うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

応援幕一年生修了。分かったことと変わらないこと。

1年前のブログ「応援幕に想いを込めて」などを振り返りませんか?
なんてメールが運営から届いたので、あらためて読み返してみた。
そうなのだ、もう一年が経ったのだ。

初めてパドックに応援幕を張ったのが昨年2015年の中山大障害の日。
アップトゥデイト号と陣営を応援したい一心で自分の殻を破った。
着手するにあたって絶対にやり遂げようと心に決めたことがある。
応援馬がラストランを迎えるその日まで最善を尽くしつづけること。
私は関西に住んでいて、至極普通に仕事を持っている人間だから、大人として社会人として時にままならないこともきっとあるだろうけれど、その中で私の手に穫れるものは可能なかぎり全部穫ろうと覚悟を決めた。

年をまたいで今年度は阪神スプリングジャンプ新潟ジャンプステークス阪神ジャンプステークス、そして二度目の中山大障害
合計4レースに出向いていった。
出走が確定するたびにちゃんと出せるかな、出さなきゃな、というプレッシャーはなかなかに大きかったけれど、パドックに無事張りだせたときの安堵感と達成感はさらに大きい。
レースが始まるまえからこんなにイレ込んでいて大丈夫か、なんて我ながらおかしいのだが、何回やっても慣れないものは慣れないし、緊張して変な汗は出てくるし、なによりパドックという公然の場に掲示物を出す、意思表示をするというのは自分という存在を可視化することでもあり、おいそれと恥ずかしい言動はできないわけで…
それは現地、競馬場というオフラインではもちろんのこと、ブログやツイッターといったオンラインであっても同じこと。
アップトゥデイトと陣営のファンとして応援者として絶対に彼らを貶めるようなことはするまいと、こうして声援を送ろうと決意したときから私はずっと背筋を正してやってきたつもりだ。

初めて手がけた幕がアップトゥデイトのものでよかったと思う。
そんなに数を使う馬ではないし、バックヤードも含め、じっくり調整して使う慎重な厩舎方針なのもよかった。
障害重賞馬だから番組も限られている。
同じG1馬でも、もしも平地競走のほうだったらもっと熾烈な競争をしなければならなかっただっただろう。
(もしそうだったとしても同じように最善を尽くしたのは言うまでもない)
また運のいいことに、私自身は今の今まで盗難や揉め事などこれといったトラブルに巻き込まれたりしたことはない。
むしろその逆で、応援幕を通して数々の同好の志に出会わせてもらえた。
アップ幕出してるんです!ということがステイタスでも胸を張れることでも別にないけれど(だって好きで好きにやっていることだし応援のかたちは人それぞれだから)、ふとした会話のとっかかりになってくれるのは、人見知りの私には心強かった。
ただやはり、幕を張る=最善を尽くすことにおいて出さなきゃならないパワーは相当に大きくて、こういうかたちでの応援はおそらく彼が最初で最後になるだろうなとは感じている。
とはいえ未来というものは心持ちや出来事次第でいくらでも移ろい変わってゆくものだから、あくまでも“今のところは”とつけ加えておく。

 

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応援幕に取り組んでみて分かったのは、為せば成る為さねば成らぬ何事も、ということ。
しかし為して成った今も私自身の気持ちは何も変わっていない。
私の競馬ファン人生におけるひとつの着地点として、通過点として。
そして彩りとして応援幕が加わった。とても大きく強い意味と意義のある事柄として。
競馬が好きだ、障害競走が好きだ、アップトゥデイト号が好きだ、陣営が好きだ。
きたる来年度も、明け7歳となったアップの行くところへ一緒に連れて行ってもらうつもりだ。

夢はまだまだつづいている。

全身全霊のその先に。アップトゥデイト、美しき完敗

2016年中山大障害
二頭のグランプリホースが力と力でぶつかり合う名勝負だった。
マッチレース。
最後の生垣障害をクリアし満を持して先頭に立ったアップトゥデイトにすかさず並びかけるオジュウチョウサン
熾烈な追い比べは長く続かなかった。
直線を向くや否や一気に捩じ伏せたのだ。
時代が変わった。
暮れの中山に新たな春秋障害王者が誕生した瞬間だった。

