うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

みんな誰かのいとしい馬

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強さと愛らしさに惚れている。
駅から競馬場へとつづく長いロードの両脇を飾るパネルのフレーズがふと目にとまった。
ほかのひとにとっては数いる未勝利、条件馬のうちの一頭にすぎないが、自分にとっては思い入れの深い馬。
競馬を続けていればそういう存在もできてくる。
障害オープン戦を観戦しに中京まで行ってきた。メイショウアラワシに会うために。

話せば長くなるが縁あって応援している馬で、会うたびに情が移って、もはや無条件でかわいいと思う。
アップトゥデイトもかわいいし、このメイショウアラワシもかわいい。
実績もルックスも全く違う2頭を、どちらもそれぞれにかわいいと思って応援している。
男馬にかわいいは褒め言葉になるのかどうか疑問だけれど、かわいいものはかわいいのだ。
“好き”に理由なんていらない。

このアラワシ、どちらかといえば男前というよりも個性的な顔つきで、オープン1勝と重賞2着3着の実績はあるものの近ごろは伸び悩んでいる。
前走の東京オープン戦は4着。
トップハンデを背負いながらも復帰戦としてはまずまずの内容だった。
次に向かうものと思っていた東京ジャンプステークスには登録せずに待機していたので、おそらく時計を出した翌週のここに来るだろうと踏んでいたのだ。
水曜日の想定で馬名を確認したあとは、もうじっとしていられなくなった。
昨年の京都ジャンプステークスを現地で観戦してから実に8か月弱。
会いたくてたまらなかった。

 

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少しのあいだ見ないうちに、アラワシはすっかり落ち着いた大人の男になっていた。
3歳のときから各地で障害を飛んでいるベテランももう6歳。
分別もついて、貫禄も出て、大人びてもくるだろう。
停止命令がかかったあとの癖だった前掻きもしなくなっていた。
装い(頭絡)も新しくなり、隣につき添って周回していたのはいつもの担当厩務員さんではなかった。
藤沢和雄厩舎を支えつづけた大ベテランの大館厩務員が6月末日付で定年という一報を目にしたので、おりしも上半期終わりというこの時期、もしかしたらアラワシ担当の方も同じ事情だったのかもしれない。
そうではなくて、何か別の事情があって今日はたまたま来られなかったのかもしれないし、もっと他に理由があるのかもしれない。

そう、好きな馬の世話をしてくれているスタッフの名前すら私はほとんど知らないのだ。
重賞を勝ち負けした、これからしようという馬には取材が申し込まれ、記事になって人となりが判明することもあろうけれど…
しかし自分が知りたいから教えてほしい、というのも違うと個人的には思っている。
以前から私が私自身の知りたいという欲求に一本線を引いている部分だ。
見えているぶんだけ。見せてくれるぶんだけと、足るを知る。
詮索しない、暴かない、深追いしない、みだりに公表しない。
もし不意に垣間見えてしまうことがあったとしても、胸の内に秘めて外には漏らさない。

控え室前で談笑する楽しそうなアラワシ陣営が撮れていたけれど、ひと同士のプライベートシーンのような写真は公の場にはあまり出さないようにしている。
基本的に競馬場で馬と一緒の写真を、というのがマイルール。
このごろは思ったような写真が撮れずスランプを感じていたが、好きな馬の写真は自然にこれでもかというほどたくさん撮っていて、不思議と出来が良かった。
ひとつの答えが出たような気がした。
写真撮りとしてはここが限界なんだろうなぁとも悟った。
競馬も写真も“好き”がモチベーション。
あえて公開するのは評価されるためではなく、“好き”を自分以外の誰かと共有したいからだ。この記事だってそう。
すっかり趣旨を忘れていたが、前走のアラワシを撮ってツイッター上にあげているひとを見かけなくて内心とても寂しかったから、今回は自ら出向いたのだった。
行けば会えるし好きなだけ撮って残せるじゃないかと。
念願は叶った。

