うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

ツイッターにトリセツはないけれど

ここにやってきた人って、もともと他人としゃべるのはちょっと得意じゃないけど別に人間が嫌いというわけじゃなくて、むしろもっと人と話をしてみたくて、なにより自分の中に話してみたいことがたくさんある人たちだと思うのですが、どうでしょうか?
ゆるいつながりとはいってもある程度つづけていればそれなりの関係は生まれてくるもので、たくさんの人間がいてたくさんのコミュニティがあれば、どこかに属し誰かとつながる喜びと悩みはいつも背中合わせ。
はじめのうちは気がねなく、ゆるく楽にいられたはずなのに…。

この人とはつながりも絡みもなかったはずなのに、ふと気づいたら先んじて拒絶されていた。
それなりにやりとりがつづいていたのに、いつの間にか関係が一方通行になっていた。
前にお別れしてしまった人にもう一度ちゃんと謝りたいけど自己満足もはなはだしいから踏み出せない、でもいつまでもモヤモヤと後悔が消えない。
もしかしてただ気づいてないだけで、自分は不特定多数の人に嫌な思いをさせてるんじゃないだろうか。

やりとりを重ねて親しくなった人とオフで対面してみたもののオンのときのようにうまくいかなくて、ツイッターと違っておとなしいんですねあんまり喋らないんですね、とがっかりさせてしまったかもしれない。
オンラインではついつい違う自分を演じてしまう。

いい作品、いい人、いい言葉と出会ったとき、自分にはないものを羨んで、自分には何もないことを思い知らされる。
本質は同じようなことを言っているはずなのに他の人のほうがうんと注目されて評価されるのはどうしてなんだろう、自分の伝えかたはそんなにだめなのかな…
などなど。

言葉や作品は、表に出した瞬間その人からはいったん離れて、受けとる相手に全部ゆだねられます。
たとえば『会いたい馬や人には会えるうちに会っておこう、行きたい場所には行けるうちに行っておこう、後悔しないように』という前向きで素敵な言葉も、家庭や仕事や身体の事情でそうすることが難しい人にとってはつらい言葉となってしまうかもしれない。
人の心とは多面体で、いいものをいい、そうでないものとそうでないなぁと客観的にジャッジする反面、今の自分の想いや境遇にあてはめて本音では共感したり、勇気づけられたり、あるいは反発したり、憤ったり、拒絶したり…
本当に、受けとる人によって見える聞こえるかたちが変わってくるものです。
絶対的な善悪はさておき、あれが好きとかそうでないとか、あなたはわたしはこう思う、というような個人の想いに正解不正解をつけられるわけがなく。

万人が巧い、素晴らしいと口をそろえる作品があるかたわらで、一部の熱狂的なファンを虜にしている作品もあります。
他の人には数ある競馬写真の一枚にすぎなかったとしても、もしも被写体が自分の好きな馬や人だったら『撮ってくれた人にお礼を言いたいくらい嬉しい!わたしにとってはこの一枚が最高!』という思いがけない出会いもあるはず。
そして、どこかの誰かにとってのそういう一枚を、もしかしたら自分が撮っているかもしれない。
もちろんこれはほんのたとえばなしで、写真でなくても絵や文かも、もしくはハンドクラフトかもしれないし、なにげない気持ちで投稿したツイートかもしれない…

ツイッターではいいね・リツイートの数で評価が可視化されてしまうぶん絶対的な指標ととらえられがちです。
数の評価というのは目に見える確かなもので、それを欲するのは作ったり表現するうえでのあたりまえの欲求なので無理もありません。
が、大多数のみんなが一番欲しいものは、評価ではなく共感なんじゃないでしょうか。
わたしの好きなものを知ってほしい、見てほしい。
自分はこのことについてこう考えてるんだけど、みなさんはどうですか。
リプライがつくと嬉しい。
いいねがつくともっと嬉しい。
リツイートされると同意してもらえたような心強い気持ちになる…
原点はそこにあると思うのです。

いわゆる“バズってる”ツイートって、大多数の人の胸のうちにあるであろう『そうそう、あるある』を簡潔明瞭かつ巧みに言いあらわした140字だったり、パッと見ただけでわかる日常の中の『あっ』という風景を切りとった画像だったり、共感を呼ぶものが多いです。
共感が共感を呼んであれよあれよという間に…というやつです。
逆にあんまり奇をてらったものは見ないような。
評価を狙って作られたものって、案外みんな無意識のうちに見抜いてるということかも(そうして狙った評価をきっちり得られる人はその道のプロです)。

いいものを作ろう、いいことを言おう、いい人でいたい。
面白いこと役立つことを言わなきゃ価値がない、飽きられる、離れられるんじゃないかしら。
ありのままをすべてさらけだす必要はないけど、こうありたい自分を演じるのは、、、
もしかしたら、人によっては楽しいのかも。
でも、ちょっと頑張ってそうしてると、いずれしんどくなってくるかも。
タイムライン上の饒舌な自分も現実世界での人見知りな自分もどっちもわたしなんだから別にいいじゃないですか。ちょっとくらい失敗しても。

物事には始まりと終わりがあります。
同様に、人には出会いと別れがあります。私はどちらも卒業ととらえてるのですが。
ツイッターそのものだったり、つながっていたあの人だったり、ずっと取り組んでいた趣味だったり、愛でつづけた作品だったり。
人間は前へ進んだり後ろを振り返ったりしながら考え方や感じ方が変わっていくものです。
ずっと同じ人が神様じゃなくていい。
自分の中に実在する神様を据えると、なにかあったとき、気持ちが揺らいだときにしんどいです。
ずっと同じものを同じ熱量で好きでいるのはとても難しい。
どんな生き物もずっと全速力で走りつづけることはできません。
そうして愛していたものや考えかたが今までとはちょっと変わってしまったなと自覚したとき、『嫌いじゃないけど、いったんさようなら』と誰か何かから距離を置くことは、決して拒絶や嫌悪からくる後ろ向きな別れではないはずです。
自分もいつかどこかでしているし、されているかもしれない。
最初から価値観を大きくたがえた相手とならなおさらのこと。
いつかどこかでタイミングが合ったときに、情熱がよみがえったときに、想いが通じたときに、縁があればまた結びなおせばいいじゃないですか。
幸運にも相手が同じ気持ちでいてくれたなら。
でなくでも思い出は確かに心の中にあり続けるのですから。

私事ではありますが、ツイッターに流れ着いてはや7年がすぎました。
趣味である競馬に紐づけて言いたいことを言うために軽い気持ちでアカウントをとったのが、時を経て今ではそれ以上の意味合いを担う場となっています。
人との関係や好きなものと向き合う姿勢について考えたり、なんだかとてもいろいろあった気がするのですが、この空間の中での悩みって数年前も今も老いも若きもだいたい共通してるんじゃないかなぁと感じています。
ゆるいつながりのSNSとはいえ根本は人と人とのかかわりなのだから、コミュニケーションツールとして以上の取扱説明書なんてないのです。
でも、人は人の気持ちを察して思いやることができます。
他者とのかかわりを通して自分を大切にすることもできます。
この頃はさすがにそのへんのやりかた、割り切りかたがちょっと分かってきた気がするので、ツイッターはじめたてであれこれ悩んでいた自分がどこかの誰かに言って欲しかったであろうことを暫定のベストアンサーとして挙げてみました。備忘録として。