完璧な競馬だった。勝って負けたどちらとも。
逃げるドリームセーリングを見ながら二番手を追走するアップトゥデイトを背後からぴったりとマークしていたのは、ほかならぬオジュウチョウサンだった。
既視感を覚えた。幾度となく目にした光景だったから。
これは、この勢いと位置取りは、昨年のアップトゥデイトの姿そのものだと。

何度でも言う。完璧な競馬だった。
スタートも道中も仕掛けのタイミングもあれ以上はない。
今できうる最善以上をもってしても勝ち馬には敵わなかったのだ。
二頭が並走しマッチレースにもつれ込もうとしたときは血沸き肉躍った。
しかし同時に、アップ!!と声にならぬ声で叫びながらも、私の心は徐々に凪いでいった。
馬なりだった。
持ったままスッと並ばれたのだから。
今のアップトゥデイトにはもう、今まさに絶頂を迎え力という力が心身ともにみなぎるオジュウチョウサンの猛追を振り切るだけの余力は残されていない。
心が気持ちよりも先に事実を受け入れた。
だが不思議と悲しいとは思わなかった。

アップのピークが昨年だったとすれば、オジュウのピークは間違いなく今年だ。
もしかしたらまだ底を見せていないのかも知れない。
ピークを過ぎることは決して悲しいことではない。
現実であり摂理だ。
その中で馬と人は知恵と力を絞って平等に競い合う。それが競馬だ。
限界に抗い、時計に抗い、ライバルに抗い、全身全霊で戦いつづけるアップトゥデイトを私は心の底からかっこいいと思った。
かっこよすぎて、こっそりと泣いた。
負けて悔しくて悲しかったからではない。
死力を尽くした美しい完敗に胸を打たれたのだ。
あの直線の、とてつもなく短くて長い永遠のような数秒の中で、私は応援する馬のゆるやかな衰えを悟り、すべてを受け入れ愛することができたのだろう。
競走馬の衰えは悲しくて寂しいものと心の片隅で薄々と思っていた私にとっておそらく初めての感情だった。

勝ちは価値であり、負けとは勝者を認め讃えること。
オジュウチョウサンのような強く賢く素晴らしい障害馬をリアルタイムで目耳に焼きつけられることもまた、競馬ファン障害ファンとしての喜びに他ならない。
二年にわたって春秋障害王者誕生の瞬間に立ち合えた。
このうえない幸せを感じながら王者の凱旋を見守り続けていた。

林さん!春にリベンジな!!
ファンの熱い声援を心地よい喧噪の中に聴きながら、次こそは返り咲けるだろうかと来年に想いを馳せた。
ジョッキーもまた、春にリベンジしたいと口を揃える。
鞍上の林満明騎手は悔しさを滲ませながらも納得の表情に見えた。
戦いおえて帰ってきた人馬を出迎えた佐々木晶三調教師と同助手は、ともに笑顔を浮かべていた。
きっと無事の帰還に心から安堵し、相棒の全身全霊の力走を何よりも喜んだのだろう。
彼らが歩むであろう、おそらく並大抵ではない、険しく困難な道のりを思う。
しかし私は彼らにまた会いたい。
こんな勝負が観たい。この中山で。何度でも。

 

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闘うからには全身全霊で。
その先にのみ切り拓ける道がある。
まだ見ぬ景色を彼らとともに見たい。見届けたい。
それがこれからの私の夢だ。
アップトゥデイトと陣営は私の夢だ。
私は夢をあきらめない。

予想も馬券も何でも、楽しくなくなってきたら引き際です

耐え忍ぶ勝負が続いている。
冬競馬はもともと苦手だ。
たとえば有馬記念なんか、エイシンフラッシュ複勝をかろうじてひっかけたくらいしか記憶にない。
もしかして他にもあったような気もするが記憶にない。
それくらい冬競馬は苦手だ。
冬競馬、好きなレースは多いのに歯がゆいことこの上ない。
そんなこんなで今年も寒くなってくるやいなや的中率があからさまに下がってきた。
毎年のことなのでマイペースにやっていくだけなのだが、どういうことか今年はそれが異様にしんどく感じるようになってしまった。
9年ちょっと競馬をやってきてこんなことは初めて。
競馬を観る以上、予想をして馬券を買うのが我がポリシーだというのに!