かくして遠路はるばる立ち合った中京障害オープン戦。
アラワシは内をついてコーナーワークで距離を稼ぎ、先行力と危なげない飛越とで直線の最終障害では3番手まで詰めるも、ラストで差されての4着入線。
納得の4着でもあり、悔しい4着でもあった。
が、これはあくまで私が自分のために感じた悔しさであり、本当に悔しいのは私ではなくアラワシ陣営だ。
「自分のための悔しさを相手にぶつけてはならない」というのが応援の肝なのかな、とこのごろは感じている。

鞍上の森一馬騎手のコメントによれば、
飛びの上手な馬なので平地力が有利な置き障害よりも中央の大きな障害のほうがいい、その中で最後までよく頑張ってくれている。
とのこと。相棒を讃える言葉が心強い。
おそらく近いうちにもう一戦、状態にもよるが福島オープンか、それとも月末の小倉サマージャンプか…
小倉へはあらかじめ行く予定があるが、福島ともなれば難しい…
しかし私が行こうが行くまいが、厳しい勝負になろうが、担当さんが変わろうが(これは定かではないが)、陣営が最善を尽くすことに何ら変わりはない。
戦い終えて帰ってきた彼らの安堵の表情をかちうまプレビューのガラス越しに眺めていると、「この陣営なら何があっても大丈夫」と大きく構えていられる気がしてくるのだった。

次走を心待ちにしながら、渾身の萌えブレで締める。

 

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好きと趣味と、年齢とモチベーションと

「せっかくの重賞ある日も、メインを見ずに帰ることが多くなってしまったなぁ。」
もったいない気もしつつ早めに切りあげながら、いつからこんなふうになったんだっけとぼんやり考えていた。
競馬場へ行く目当てが障害競走や応援している未勝利、条件馬中心になってきたこともあって、11レースまで現地にいること自体がまれになった。
もちろんメインの重賞やオープン戦ともなれば心躍るメンバーが集う。
居続けて楽しまない手はない。
だけど、このごろ何だかふんばりがきかないのだ。競馬が大好きなはずなのに。
モチベーションの問題なのかなと、ひとりため息をつく。
でもよく考えてみると、モチベーションって、いったい何なんだろう?

今年に入ってからというもの、体力の衰えと、気力が以前ほどわいてこないことに年齢を感じるようになった。
いくら元気な健康体とはいえ三十代も後半戦、なかなか若いころと同じようにはいかない。
もちろんそのとおりなのだけど、もっとこう、
「好きなことのためなら何だってできる!ずっと好きなことしていたい!!」
というはつらつとしたエネルギーが、ほんのちょっと前までは湯水のごとくあふれてきたのに…。
今はほぼ目的のためだけに動き、目的を遂げると「週明けからちゃんと仕事をこなすために…」などと自分に言い聞かせながらすみやかに撤収する。
われながら年をとったと思う。
競馬と出会ってからもう十年が経とうとしている。そりゃあ年をとるわけだ。
でも不思議なことに、老けたというふうには感じていない。
なのでモチベーションがあがらないのと加齢とはちょっと違う問題なのかも、と思い直してみた。

たしかに体力気力の原動力となるモチベーションをあげる瞬発力や持久力そのものは、年代により違ってくる。
年を重ねることによって物事との向き合いかた取り組みかたが変わってくるのは、ごくごく当たり前のことなのだ。
見ているものや興味の対象だって、時の流れや予期せぬ出会いと別れによってうつろい変わってゆく。
きっとそういうことなのだろうなと分かっているにもかかわらず不安を覚えてしまうのは、今までの自分から何かが変わろうとしているからだろう。
いずれ今のままではいられなくなりそうで、でもこれからも日々を暮らしていかなきゃならないわけで、今とこれからの自分にとって必要な変化を迎えつつあるのが私の現状なのだと思う。
これまでがありえないほどに楽しかったからこその不安だ。
変化を受け入れて、できることをささやかに楽しむのか、まだまだやりたいことがある!とあらがうのか。
たぶん好きなもの次第でどちらへもいけるのだろう。

