うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

なまえと、ことば

ツイッターを離れて、実はちょっとだけ他のSNSに立ち寄っている時期があった。
だけど匿名性をいいことに、共感を得たいがために強い言葉でつぶやいてしまったり、そのとき感じている気持ちを雑な言葉で発するたびに心が荒んでいくようだった。
なにかを言うときには、名前が要ると思う。賛同や共感も言葉であらわしたほうがいい。
どこの誰かわからないままになにかを言って、やっぱりどこの誰かわからない相手からなんらかの記号を受けとったところで、心がちゃんと満たされるはずがないのだ。
アプリはすぐにアンインストールした。そしてまた、しずかな時間が戻ってきた。

 

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世界を閉じて、自由になる

このまま「いない人」でいいか、と思う。
ツイッターはもう終わりだ、とも思う。

タイムラインをほとんど見なくなった。
おすすめと広告の押しつけがましさが、もはやストレスにしかならないから。
どこかの誰かのむきだしの感情にあてられたり、手の届かぬ場所で起こっている出来事に憤ったり傷ついたり。
目に飛び込んでくるそういうものに触れては心をすり減らすことに疲れはてて、世界とつながりつづける意味を見出せなくなった。
ちゃんと読むのは非公開リストに入れたフォロワーさんのツイートと、スポーツのアカウントくらい。
そうしているうちに自分自身がつぶやきたいこと、つぶやくようなことがなくなっていった。
なんにもつぶやいていないから、気になったツイートがあっても、いいねもリプライもなんとなくしないでいる。
いなくてもよくなった。
不思議だ。わたしのもうひとつの世界だったのに。もうひとつの居場所だったのに。
不思議だけれど、いまのわたしにはむしろ自然なんだろう。
前までは、いないと心もとなかった。それこそが不自然だったんだろう。

SNSを離れて、毎日ただ働いて暮らしている。
ほんとうにそれだけなのに、前よりも「生きてる」感じがしている。
息をするように何かをつぶやいていたときよりも確かに。
ずっと自分は何者にもなれなかった、ふつうの人生も歩めなかった、わたしにはなんにもないと感じつづけていた。
SNSの中では「何かを言える、何者か」になれそうで、なろうとして、やっぱりなれなかった。
そんないま、しみじみと実感する。
もうひとつの世界を閉じてみたら、もうひとりの自分から自由になったと。
もうひとりのわたしは、過去の自分だ。そして理想のわたしだった。
行動的で、尽きぬ愛と情熱があって、好きなものが好きでたまらなくて、その想いを誰かと分かちあったり人に伝えたりしたかった。
たとえほんの少しのあいだでも、そんな自分になれていたことが嬉しかった。
だけど、どこかのタイミングでいったん素の自分になりたかった。なるべくしてなったんだと思う。

自由だ。ひとりだ。とても静かだ。
仕事と暮らしがある。家族がいる。現実の世界もいろんなことがあってそれなりに賑やかだ。
いまはそれで充分。
生きるために力を使う。身のまわりのものにこそ心を配る。手の届く範囲の世界と向きあう。
そうしているうちにいずれまたやってくるかもしれない。閉じているもうひとつの世界をふたたび開くときが。
きても、こなくても、それはそれで。

いちばん、ちょうどいい「好き」

ここ数年のあいだで、野球も自転車もますます好きになった。
だけどいまは前みたいに深くかかわろうとか、くわしく知っていこうとはしていない。
観ていて気になったことをそのつど調べたりはするし、それなりに好きな選手がいたり、いいなと思うチームもあったりする。
でも昔みたいにファンを自称しなくなった。つぶやいたり書いたりもあんまりしていない。
好きなものはただ好きとだけ想っていたい。
そんなことを思いながら、何かにのめり込むのをしばらくお休み中だ。