賭け事で銭を失うのは後ろめたさを伴う。
競馬の神様にいなされ続けるのはほんとうに堪える。
いったん楽しくないなと感じはじめると、不思議なことに全く当たらなくなる。
いったんしんどいなと思ってしまったら、どんどん気持ちがネガティブに向いてモチベーションが下がっていく。
楽しい!難しい!勝ちたい!とあれほど熱心に取り組んでいた予想さえも、でも今週もG1あるからなぁと、どこか惰性で取り組んでしまう。
義務感を覚えると心が硬くなって物事を柔軟に吸収できなくなる。
視界は狭まり思考は凝り固まってしまう。
勝つためでなく負けないための、勝負ではなく守りに入ってしまう。
信念を曲げても負けるものは負ける。
曲げて負けると精神的ダメージは倍増する。
負けを恐れるあまり賭ける数を絞ったり買い目を意図的に変えたりするからさらに的中が遠ざかる。
そしてますます自己嫌悪に陥る。
負のスパイラルだ。
こうなったら競馬そのものが楽しくなくなってくる気がするし、馬券向いてないからもう賭けるの一切やめようかなんて気持ちにさえなってくる。
事実、先日は阪神ジュベナイルフィリーズを目前にしながら準メインを最後に競馬場をあとにしてしまった。
観たら習慣で考えてしまうだろうし、今の気持ちで義務感に駆られて取り組んだところで心から楽しめるとは思えなかったので、じゃあ試しにいったんG1休んでみよう!と思い立ったのだった。

競馬を、競走馬を、馬に携わる人たちを敬愛しているから、ギャンブルとしての競馬をも受け入れて馬券を買って参加したい。
それこそが先ほど挙げたポリシーの根源。
もちろん価値観なんて人それぞれで、がっつりやるギャンブラーの人から重賞はやる人、応援馬券だけは買う人、一切買わない人、まだ買えない人…
ああしないこうしないからだめというのでは断じてなく、どんな関わり方があってもいいと本心から思っていて、どんな考え方も受け入れた上で、私自身はこうやって競馬を愛していこうという決意だった。
そんな自分が予想をしない馬券を買わないというのは、愛する競馬からの逃げだと思っていた。
一度こうと掲げた決め事から逃げることは、なにより自分の心に恥ずかしい。
だから足掻きながら取り組み続けた。楽しくなくなってくる間際まで。
しかし逃げたっていいのだ、だって仕事じゃあるまいし。
世の中には競馬予想を生業にしていて馬券から逃げられない人たちも中にはいるけれど、私なんてただのいちファンに過ぎないのだから。
何はなくとも絶対に勝負していたG1を回避してみて得られたのは、買っても買わなくてもなんら変わらず関わっていけること。
買わないくらい別に大したことじゃないんだという許しと納得だった。
何にも考えずに、パドック本馬場で、あるいはテレビで、大好きな馬をただただ眺めてみる。
自分の勝ち負け度外視で、ただただ無事と健闘を祈りながら声援を送る。
そんな幸せだってちゃんと知っているのだから

人には、信じるものに対して目に見える誓いを立てたがる性がある。
そうして自分の決意に釘を刺す。
時に揺らぎそうになる気持ちを鼓舞するために。
しかし執着が過ぎて枷になってしまうのはしんどいし楽しくない。
競馬でも趣味でも何でも、楽しくなくなってきたら引き際。
また楽しみになってくるまで潔く退いてみる。
いったん息を入れて、今やりたいことって何だろう?今やりたくないことって何だろう?と自分の心に問うてみる。
楽しみが義務に、好きが苦痛に変わることほど悲しいことはないのだから、そうなる前に。

