったのだ。
よかったんだ、ものすごい名勝負をまたも見届けられたのだから。
世紀の瞬間に立ちあえたのだから。
生ける伝説をまのあたりにしているのだから。
にもかかわらず、私は何も言えず、動くことさえできずにいる。
すごい。強い。敵わない。化け物だ。
あとほかに何をどう漏らしただろうか。
圧倒的な力の前に言葉は無力だった。

アップトゥデイトは戦った。
懸命に足掻きつづけた。
敵はやすやすと逃がしてはくれない。
年末と同じ轍は踏むまいと、あるいは、お前のことはいつでも仕留められるんだぞといわんばかりにぴったりと背後をとられつづけた。
逸ったマイネルクロップと時おり擦れるほどに馬体を合わせながら、息もつまるような緊迫感のなか時計の針は進んだ。
唯一の必勝策とかかげたセーフティリードがまったくとれない。
本来ならば大逃げのペースだ。
それでも食らいついてくる。
逃げられない。引き離せない。
相手は潰れない。着実に追いつめられていく。
いったい、なぜ。
いったい、何なのだ、この馬は。
最後の直線を待たずして大勢が決した。
もはや競りかけるものも、追いすがれるものさえも存在しない。
自らが切り拓いた勝利への道をひたすらにつき進む。
彼がゆく道は覇道だ。
絶対王者オジュウチョウサン
新たなる伝説誕生の瞬間に私がおぼえた感情は、絶望に限りなく近い畏怖だった。

昨年の中山大障害の再現を。
ハードル界に一大ムーブメントを起こし、競馬史に残る名勝負と絶賛されたあのレースをもう一度。
齢8歳にしてなお成長と進化を遂げるアップトゥデイトが、障害レース2000回騎乗達成を区切りに引退を表明している林満明騎手とともに臨む最後のグランプリ。
舞台装置はすべてそろっていた。
最高の競馬でふたたび雌雄を決すときが来たのだと、未曽有の熱を帯びながら大いに中山は盛りあがった。
現・王者の君臨か。それとも前・王者の復権か。
私は彼らの勝利を信じて疑わなかった。
陣営とて想いは同じだったはずだ。
立場は違えども多くの人間がひとつの光景を思い描いていたに違いない。

夢は無情にも打ち砕かれた。
ここまでやっても、足元にも及ばないのか。
もはや逃げることすらかなわないのか。
おぼえたのは畏怖と、ではこれからどうすればいいのかという、とりとめもつかない無力感だった。
勝者を祝福し、人馬の無事と完走を喜ぶ気持ちに嘘偽りは微塵もないのに、私は何も言えずにただ固まっている。
どよめきと歓声と拍手の鳴りやまない夢にまで見た中山で、いいしれぬもどかしさと苦しさのあまりじっと歯を食いしばっている。
泣くまいとしていたのではない。
泣いてしまいたかった。
悔しいと吐露しながら声をあげて泣きたかった。
想いとは裏腹に、涙はほんの少し滲むのみにとどまった。
悔しい。
勝てなかった。敵わなかった。またも夢破れた。
いや違う、思い描いたシーンを観ることができなかったと落胆をおぼえた自分自身の心を、なによりも恥じたのだ。
見初めた人馬に自らの理想を重ねあわせ、夢を見て、想いを馳せて。
愛すべきものたちが築きあげたすべてのうえに成り立った結果に無力だなどと、絶望だなどと、いったい何様なのか。
ずっと応援してきた私が現実を受け入れられなくて、どうする。

アップトゥデイトは強くなった。
自身が叩き出したレコードをも大きく塗りかえる渾身の競馬だった。
ただ、その遥か彼方をオジュウチョウサンは走っていた。
それだけのことで、それがすべてだ。
「負かすのは今回しかないと思っていたけど、向こうも進化しているんだね。」と佐々木晶三調教師が、「これで騎手を辞められる。未練も何もなくなった。」と林満明騎手が、異口同音に脱帽と応えた。
死力を尽くしたからこそ口にすることの許される重みのある言葉だった。
すべてはオジュウチョウサンのために。
だからこそ執念を糧に、ひたむきに強くなれたのだ。

「もう負けないと思います。勝利が永遠に続くと信じています。」表彰台にあがった石神深一騎手は心の底から相棒を誇り、胸を張った。
天馬とはきっとこういう馬をさすのだろう。
はじめて神をあらわす言葉で競走馬を称えたいと思った。
彼と対峙しつづけながら、「生まれた時代が悪かった」と飽きるほど耳にした。
もしもオジュウチョウサンがいなければアップトゥデイトはたぐいまれなる天才ジャンパーとして障害界に君臨しつづけていられたのにと。
何ものを貶める意味合いもない、他愛もない、切なるタラレバ。
だが、違うのだ。少なくとも、私にとっては。
生涯最高のライバルの衰えを待ち望むような馬では、陣営では、アップトゥデイトは決してないのだ。
そうせざるを得ないのならばあまりに悔しい。
今日でさえ完膚なきまでにねじ伏せられてなお勝利を諦めたくないと願うのは、彼らに対して酷な想いなのかもしれない。
しかし。それでも。

彼らはきっと、これからも挑みつづける。
だから、私も絶対に諦めない。

 

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