うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

違う、そうじゃない「蛙化現象」

蛙化現象ってわりと昔からある言葉だと思ってたんだけど、いつから「単なる幻滅」みたいな意味に置き換えられたんだろう。
ちょっと検索してみるだけでも「蛙化現象って単なる幻滅じゃね?」「思わせぶりなだけじゃね?」ってめちゃくちゃたくさん言われてて「いやいやいやいや…」ってモヤモヤしてて。
民意が真意を飲み込む怖さ。
わからないのなら無理にわからなくてもよくて、わからなくてもそっとしといてくれたらいいのに。
わからない人がわからないことに拗ねて無理やりに自分が持ってる型枠に押し込めて、雑に名前をつけていくのが怖い。
いまの世の中ってそういうところあるじゃないですか。
これってこういうことですよね。あなたってこういう人ですよね。つまり〇〇ですよね。もう〇〇じゃん。
うまく言った言葉がバズって、新しい解釈が乗せられて拡散されて、いつのまにかそれが正解になっている。
ほんとうのことはどこへいくんだろう。
蛙化という言葉はこれからずっと、単なる思わせぶり子ちゃんのわがまま萎え冷めエピソードにすり替えられてしまうんだろうか。
ほんとうに悩んでる人の気持ちはどこかへ追いやられて、笑い飛ばされてしまうんだろうか。
それはやだなあ。言葉ってやっかいだなあ。
だから、どこかで言っておきたかった。わたしにも身に覚えのある言葉だったから。

好きな人から好意を向けられたとき、あるいは好きな人もまた自分を好いてくれてるとわかったとき、自分に自信のない人間は「こんな価値のない自分を好きだというこの人は、どこかおかしいのではないか?」と相手の正気を疑ってしまう。
「いったい何が目当てなのか?」なんてことまで考え込んでしまう。
疑念が晴れることがなかったとき、「やっぱりこの人はおかしい。怖い。」と頭が断定してしまう。ここでいわゆる幻滅が起こる。
自己肯定感という言葉はあんまり好きじゃないから使いたくないんだけど、要は自分が自分を信じていないから、その自分を信じている相手のことを信じられないし、相手の好意をそのまま受けとれない。
蛙化現象とは、一言で言ってしまえば自意識過剰が産んだ悲しきコミュニケーション障害なのだ。
だからといって被害者ぶりたいわけでも加害者ぶりたいわけでもなく、人を好きになる気持ちはあって人と好きあいたいのだけど、根本的に自信がないからそうした自分の気持ちにも相手の想いにもうまく向き合えない。
これは相手の問題でなく自分自身との闘いで、人と好きあうためには自信のない自分と対峙し、自信のなさを克服する必要がある。
でもそれって人生でいちばん難しいことじゃないですか?

自分と向き合う。自信を持つ。
それができてる人間がはたしてどれくらいいるだろう。
できなくとも折り合いをつけてほどよく人と関わって生きる能力が、大抵の人には備わってるってだけの話だと思う。わたしにはそれができない。「蛙化? わかるで!」って人はたぶんこっち側です。わからない人が多数派であたりまえなのだ。
自慢じゃないけどわたしは四十余年生きてきてただの一度も自分に自信を持ったことはないし、今でもどうしようもない自分と向き合うのはしんどくて曖昧になりつづけている。
わたしはわたしを好きだという人を「だいじょうぶか?」と思っていた。
これは友情や恋愛関係なしに、「なんでわざわざわたしなんか?」って本気で疑っていたからだ。
「この人の時間や情熱を無駄遣いさせてしまって申し訳ないな。一緒にいる価値がなくて恥ずかしいな。他の人と仲良くしたほうがぜったいに楽しいのに」なんて卑屈にも思っている。未だに抜け出せない。卑下と自分を信じられない自分から。
だから人と一緒にいて勝手につらくなる。たえられなくなって、わたしから去って終わった関係は多い。
学生時代の友人たちからもフェードアウトした。男性ともうまくつきあえなかった。これは現在進行形でつづいている。結婚も恋愛もあきらめた。もともと必要じゃなかったのもあるけれど。
わたしは相変わらずわたしを価値のない人間だと思っていて、そんなわたしを好きだというあなたは神か何かですかと今はありがたがっている。ここが昔とちょっと変わった部分かな。
「だいじょうぶか?」と疑っていたのが「神(とても心が広くて良い人の意)ですか?」に変わった。過ぎた自虐は相手にめちゃくちゃ失礼だと気づいたからだ。
自信がないのは変わらないけど、少なくともそれで人を信じられずに黙って去ったりして相手を傷つけることは減ったように思う。
自分自身との闘いなのだ、人生は。
その人生にやっぱり少ないながらも人が関わってくるから、複雑になってしまうんですけどね。