うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

離れたのに、離れられないままでいる

わたしは離れて忘れることで競馬から逃れようとしていたのに、離れたって引き戻されるし、忘れることなんてできないし、なかったことにもならない。
楽しいだけじゃなくなって、前のように寄り添うことができなくなったのに、それでも完全に忘れることができない。さりとて元の仲間や世界の輪に戻れるとも思えず。
わたしは何をしているんだろう。いやちがう、何もしてないのか。

居間日記をはじめてみる

居間で起こったことを書きとめておく、居間に置いておく日記を書きはじめた。
きょう、ふと思いついた。

居間だから台所事情とか、ご飯の献立とか、家族のやりとりとか、食べながら観た野球や自転車についての話とか、そういうのを思ったまま何でも書く。
わたしの日記というよりも、家族の記録だ。
ただ書いて置いておく。
誰でも読んでいいし、読まなくてもいいし、書いてもいいし、書かなくてもいい。

わたしは自分から自分の話をするのが下手で、べつにこんなことわざわざ話さなくてもいいやと内に溜め込む癖がある。
なにより家族でいるときはおいしいもの食べて楽しい話をしていたいと思うから、なおさら自重してしまう。
それで家族に心配をかけてしまうことがある。
だけど文章なら思ったことを自由に書ける自負がある。
話をするよりもうまく伝えられる自信がある。
わたしが唯一できる「書くこと」を家族のためにしない手はない、今こそ、と思えたのだ。

わたしはこのブログを遺書と思って書いているし、そういうものを書いていることも家族には何度か言っているし、わたしが死んだら読んでほしいと思っているけど、家族はべつにいま読んでやろうという気はないようでアドレスやら所在を訊いてきたりもしないから、わたしが生きているあいだはなんにも伝わらないのである。
だけど、わたしが生きていても、書いていることから思っていることが伝わったっていいんじゃないか。

きっかけは、老いていく母の姿。
母は今わたしが想像しているよりずっと早くに老いていくのかもしれない、と思いはじめている。
わたしはべつに母が老いていくのを止めたいわけじゃない。
でも、どう向き合えばいいのかわからない。
ありのままを受け入れて、できる限り自然に接したいし、仲良くやっていきたいし、ちゃんと最後まで一緒にいたい。
だけど時には腹が立つかもしれないし、イライラするかもしれないし、戸惑ったり、悲しくなったりするかもしれない。
そんな気持ちのまま明日のためにとりあえず寝なければいけないときに、客観的に、冷静になれたなら。
それはもう、わたしは、書くことでしかできない。
書けば、言ったことも起こったことも、いったん自分の心と頭を離れてくれる。記録で、出来事になる。
でも、日記だ。伝言板じゃない。言いにくいことを暗に伝えるためのものにはしないつもり。
なんとなく書いてあるノートとして、我が家の居間に置いておこうと思う。

捨てて消して、忘れていくのもアリになった

次の回収日に、プレイステーションを処分する。
もう十年近く遊んでいなかったから。
いまとこれからのわたしに、こつこつとバトルパートを積み重ねながらRPGをクリアするだけの心の体力はない。
青春時代に夢中になってやり込んだロマサガ3のアプリ版さえも挫折したんだもの、テレビにつなぐタイプのゲームは言わずもがな。
遊んできたゲームタイトルはずっと好きで愛している。だけど昔のようには取り組めなくなった。

Kindleライブラリからいくつかの本を完全に削除した。
それらが棚にあってサムネイルが目に入るたび気を重くする必要はないのかな、とようやく割りきれたから。
買ってはみたものの好きではなかった本、持っていることがなんとなくしんどい本、価値観が合わなくなっていった本。
もういいかな、と自然に思えた。本との別れも人とのそれと同じこと。
データと一緒に記録と記憶も無理やりに消してしまうみたいだ。だけどそうしてでも忘れたいことだってある。
気に入った本は紙で買いなおして、ぼちぼち紙に回帰していくつもり。

わたしの半生の区切りとして、最後に、ワープロを廃品回収に出すことにした。
高校生のときにバイト代をためて買って十数年もの間たくさんの小説を書いてきたかつての相棒に、もう十年近く触っていなかった。
文章は落ち着いて座ってキーボードで、というスタイルでしか書けなかったのにスマートフォンを持つことに慣れてからは場所もこだわりもなくなったから。
何百もの創作物がおさまっているはずのフロッピーディスクも一緒に処分する。バックアップはとらない(そもそも昔のワープロだから、とれるタイプじゃない)。プリントアウトもしない。
わたしが創ったものたちは、ただ人知れず消えていく。
躊躇しなくもないけれど、もうブログ以外の文章を書いたり、なにかに萌えて創作活動を再開することもないだろう。
ワープロにかわってポメラをと何度か考えたものの、持ちものと出費につりあうほどのものを創りだすことも、日常的に使い込むこともなさそうだから、たぶんこの先も手に入れない。
ものを書く道具は手のひらにおさまるくらいで充分だ。スマホだけを持って、自分を満たして、ささやかにやっていく。