きたる中山大障害まで予想と馬券は休もうと思っている。
とはいえたった中一週の話なのだけど。
何もせずぼんやりと観ているうちにきっと、考えに考えてマークシートを塗るのがたまらなく楽しみになっているはずだから。

佐藤哲三さん、ふたたび馬上の人に

今日、哲三さんが馬に乗った。
どんな言葉をかけるべきかと逡巡した結果、案の定月並みなことしか言えなかったので、うまいこといえない残りはここにしたためることにした。
こういうとき、何と声をかけていいかわからなくなるのだ。嬉しすぎて。

「ゆくゆくは馬に乗りたい。」
正確なニュアンスは忘れたが(たしかUstreamてっちゃんねるだったと記憶している)、ご本人の口から語られた願望。
この言葉を聞いたとき、まるで胸に希望の光が射すような心地がした。
彼の騎手人生に魅せられたファンにとってはつらく悲しく寂しいことだが、現役を退かれてからというもの、もしかしたらその日は決して来ないのかも知れないと内心感じていたから。
それでも、だからこそ、願いつづけた。
新たな夢を思い描くように。
やがて心の痼りも身体の傷も癒えたとき、馬とのふれあいがその後の人生の励みや支えとなる日が来ることを。
馬とともにありつづけた人だからこそ、ふたたび馬とともに喜びを感じられる日が来てほしいと。

いつか語られた夢は現実のものとなった。
ほかならぬ彼自身の力によって叶えられたのだ。
この日がおとずれることを我々は待ち望んでいた。
あんなにも真摯に競馬と向き合い、信念を賭してレースに臨み、心から馬を愛した人がもう二度と馬に乗らない、乗れないなんて嘘だと思っていたから。

哲三さん、おめでとうございます。
そしてありがとうございます。
いや、おかえりなさいというべきだろうか。
今日という日は貴方のファンの、そして多くの競馬ファンの想いが報われた日です。

メイショウアラワシ、京都ジャンプステークスに挑戦

メイショウアラワシ号(以下アラワシ)を応援しに行ってきた。
オープン競走を勝ちあがったのち著しい成長力を見せ、少頭数の中山グランドジャンプにおいて3着入線。
一躍注目を浴びた彼が次に目指すべきものは、もちろん重賞初制覇。
負傷の主戦にかわり高田潤騎手と挑んだ小倉サマージャンプは惜しくも2着(マキオボーラーが強かった)。
引き続き高田騎手とのコンビ続行で臨んだオープン特別の清秋ジャンプステークスは斤量と重馬場がこたえて7着と凡走(ウインヤードが強かった)。
このあと暮れの大一番へ向けていったん仕切り直しかと思いきや、ずっと在厩で時計を出したり障害練習を積んだりしていた。
得意の京都で、主戦の森一馬騎手との再コンビで、ここで決めよう!ということか…
おそらくここがメイチ、目標は京都ジャンプステークス
比較的早い段階で陣営の意図が見え、私もまたここしかない!と強い期待を抱いた。
しかし、いつも強い馬が前を走っているアラワシの前にまたもや強敵が立ちはだかる。
下半期は中山大障害一本に絞ってくるはずだったニホンピロバロンである。
大本命の電撃参戦もあってか、本競走の特別登録馬はわずか6頭と異例の事態に。
ウインアーマー回避の可能性も示唆されていたらしいがレースはなんとか成立し、爽やかな秋晴れのなか精鋭たちが激突した。

タマモプラネット逃げる、ドリームセーリング負けじと追う。
大方の予想通り縦長の隊列となり、末脚にかけるニホンピロバロンはやはり後方から。
アラワシは…
まさかの最後方追走。
スタートがポンと出なかったとはいえ、これも作戦のうちなのか?
後半へ向けて内々で脚をためているのか?
とはいえ脚比べになったら明らかに不利なのに、バロンよりも後ろで大丈夫なのか?
さあ二週目に突入した。
アラワシまだ動かない。
いや、三角あたりからはかったようにじわじわと伸びてくるはず…
………あれ?
もしかして、動けない?