踏み込みすぎると知りすぎてしまう。知りすぎると何かしら嫌な部分も見えてくる。見えてくると多少なりとも幻滅してしまう。
スポーツの裏舞台って大なり小なりいろいろある。できれば知りたくなかった、見たくなかったものたちが。
それも含めての真実なんだろうけど、なんとなく好きで楽しいなと感じているものたちと、真実の深淵が見えるところまで真っ正面から向きあわなくても別にいいんじゃないかなと近ごろは思うようになった。
なんとなく好きで楽しいな、と感じるところらへんが、たぶんいちばんちょうどいい。
それ以上進めばもっとディープなおもしろさを味わえるのは知っている。だけどそれは諸刃の剣でもある。
好きなものが楽しくなくなるのは、いつだって深みにはまって知りすぎたときだ。もはや自分と趣味とを切り離せなくなったときだ。
競馬とは深くかかわりすぎて、多くを知りすぎて、出会ったころのように「なんとなく好きで楽しいな」という気持ちにはもう戻れなくなってしまった。
後悔はしていない。まちがったとも思っていない。幸せな年月だった。
愛しつづけるために距離を置いただけ。

何が正解なんだろう?
どうつきあえばいいんだろう?
好きなものたちと。好きだという気持ちと。
深いのが誠実なのか、浅いのは軽薄なのか。そんなこと、いつ誰が決めたんだろう。
趣味だからさ。義務じゃないからさ。
楽しくて、好きでいられて、苦しくないのがいちばんいいに決まっている。
ちょうどいい距離感は人によってちがう。そのときの暮らしや心のありようによっても変わってくる。
いまの生活に追われ暮らしに疲れたわたしは好きなものをなんとなく好きなだけでとどめているけれど、いつか気力と余裕が戻ってきたらふたたび競馬場へ通っているかもしれない。
甲子園でメガホンを振っているかもしれないし、自らスポーツバイクに乗っているかもしれない。
未来のことはいつも何もわからない。いまのことしかわからない。
せめて、いまがわからなくならないように。
いま、いちばん好きで楽しいように、素の気持ちでありたい。

生きてるから、上出来

いろんなものをあきらめているうちに、したいことがなくなって、なんにもほしくなくなってしまった。
いっぱいあるはずなんだけど、「まあいっか、いまはそれは。いまじゃなきゃ死ぬわけじゃないし。またそのうちにね」って感じになっている。
あきらめ癖がついてしまった。どうしても、という気持ちがいまはない。
旅行とか、新しい服や靴とか、行ってみたい場所とか、そういうキラキラしたものたちはあらかた遠ざかっていった。

そんなこんなで、ただただ仕事へ行って、家のことをする日々。
ツイッターはもう一週間ほどつぶやいていない。じっくりとタイムラインを追わなくなった。ひとごとのように流れていくだけ。
いまは自分の暮らしだけで精いっぱいで、他者の事情に触れたり、広い世界の出来事を心に感じたり、なにかに想いを馳せるだけの余裕がないからしょうがない。
インスタで好きなスポーツ選手やチームやショップのアカウントをざっと流し見るくらい。
しずかなインターネットで気がねない日記を気分よく書くくらい。
あとはアプリでちょっとずつ漫画を読んでいる。
きょうを無事に生き延びた自分自身をねぎらうために、コーヒーを淹れておやつを食べる。
夜食は悪習だけど、これがないともたない。あすを生き延びるために必要なこと。
どうにかこうにか、毎日が過ぎていく。

 

 

母との四十余年を想う

わたしは母が怖かった。ずっと。
とても愛しているけど、人間同士としてはどうも合わない。価値観が違いすぎる。そのことがふたりの関係性を難しくし、わたしを苦しめつづけた。
だけどがっかりされたくなかった。心配をかけたくなかった。喜んでほしかった。
結婚をして子を産んでみせられなかったこと、親孝行ができなかったことを、ずっと負い目に感じながら生きていくんだろう。
たとえわたし自身がそれを望まなかったのだとしても。母がはじめから赦してくれているのがわかっていたとしても。
母はわたしの最大の愛であり、呪いでもあるのだと思う。
なおこの「呪い」にネガティブな意味はない。
呪縛に近いのかな。でも縛られてるとはまったく思っていないからそれもちょっと違う。
「絆し」がしっくりくるかな。家族って、「絆」というよりそっちに近い。
だからほんとうは離れたほうがいいのかもしれないけれど、それもままならない今なので。
どこかでもう一度家から離れてひとりになる、という道を選んでもいいのかもしれない。
いずれは戻ってきて、最後まで一緒にいるのだから。
わたしはわたしのためにもう一度、ちゃんとひとりになりたいと思う。いつかどこかで。
そのために自分と向き合って、力をつけていきたい。
そうすれば母もいくらか安心するだろう。