実をいうと、以前のようなパワーが出ない自分にちょっと罪悪感を覚えていた。
競馬を愛しているのに、その気持ちは何ひとつ変わっていないのに、いつしか競馬の中の興味と関心のある物事にしか心と体を動かしづらくなった。
精力的に“好き”に向かっていくひとの若さやひたむきさをまぶしく眺めながら羨んで、「好きならもっと元気が出るはずなのに、私は何でこうなの?」と自分をそれとなく責めていたのだ。
楽しいはずのことも楽しくなくなりそうな悪循環に陥りかけていた。
物事に真面目に真剣に取り組むほどに、レベルアップとともに自らに課すハードルは高くなってゆく。
でもそれって決して義務なんかじゃないのだ。あくまで趣味。
ほかならぬ自分自身が心から好きで楽しくて、こういうことをやりたいなぁっていう前提でなければ、遅かれ早かれ息がつまってくるんじゃないだろうか。
好きならここまでやるのが当たり前、できて当然、できないのは愛や熱意が足りないから…
こんなふうに自らにノルマを課したり、自分ができるからといって他人に対しても同じレベルを求めてしまうというのも、ちょっと違うんじゃないかなぁと。

これは何にも通じる話で、たとえば写真界隈でもたびたび巧拙や道具や出来映えについての話題で盛りあがったりするわけだけれど…
個人的には、被写体への敬意を忘れずに最低限のルールとマナーが守れるのであれば、あとは自己責任で自由に楽しんでいいんじゃないですか、という考え。
だって写真に対するモチベーションだって千差万別なのだから。
プロレベルのガチ勢のひともいれば、好きな馬や人との思い出を残すために撮ってるひともいるだろうし、機材や撮影そのものに意味を見出すひとだっている。
それをみんなおんなじ写真クラスタ!なんてひとくくりにできるはずも、全員の足並みを揃えられるはずもないわけで。
話は横道に逸れたけれど、ちょっと気になることがあったので本題に絡めて結論を出しておいた。

ひとは変わる。
好きなものも変わる。心も変わる。考えかたも変わる。
物事との向き合いかたも、取り組みかたも、熱しかた冷めかたも。
年齢、経験、出会いと別れ、仕事、ライフスタイル。ありとあらゆる事柄から影響を受けながら。
それこそが、ひとが成長と呼ぶものなんじゃないだろうか。
ともあれ今とこれからの私は、これまでの『競馬のいいとこ全部どり!』から『好きなものを好きなだけ』に。
“動機づけ”と和訳されるように、モチベーションって文字どおり、好きなもの、好きなことへの自分の想いそのものなのだ。
うまく気持ちの変化を受け入れることができれば、趣味とも自分自身とも楽しくつきあっていける。
今はまだちょっと戸惑いつつも、そう信じて。

哲ちゃんと晶ちゃん先生のお話

「この勝利を佐藤哲三騎手に伝えたい。」

キズナが第80回日本ダービーを制した直後に伝えられたトレーナーの言葉だ。
私はすでに泣きに泣いていたが、それを聞いてさらに泣き崩れた。
先生のことだから、きっと感極まって心の叫びがそのまま口をついて出たんだろうと。

あくまで個人的に感じていた憶測でしかないが、二人のあいだにはキズナが最後の大仕事だという共通の意識があったように思う。
ともにゆるぎない自信と万感の想いがあったのだ。
しかし新馬戦と黄菊賞をこのうえない内容で連勝し、さあまさにこれからというときにあの落馬事故が起きてしまった。
その先はあらためて説明する必要もないだろう。
新たな鞍上に武豊騎手を迎え、キズナはまるで天命に導かれるかのようにダービー馬となった。
かつてのパートナーが栄光をつかんだとき、かつて背にいたジョッキーはひとり病室のテレビでその瞬間を見守っていた。
その彼への、公共の電波をフル活用した私信であり心の叫びだった。

哲三騎手が再起をはかるかたわらでキズナ陣営は凱旋門賞を目指し、その後も数々の栄光と頓挫の道を駆け抜けながら、実に長い月日が流れた。
その間、哲三騎手は精力的にさまざまなメディアで近況を報告したり競馬について語らい、佐々木師もまた主戦への激励を絶やさなかった。
今にして思えば、佐々木晶三調教師こそが騎手佐藤哲三の一番のファンだったのだ。

