うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

心は記憶と感情の器

長年撮りためてきた画像のデータをGoogleフォトにバックアップした。
容量が増していくたびに「ある日突然これが全部飛んでしまったらどうしよう…」「そうなるかもしれない前になんとかしなければ…」と気が気でなかったが、これでひとまず安心だ。
デジタルカメラのメモリとスマートフォン端末をいっぱいにしていた中身をすっきりさせたことで、心のつかえがとれて身軽になった気がした。
ほんの少しの心もとなさとともに。
いま私は、自分の頭の中において、それと同じことをしようとしているんじゃないだろうかという疑念とともに。

ひとは忘れる生き物だ。よくも悪くも。
にもかかわらず、ひとには絶対に忘れたくないことがたくさんありすぎる。
だからこそ思い出のインプットとアウトプットをすることによって記憶のバックアップをとろうと試みる。
方法はひとによってさまざまだろう。
私にとっては写真と文章。
記憶が鮮明なうちに撮ったり書いたりつぶやいたりしたことが、埋もれた思い出をとりだすための鍵だったり、ちょっと立ち戻って見返すためのしおりとなるのだ。

その思い出を急ピッチで整理していこうと思いたった。
自分の中のとある事柄がもうじきひとつの年月の区切りを迎えるにあたって、これまでずっと大切に心の中にしまっておいたものを目に見える形として残しておきたかったからだ。
先日からちょっとずつとりかかっている。
ひとつ仕上げるたびにひとつ肩の荷がおりてゆく。
忘れまいと気を張っていた、忘れられずしきりに思い浮かんでいたことからの解放でもあった。
でもこの解放感って画像データのバックアップをとったときの安心感と似ているなと気づいたとき、なんとはなしに罪悪感のようなものを覚えたのだった。
忘れたくないから書いてるのに、書きおわって安心したら忘れてしまうのではないかと思い当たって怖くなった。
まるで安心して忘れたいがために急いて記録しているようにさえ思えてきて、自分で自分の頭と心が怖くなったのだ。
書いて消してをくり返すうちにいまある自分の心が空っぽになってしまいそうで後ろめたい反面、いつまでも忘れられない過去の未練にとらわれつづけていくのはつらいとも感じている。
その気持ちの昇華をするためにこそ書いている。
いまもなお葛藤はつづいている。
明確な答えはでていないし、まだ割り切れてもいない。
が、人生だってそんなものだろう。
私にはこれしかない。
絶対に忘れたくないことがあって、覚えておくためには書くしかないし、なにより私自身が書いておきたいのだ。
答えははじめから決まっていた。

ところで、それにしてもスマホはよく壊れる。
ひとの心もわりと簡単に壊れるらしい。
私事ながら人生大失敗したときにややきわどい時期がしばらくあって、まあ壊れるまでにはいたらなかったのだが(我ながら頑丈にもほどがある)、幸か不幸かその当時のことをあんまり覚えていないのだ。
ひとから言われてようやっと思い出すこともあれば、どれだけ諭されてもまったく思い出せないこともある。
あのころきつかったことが完全に過去となってからなんとなく唐突に思い出したこともある。
壊れないようほどほどに自己防衛が働いていたのだと思われる。人間の脳の神秘である。
生きていくというのは、たぶんそういうことのくり返しなのだろう。

ひとは忘れることで生きていける。
ひとは思い出があるからこそ生きていける。
矛盾に満ちているけれど真理。
ひとの心は記憶と感情の器だ。
器の中は、過去をよりどころにした記憶の容量と、いまとこれからを生きるための感情の容量とでまざりあっている。
どっちが重すぎても軽すぎても、おそらくうまくいかない。
ひとそれぞれにちょうどいいバランスがきっとある。
忘れる自由と覚えている自由、はじめからどちらも持ちあわせているのだ。
時機がきたからだとか、いつまでもこだわりつづけるのはよくないからといって無理に想いを打ち消す必要もなければ、忘れ去ることは裏切りや罪悪とばかりに自分を責める必要もない。
そもそもひとの心はデジタルのデータのようにきれいに消したり足したり、ファイル分けしたり、割り切ったりできるものではないのだから。
でも、前を向きたいからだとか、あのころの気持ちをいま一度呼び戻したいだとか、自らにとって必要なことならばそうするための工夫をすればいい。
ほかならぬ自分自身の心なのだから。

忘れてもいい。覚えていてもいい。
自分をほんとうに許せるのは、自分だけだ。