わたしはずっとなにかを残したかった。文章を書く人間のさがとして。
覚えていることを忘れたくなかった。ぜんぶ、なにもかも、覚えていたかった。なにかにハマるオタクの習性として。
人に忘れられるのが怖かった。書いたものと好きなものでつながった人たちに認められ、わかりあえる幸せを知ったから。
だけど近ごろはこう思うのだ。なにかを残したり人に見せなくたって、なにを好きでいたのかは自分自身が覚えていればいいし、その自分が忘れてしまうのならば忘れていけばいい。誰かに忘れられてもかまわない。だって、わたしもちょっとずつ誰かなにかを忘れていく。

執着を手放して自由に生きていく。気負わずに暮らしていく。
持てるだけ、覚えていられるだけ、かかわれるだけ。
そんな生きかたが、四十代のいまとこれからのわたしにはアリになった。

紙の本に回帰したい

Kindleってある日突然読めなくなったりするらしいしね。
なにより、買った記録は消せない。履歴に残りつづける。
手放したくなった本を手放すことができないのはちょっとつらい。
人には、読んだことを忘れたい本だってある。

ロシアによるウクライナ侵攻がはじまったころ「戦争は女の顔をしていない」で長らくうなされていた時期があった。
原作とコミカライズどちらもそのずっと前から読んでいたからだ。
なのでKindleの本棚を開いてこの本のサムネイルが目に入るたび悪夢のようにフラッシュバックするのだった。
なのに、知るために読まずにはいられなかった。己に課した義務として読みつづけていた。まるで自傷に等しい苦しみだった。
これでは心が壊れてしまう、とダウンロード欄からは削除したもののライブラリから消えることは決してないし*1購入履歴も残る。
この本が棚にある、という事実でずいぶんと長いあいだ戦火の女の子たちのことが頭の中から消えずにつらかったものだ。
自分自身の暮らしと遠くで起こっている出来事とを切り離して、手元の生活に埋もれながら、ちょっとずつ割りきっていくしかなかった。
おそらくもうつづきの巻を買い求めることも、読み返すこともないだろう。
至らなく情けないけれど、他者と世界に深くかかわるのは自身の健康な心身あればこそ。
人の想いや物事を自分ごとのように受けとってしまうわたしにとって、戦争はあまりに重すぎた。結局いまも忘れられてはいない。当然のことだし、それでよかったのだと思う。わたしには必要な苦しみだったのだ。

逆に、近しい人にぜひ読んでみてほしい本だってある。
だけど電子書籍は本の貸し借りがかなわない。
幼いころから目に入る場所には本が必ずあって、きょうだいでくりかえし回し読みをしていた。
学生のころ、毎日のように友人同士で本の貸し借りをしあっていた。
誰かとシェアしてきた本たちがいまのわたしをつくっている。
だけどいま、わたしの部屋の実在の本棚には本が少ししか置いていない。
厳選した文庫とまんが、それと辞典があるだけ。
さすがにもうちょっと手元にあってもいい気がする。
たとえば「宝石の国」はぜったいに紙の本で欲しいのだ。きらきらと輝いて、とても素敵な装丁だから。

*1:…と長らく思い込んでたんですがAmazonサイトからできるんですね、コンテンツの完全削除。もう一度ちゃんと調べてから書けばよかった。

「こだわらない」という好きかたもあるよ

スーパー戦隊を戦隊モノと言うのが許せない」みたいな議論をたまたま見かけた。
くわしいことはわからないけど、ジャンルの中に細かい分類があったりして、ピッタリした表現があるんだろう。
わあ〜めんどくさ〜。でもこだわりっていうのはきっとそういうもの。
でも。でも、だ。
自分とジャンルの中でこだわっている物事が、外へ出たらぜんぜん知られてさえいなかったり、たいした問題じゃなかったりする。
オカンにとってゲームはいつまでもファミコンなのと似たような感じで。

趣味を手放したいま、わたしはオタクじゃなくなった。
強くこだわりぬくことに前ほどアイデンティティを感じなくなった。
なにを好きで、なにを休んでも、わたしはわたしで、好きなものを好きでいられる。
いまだかつてないニュートラルな状態でいる。
いまはプロ野球とサイクルスポーツを観ているけど、すごく好きで夢中になってるけど、ものすごいこだわりはない。
自他にがんばりや熱意を求めることはないし、知りたいことがあっていろいろ調べたりしてもお勉強にまではしない。
眠たかったら途中で切りあげて寝るし、乗り気じゃないときは最初から観なかったりもする。
ただただ、いいゲームやレースになること、好きなチームや選手が活躍することを望んでいる。そして自分と一緒に観る人が楽しさをわかちあえればいい。
前はそうじゃなかったのだ、いまにして思えば。
好きすぎていつも必死だった。だから楽しさと同時にどことなく苦しさもあった。強くこだわりすぎるから、いろんなことが許せなくなっていく。
自分がそんなだったから、他人にもそういう息苦しさとめんどくささを感じさせていただろう。
ごめん、あのころのわたし。寄り添ってくれたみんな。

オタクじゃなくなったら、きっとわたしはわたしでいられなくなる。
ずっとそう思ってなにかにこだわりつづけてきたけれど、こだわることをやめて、はっと目が覚めたような心地がしている。
いまは自由を感じながら、苦しくならずにいろんなことを楽しめるようになった。
強いこだわりって世界を深く掘り下げるけれど、たぶん視野と選択肢を狭めてもしまうから、きっとほどほどがいい。
どんな好きかたをしても、好きなものとかかわるのは幸せで楽しいことだから。