やがてその日はやってきてしまう。
哲三騎手の引退式で花束贈呈に臨んだ佐々木師は終始笑顔だった。
が、その際に握手といくばくかの言葉を交わしあい離れたあと、天を仰いで感極まっていた姿もこの目にしっかりと焼きついている。
本当は誰よりも無念で悔しくて寂しくて泣きたかったのに違いない。
しかし涙はなかった。
新たな門出を迎える同志へのはなむけといわんばかりの笑顔だった。

それから数ヶ月後、カメラの前で佐々木師は人目をはばからずに泣いた。
立場も身の上もある大人の男性があんなかたちで堂々と人前で泣くのを私は初めて見た気がする。
騎手の肩書きを返上してからも日々仕事をこなし、ようやく身辺も落ち着いてきたであろう哲三氏は、そのすぐ隣で神妙な表情を浮かべながら師の言葉にじっと耳を傾けていた。
以下は、おととしの年明け頃にグリーンチャンネルで放送された特番『ジョッキー魂』内で行われた二人の対談(厩舎訪問)の覚え書きである。


晶「いつからだったかなぁ、サクラエキスパートで初めて(一緒に)重賞勝って。

  コンビ組むようになったのはタップダンス(シチー)の朝日チャレンジカップから。
  (哲三元騎手は)思い切った騎乗をしてくれる。
  私なんか競馬勝つのなんて奇跡だと思ってるから、
  どうせ負けるなら思い切って乗ってくれたほうがありがたい。
  
タップダンスの朝日チャレンジカップがあまりにもうますぎて、
  亡くなった当時の友駿(ホースクラブ)の会長に
 「タップダンスは生涯、佐藤哲三騎手で」って東京までお願いしに行って。

  最初の有馬記念の、ファインモーションをつぶした佐藤哲三
  
あれはおもしろかったですわ。
  あのとき初めて、競馬っておもしろいんだなぁって。
  
言ったことないけどね、私が三度目が勝負だと思ってたら、
  彼は思った通りに乗ってきたのでね。

  なんだ、俺の心が分かるのか、と。」

哲「ずっと一緒にやってたらだんだん分かってくる。
  先生も僕がどんな競馬するのか分かってると思うし」

晶「10年間で22の重賞を勝たせてもらってね。
  哲ちゃん引退して、今なんか重賞出せる馬いませんわ。最悪ですわ(笑)。
  (隣の哲三氏を見ながら)もう一回カムバックする?
  こうやって、片手で、腕くくって…」

哲「しますか(笑)」

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この二人、なんとなく雰囲気が似ている気がする。


いくばくかの未練を残しながら鞭を置いた元ジョッキーに「戻っておいでよ、また一緒にやろうよ」だなんて、たとえ冗談であれ本音であれ、口にするにはかなり勇気のいる言葉だ。
師はそれをあえて本人に言ってのけたのだった。
ほかならぬ師にああ言ってもらえて、過去を過去にしてもらえて、哲三氏もいくらか心の荷が降りたのではと感じた。
だったらいいなと思わずにはいられなかった。
そう思わせるほどに二人の表情はおだやかだった。
二人で笑いあって過去と今との間に線を引いたのだ。
線を引いたからこそ、ようやく師は心おきなく泣けたのだろう。
ああ、ついに彼らの信念の物語が結末を迎えてしまったのだなと、私もまた一緒に泣いた。
対談にはもう少し続きがある。


晶「てっきり調教師の試験受けるもんだと思ってたんだけど。

  腕が動かないと、装鞍ができなくてマイナスになるのでね…」

哲「いつか先生と肩を並べてG1勝ち負けしたい。
  でも、今のままだと絶対負けるので。
  いつも言ってるように、今は今の仕事をね」

晶「来るべきときが来れば。そのときだね。」

 

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哲三氏が「かわいいと思った」キズナである。無邪気でかわいい。

 

