うまいことはいえないが。

書きたいように書いていたい。自分を救いたい。誰かになにかを伝えたい。

居間日記をはじめてから

satoe1981.hatenablog.com

 

しっかりと手で文字を書けるようになってきた。
創作をしていた頃と近い状態に戻ってきた。
スマホとちがって親切に予測変換をしてくれるわけじゃないから、いったん自分の頭で考える。思い出す。答えと適切なかたちを導き出していく。
できるだけ漢字を使う。
どうしても思い出せないときは調べる。ひらがなのままにしておかない。
そのときはスマホを触ってしまうんだけど、だんだんと触る回数も減ってきた。
手に届くところに辞書を置いた。薄い紙をめくる懐かしい感触。小説を書いていた頃は辞書が友だった。

心のありかたは文字に出る。
炭の濃淡、筆圧、文字のきれいきたない。
書いたものをわざわざ読み返すかどうかはわからないけれど、文字は自分自身の分身だ。
ちなみにわたしは悪筆だ。人に自分の書いた文字を見られるのが恥ずかしいし、怖い。
若い頃に勤めていた職場で「角ばってて男みたいな字やな」と言われたのがずっと忘れられない。
言った人はちょっと笑っていたから、あんまりいい意味は込められていなかったように感じた。悪気も感じられなかったけど、だからこそストレートに突き刺さった。
以来、書類も日報も、メモでさえも、人に見せなければならない文字を書くときはすごく憂鬱な気持ちになる。
人にまじまじと見られながら書くのも嫌。恥ずかしくて緊張して、どうにかなりそうになる。
だけど日記は自由だ。
日記に文字で想いをぶつける時だけはそういう怖さや恥ずかしさから解放される。
誰に見せなくてもかまわないから。

居間日記と名づけたノートは、結局は居間に置いていない。
わたし以外の家族は知らないし、読んでいない。
これみよがしに置いとくようなものじゃない。察してほしいみたいで嫌だな、と思いなおした。
言いたいことはいっぱいある。言えることは口にして、言えないことは文字の中に秘めていればいい。
そうしてわたしが死んだあとにでも、誰かがしみじみと読み返してくれればいい。
このブログのほかに日記という遺書が増えた。
その事実がほんのちょっとだけ、わたしの心を軽くしてくれている。