パドック気配は抜群だった。
栗毛の馬体がつやつやと輝くようで、落ち着きを見せながらも気合の乗った周回を見せており、素人目にもこれで勝ち負けできなきゃ仕方なしという出来だった。
斤量も背負わなくてよい。
そのうえ良馬場でやれる。
でも、なぜこんなにも手応えが、得意の飛越までもがあやしいのか…?

アラワシは後方侭で最下位の6着に終わった。 
練習で三段跳びがもうひとつだったらしいとか、あんなにも前に離されると切れる脚があるわけではないので苦しいとか、敗因らしい敗因を挙げることはできるのだが、バロンどころか他の4頭に対してすら何もできなかった…という事実に応援者は思いのほか打ちのめされてしまったのだった。
でも無事完走したんだよ!と応援馬の生還を喜びつつ、なんだか身体がこわばりその場から動けなくなって、ドリームセーリングの凱旋を讃えにいくことができなかった。
ドリームセーリング、平地時代にも馬券買ってたのに。
ニホンピロバロンには競馬に絶対はないこと、ウインアーマーには出走する全ての馬に勝つ権利とチャンスがあること、そして大金星をあげたドリームセーリングには何事も諦めてはならないことを教えられた淀のジャンプ重賞であった。

アラワシに教わったのは、さしずめ競馬ファンにとっての自由と責任についてだろうか。
勝手に期待して勝手に落ち込んで、競馬ファンっていうのはほんと勝手だなぁ、しかし自由なんだなぁと肩を落としながら考えていた。
競走馬を愛する自由、好きな対象を応援する自由、憧れの存在に夢を託す自由、予想して馬券を買う自由。
その自由に伴う責任ってなんだろうかと考えたとき、それはやっぱり喜んだり落ち込んだり訝しんだり悩んだりしながらも、戦うものたちの健闘を讃え、事実と結果を受け入れることなんだろうなぁとひとり頷いていた。
アラワシは大敗してしまった。
しかし3170mに及ぶ戦いを終えて無事に帰ってきた。
これと思われる敗因はいくつかあるが、負けてしまったことが事実で結果。
すべての障害をこなし競走を全うしたこともまた事実で結果。
敗戦を認めたうえでレース内容を残念に思うのも、無事の完走に安堵し巻き返しを願うのもまたファンにとっての自由なのだ。

そういえば、騎手をとても愛するのと競走馬をとても愛するのとでは、同じようでちょっと違うということもあらためて感じていた。
根本の感情は同じところにあるけれど、感ずる場所がほんの少し違うような。
馬はただ無心に走るだけだからだろうか。
馬を愛することには、馬の周りにいるひとを信じることも少なからず含まれるから、ひと一人を一心に見つめるのとは趣が変わってくるからかも知れない(私は彼を導く陣営も同様に信頼し応援している)。
競馬を愛するうえでそのどちらの想いも味わうことができるとは、我ながら競馬ファン冥利に尽きる。

思い通り、能力通り、予想通りにいかないからこそ惹かれる。
印の順、仕上げ通りには決してならないからこそ競馬は面白いし、誰もがレース結果に自分の見たい夢を想い描く。
9歳馬が単勝一倍台の大本命馬を打ち破ったことは大半の障害ファンを驚かせる結末ではあったが、その一方で確かに誰かの信念が結実し、夢が叶った瞬間だったのだ。
私もまたそのどちらとも違う夢を見ていたし、これからも何度も追い求め続けるだろう。

次走予定はさすがにまだ白紙だろうか。
障害が増え距離の伸びる大障害コースでは本来のしぶとさが活きそうだし、それを現地で見たい気持ちもあるが、今回の結果が結果なので無理はしないような気もする。
ずっと在厩で頑張ってきたことだし。
そんなメイショウアラワシ号と陣営の飛躍を願ってやまない。

 

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