佐々木師は哲三氏と、これまでとは違うかたちであったとしても同じ志を持つ競馬人として切磋琢磨をしていきたかったはずで、本当は調教師を目指して欲しかった、目指すものだと思っていた、いや願っていたのだろう。
結果として佐々木師はこれまでどおりトレセンに残り、哲三氏は決意を新たにトレセンを後にした。
信念を分かち合った二人が袂を分かった瞬間だった。
内と外とで分かたれてしまった二人のゆく道がいつかどこかで交わりあうことはあるのだろうか。
いつの日かそのときが来てほしいと、二人の仕事に魅せられたファンはあの夢の続きを望まずにはいられない。
どんな形であるかは、今はまだ見えないけれど。

一方で、今もなお続いている物語もある。
新馬のころを二人が手がけたアップトゥデイトは最優秀障害馬にまでのぼりつめ、7歳を迎えた今も現役で活躍しつづけている。
同馬を担当しているのは、父の背を見て育ち、タップダンスシチーに魅せられてこの世界を志した佐々木貴啓調教助手だ。
時はこれからもさらに流れてゆく。
かつての名手が背を知る馬たちも順にターフを去り、同じく障害レースの道に果敢に挑んだダローネガは先日競走中に逝ってしまった。
長らく厩舎を支えつづけた彼に感謝をするとともに、ここであらためて冥福を祈りたい。
佐々木晶三厩舎において、主戦をつとめた哲三騎手とともにレースに臨んだ経験を持つ馬は8歳馬のスランジバールと、このアップトゥデイトのみとなった。
アップはあのキズナとは同郷で同期。縁の力を感じずにはいられない。
どの馬も無事に競走生活をまっとうすることを願うばかりだ。

時はさかのぼって2014年12月はじめ、中京競馬場で行われたタップダンスシチー号お披露目の場で、かの伝説の男たちがふたたび一堂に会した。
彼らはそれぞれに年をとっていたが、往年の輝きは色褪せていなかった。
タップは二人の姿をみとめるや否や怒りどおしで、二人はかつて描いた夢をふり返りながら笑っていた。
佐々木師は哲ちゃんがいなくなって寂しいと口にし、哲三氏はすみませんと応酬する。
なごやかな談笑の中で、哲三氏がもう佐々木師を昔のように愛称では呼ばなくなっていたことに気がついた。
ラジオの公開収録という公共の場だったこともあるのだろうが、なにより今はもう生きる世界をたがえた彼なりのけじめなのだろう。

佐々木晶三調教師は、騎手佐藤哲三、人間佐藤哲三に心底惚れていた。
こちらにまでめいっぱい伝わってくるほどの熱量で。
あんなにもひとりの男に惚れられた哲三氏はジョッキー冥利に尽きる。
あんなにもひとりの男に惚れ込んだ佐々木師もトレーナー冥利に尽きる。
お互いに、人間としてホースマンとして生涯最高のパートナーと出会えたのだ。
これを仕合わせと呼ばずしてなんと云うだろうか。
そして、そんな彼らを長らく応援することができた競馬ファンもまた幸せだったのだ。
同志で親友で相棒。
ともに信念を分かちあった彼らのあいだに言葉はいらなかった。
このうえない絆で結ばれた唯一無二の関係だった。

私は、佐々木師が親しみを込めて哲三騎手を哲ちゃんと呼び、哲三騎手が少し照れたように師を晶ちゃん先生と呼ぶのが大好きだった。
これは、そんな二人の信念の物語がひとまず終幕をむかえた際の、いちファンの備忘録である。

心は記憶と感情の器

長年撮りためてきた画像のデータをGoogleフォトにバックアップした。
容量が増していくたびに「ある日突然これが全部飛んでしまったらどうしよう…」「そうなるかもしれない前になんとかしなければ…」と気が気でなかったが、これでひとまず安心だ。
デジタルカメラのメモリとスマートフォン端末をいっぱいにしていた中身をすっきりさせたことで、心のつかえがとれて身軽になった気がした。
ほんの少しの心もとなさとともに。
いま私は、自分の頭の中において、それと同じことをしようとしているんじゃないだろうかという疑念とともに。

