うまいことはいえないが。

書きたいように書いていたい。自分を救いたい。誰かになにかを伝えたい。

わたしを消して、わたしになりなおす

 

きょう無事に、エックスのアカウントが削除された。
削除してから再ログインせずにひと月待った。
「ほんとうに消えるのかな?」と半信半疑だったけど、ほんとうに消えてなくなっていてホッとした。
ツイッターに登録してから十数年の蓄積があとかたもなく消えた。こんなにもあっさりと。
やっぱりSNSって「残す」のには不向きだ。
とはいえ、なかったことにはならないし、忘れたかったわけでもない。
だけど重たい足かせになるのならこれからの自分には必要がなくなったってこと。合わなくなったのもあるけれど、わたしがSNSには不向きだったのだ。

わたしは、好いてくれる人を同じ熱量で好き返せないことにわりと早くから気づいてしまった。
相手の好意や期待のすべてには応えられない自分に罪悪感を覚えながらも常に誰かとかかわりつづけていた。
SNSは、あまりにも気持ちがダイレクトに伝わりすぎる。距離感と関係性が一気に近づきすぎてしまう。実はそんなに親しく近しい間柄じゃないにもかかわらず。
実際の価値観や利害関係なんかをぜんぶすっとばして「好き」と「気持ち」でつながれるから、あたかも生涯の親友と出会えたかのような錯覚にすらおちいってしまう。

ほんとうのわたしは、人づきあいの苦手な人間未満の中年女だ。
こまぎれのつぶやきではほんとうの姿をうまく隠せてしまう。それどころか、いいかんじに繊細っぽいキャラづけができてしまうのだ。
偽りとまでは言わないけれどうまくとりつくろったもうひとりの自分、なんとなくいいひとっぽいアバターができあがってしまった。わたし自身は何も変わっていないというのに。
そんなんで、うまく人とかかわれるわけがない。
そんなだから、どこかの誰かも、ただ同じ何かを好きなだけだった他人のわたしに何かしら期待をしては何かに幻滅して、やがて去っていった。または執着してきたりもした。
なので、すごく信頼されたり好かれていることがわかると、喜びよりもプレッシャーが勝って逃げたくなった。
たのむからそんなに、未熟なわたしに救いを求めたり、期待をしないでほしい。好き返されることを望まないでほしい。
でもわたしだって、どこかの誰かに何かを期待したり、救いを求めたり、好き返されることを望んだりもしていただろう。
何かをわかちあいたいと思いつづけていただろう。
このくりかえし、まるでみんなを騙しながら自分にも嘘をついているみたいだ、と少しずつ我に返っていった。
わたしがわたしじゃないのだから当然だ。

わたしは、自分自身から自由を取り戻した。
もう何者にも縛られない。他者からの評価も気にしない。ちっぽけなプライドと承認欲求をつのらせることもない。
あの人とこの人はつながってるからとか、フォローしてくれてるからとか、好いてくれてるからとか、そういう自分ではどうにもしようのない他者の言動にひとりで心をざわつかせることもない。
やめるしかなかった。消えるしかなかった。わたしがわたしに戻るためには。
ほんとうに心から好きで信頼していた人たちの前から黙っていなくなってしまったことだけは心残りだけれど、あの人たちならきっと「どこかで元気に生きてるなら」と笑って赦してくれるだろう。
でなければ嫌われて恨まれて忘れられたっていい。それこそがわたしの拙さだったのだから。

あの人たちも、どこかで元気に生きててくれるだろう。そう願ってやまない。

 

 

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