うまいことはいえないが。

書きたいように書いていたい。自分を救いたい。誰かになにかを伝えたい。

「痩せなきゃ」の意味が変わった

ここ一、二年で太った。
もともと身長160センチ体重55キロと決して痩せてはいなかった、けどしっくりときていた「自分基準」から5キロほど増えた。肥満の一歩手前だ。
目に見えて贅肉がついた。
でもしょうがない。
わたしの心と体は食べることを欲していたのだから。生きるために。
生きるとは、嫌なこと不向きなこととそれらから受けるストレスをやり過ごして、仕事と生活をこなすこと。
そのために食べることが必要だった。
おやつを食べることで毎日仕事へ行けたし、家族とも向きあえた。生きることに前向きになれた。
だから何も後悔はしていない。
心と体が欲して食べた結果太ったというのなら、今の状態が今のわたしの自然体なんだろう。

「痩せなきゃ」と前ほどは思わなくなった。
痩せた体でいる必要がなくなったからだ。
こんなわたしでも、若い頃は痩せたかった。
まだ恋愛が選択肢にあったからだ。意欲も向上心もあった。
かわいい服を着ておしゃれがしたかった。
好きになった人に選ばれたかった。
そのために少しでも綺麗にして、痩せていたかった。
かくして、わたしを選んでくれる奇特な人があらわれた。
だけどその人はわたしを容姿で選んだわけではなかった。さりとて痩せることを怠るのは罪深いように感じられた。
そのわけは言わずもがなだろう。

わたしは若くなくなった。
自分というものを多少は知って、若い頃のような望みはもう手放してある。
ひとりで生きると決めたから、男性に選ばれる必要もなくなった。
結婚をしなかった。出産をすることもない。年齢を重ねたことにより、その可能性も限りなくゼロになった。
恋愛をすることも、ともに生きるパートナーも欲していない。
したがって誰かの前で服を脱ぐことも、誰かと床に入ることもない。
水着になって海やプールで遊ぶこともない。スーパー銭湯と温泉へは行くけれど。
あとジムへも行くかもしれない。泳ぐのは好きだから。
わたしの体は、わたしだけが知っていればいい。
誰かにジャッジされるシーンがなくなった。すがすがしい。

なのに、まだ「痩せなきゃ」と少し思っている。
義務のように感じていたものを手放して自由になったはずなのに、「自分基準」よりも太っている今の自分を心の底から嫌だと思う。
「誰か」じゃなくて「わたし」が嫌なのだ。この体でいることを。
だらしないな。汚いな。ふてぶてしいな。わたしじゃないみたい。
それは今の生き方が気に入ってないということだ。
生き方は体型にもあらわれる。
わたしがわたしの心をうまく楽にしてあげられなかったから、食べることを体が欲した。
わたしはわたしを醜く太らせてしまった。わたしがついていながら。
その事実が自分で情けなく、自分がかわいそうなのだ。今ようやくそう思えた。

ケアのしかたを変えるつもりだ。
そりゃあちょっとは食べる。好きなものを食べることは、やっぱりわたしには必要。おいしいものを食べることが好きだ。幸せを感じる。
だけど心と体とも向きあう。さぼりがちになっていたヨガを通して。
せめて自分の体を知る努力は怠らないようにする。
心身ともに健康でいなければ仕事へも行けないし、暮らしもままならない。こんなんじゃあ家族とうまくやっていけない。
「痩せなきゃ」よりも、「自然体でいよう」。
今のわたしの幸せはそこにあるのだから。