ひとは忘れる生き物だ。よくも悪くも。
にもかかわらず、ひとには絶対に忘れたくないことがたくさんありすぎる。
だからこそ思い出のインプットとアウトプットをすることによって記憶のバックアップをとろうと試みる。
方法はひとによってさまざまだろう。
私にとっては写真と文章。
記憶が鮮明なうちに撮ったり書いたりつぶやいたりしたことが、埋もれた思い出をとりだすための鍵だったり、ちょっと立ち戻って見返すためのしおりとなるのだ。

その思い出を急ピッチで整理していこうと思いたった。
自分の中のとある事柄がもうじきひとつの年月の区切りを迎えるにあたって、これまでずっと大切に心の中にしまっておいたものを目に見える形として残しておきたかったからだ。
先日からちょっとずつとりかかっている。
ひとつ仕上げるたびにひとつ肩の荷がおりてゆく。
忘れまいと気を張っていた、忘れられずしきりに思い浮かんでいたことからの解放でもあった。
でもこの解放感って画像データのバックアップをとったときの安心感と似ているなと気づいたとき、なんとはなしに罪悪感のようなものを覚えたのだった。
忘れたくないから書いてるのに、書きおわって安心したら忘れてしまうのではないかと思い当たって怖くなった。
まるで安心して忘れたいがために急いて記録しているようにさえ思えてきて、自分で自分の頭と心が怖くなったのだ。
書いて消してをくり返すうちにいまある自分の心が空っぽになってしまいそうで後ろめたい反面、いつまでも忘れられない過去の未練にとらわれつづけていくのはつらいとも感じている。
その気持ちの昇華をするためにこそ書いている。
いまもなお葛藤はつづいている。
明確な答えはでていないし、まだ割り切れてもいない。
が、人生だってそんなものだろう。
私にはこれしかない。
絶対に忘れたくないことがあって、覚えておくためには書くしかないし、なにより私自身が書いておきたいのだ。
答えははじめから決まっていた。

ところで、それにしてもスマホはよく壊れる。
ひとの心もわりと簡単に壊れるらしい。
私事ながら人生大失敗したときにややきわどい時期がしばらくあって、まあ壊れるまでにはいたらなかったのだが(我ながら頑丈にもほどがある)、幸か不幸かその当時のことをあんまり覚えていないのだ。
ひとから言われてようやっと思い出すこともあれば、どれだけ諭されてもまったく思い出せないこともある。
あのころきつかったことが完全に過去となってからなんとなく唐突に思い出したこともある。
壊れないようほどほどに自己防衛が働いていたのだと思われる。人間の脳の神秘である。
生きていくというのは、たぶんそういうことのくり返しなのだろう。

ひとは忘れることで生きていける。
ひとは思い出があるからこそ生きていける。
矛盾に満ちているけれど真理。
ひとの心は記憶と感情の器だ。
器の中は、過去をよりどころにした記憶の容量と、いまとこれからを生きるための感情の容量とでまざりあっている。
どっちが重すぎても軽すぎても、おそらくうまくいかない。
ひとそれぞれにちょうどいいバランスがきっとある。
忘れる自由と覚えている自由、はじめからどちらも持ちあわせているのだ。
時機がきたからだとか、いつまでもこだわりつづけるのはよくないからといって無理に想いを打ち消す必要もなければ、忘れ去ることは裏切りや罪悪とばかりに自分を責める必要もない。
そもそもひとの心はデジタルのデータのようにきれいに消したり足したり、ファイル分けしたり、割り切ったりできるものではないのだから。
でも、前を向きたいからだとか、あのころの気持ちをいま一度呼び戻したいだとか、自らにとって必要なことならばそうするための工夫をすればいい。
ほかならぬ自分自身の心なのだから。

忘れてもいい。覚えていてもいい。
自分をほんとうに許せるのは、自分だけだ。

エスポくんと、ごっちゃんと、てっちゃんと

「あれ?何かつながりあったっけ?」
思わず声が出た。
ほかならぬ相棒のこと、長い戦線離脱という同じ境遇にある主戦騎手が口をきいたりしたのかな?
というふうにまずは解釈したが、落ち着いてほんの少し紐解いてみればチャクラ、メイショウオスカルの頃からのつながりが浮かびあがってきた。
トレーナーとジョッキーとのあいだには実に十年来の深い信頼関係が築かれていたのだ。
かくして宙に浮いていたエスポワールシチー号の手綱は、ごっちゃんこと後藤浩輝騎手に託されることとなった。

彼は長らく迷いの中にいた。
迷いというより恐れだったのかもしれない。
迷いと恐れを抱き前へ進もうとしている人間に対して、思いやりや誠意を適切な態度で示すことは簡単なようで難しい。ましてや実利が絡むともなれば。
綺麗事だけではもちろんはなく、師いわくゲートのうまいジョッキーに乗ってもらってスタートのちょっと苦手なエスポを何かしら工夫してもらいたかった意図だとか、これまでの関係性からの頼みやすさ、オーナーであるクラブも含めて、諸々の見解の一致もあったのだろう。
「この馬に乗って」とお願いするというのは、全部ひっくるめてそういうことなのだ。
彼が復帰を表明してから一番はじめに飛び込んできた騎乗依頼だったという。
騎手後藤浩輝復活への筋道を、誰よりも早く提示したということだ。
乗り役としてもっとも欲しかった信頼の証を胸に、彼は信じた道へと勇気をもって挑むことができたに違いない。

さらに時をさかのぼれば、哲ちゃんこと佐藤哲三騎手もまた迷いの中にいた。
いわく「ケガでモヤモヤしていた」とき、師は彼にエスポワールシチーの一切を任せたという。
この先はあまりに有名な語り草となっているのでくわしくは省略する。
夏のあいだ小倉へ連れて行きたいと言われればそのとおりにし、僕の言うタイミングでレースを使って欲しいとお願いされたら、使える状態にあってもじっと主戦のゴーサインを待った。
今どきこのご時世において、厩舎サイドと乗り役がこんなにも深いかかわりを持てるものなのかと、ジャパンカップダート後のレース回顧や数多の後日談に耳を傾けながら感銘を受けたものだ。
そしてそれがとても稀有なものであるということもすぐに想像がついた。
丁寧に対話を重ね、最善を尽くし、すべてを慎重に積み重ねながら築きあげられた信頼関係だった。

名馬エスポワールシチーを通して私が見たものは、馬と人、人と人との熱く優しく強いつながりにほかならない。
数々の数奇な縁をつなぎ合わせた先に未来と栄光があったのだ。
二人の騎手にとっては希望そのものだっただろう。
彼らを見つめるファンにとっては夢そのものだった。
エスポくんとともに勝利を掴んだごっちゃんをまぶしく見つめながら、私は、彼をふたたび現役のジョッキーとして応援できるファンの人たちがうらやましかった。
このことを誰とはなしに言おうか言うまいか、この今が過去になったときにでもそっと独り言のように打ち明けられる日が来るだろうと考えているうちに、決して口にしてはならない言葉となってしまった。

彼らがともに信頼しあったから。
彼らが馬を人を信じたから。
彼が想いのすべてを汲んで乗ってくれたからこそ、たくさんの人が、あんなにも一緒になって喜べたのだ。
今も目に焼きついている。
あのときの記憶が鮮やかなままで時計の針は止まっている。
彼が一度進めた時間の流れだ。
もっと見ていたかった。
見ていられると信じるには充分すぎるほどに、確かな手応えだったのだ。

そして彼らはステッキを置いた。
信念を分かち合った二人の名手の引退に際して、彼らを陰ながら支えた安達師はそれぞれに惜別の言葉を贈っている。
同じ口を開くのならば、あんなふうにあたたかい言葉をかけられる人間でありたいものだ。
ねぎらいながら想いを伝えることは、とてもとても難しいことだけれども。

気がつけば二年と少しの月日が経っていた。
今年度はエスポワールシチーの子どもたちのデビュー年だ。
地方からはすでに産駒の健闘が伝えられている。
歓喜にわく日はそう遠くないだろう。
あのとき夢に見た希望の物語は、ほんの少し形を変えて、ずっと続いていく。

 

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