うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

捨てて消して、忘れていくのもアリになった

次の回収日に、プレイステーションを処分する。
もう十年近く遊んでいなかったから。
いまとこれからのわたしに、こつこつとバトルパートを積み重ねながらRPGをクリアするだけの心の体力はない。
青春時代に夢中になってやり込んだロマサガ3のアプリ版さえも挫折したんだもの、テレビにつなぐタイプのゲームは言わずもがな。
遊んできたゲームタイトルはずっと好きで愛している。だけど昔のようには取り組めなくなった。

Kindleライブラリからいくつかの本を完全に削除した。
それらが棚にあってサムネイルが目に入るたび気を重くする必要はないのかな、とようやく割りきれたから。
買ってはみたものの好きではなかった本、持っていることがなんとなくしんどい本、価値観が合わなくなっていった本。
もういいかな、と自然に思えた。本との別れも人とのそれと同じこと。
データと一緒に記録と記憶も無理やりに消してしまうみたいだ。だけどそうしてでも忘れたいことだってある。
気に入った本は紙で買いなおして、ぼちぼち紙に回帰していくつもり。

わたしの半生の区切りとして、最後に、ワープロを廃品回収に出すことにした。
高校生のときにバイト代をためて買って十数年もの間たくさんの小説を書いてきたかつての相棒に、もう十年近く触っていなかった。
文章は落ち着いて座ってキーボードで、というスタイルでしか書けなかったのにスマートフォンを持つことに慣れてからは場所もこだわりもなくなったから。
何百もの創作物がおさまっているはずのフロッピーディスクも一緒に処分する。バックアップはとらない(そもそも昔のワープロだから、とれるタイプじゃない)。プリントアウトもしない。
わたしが創ったものたちは、ただ人知れず消えていく。
躊躇しなくもないけれど、もうブログ以外の文章を書いたり、なにかに萌えて創作活動を再開することもないだろう。
ワープロにかわってポメラをと何度か考えたものの、持ちものと出費につりあうほどのものを創りだすことも、日常的に使い込むこともなさそうだから、たぶんこの先も手に入れない。
ものを書く道具は手のひらにおさまるくらいで充分だ。スマホだけを持って、自分を満たして、ささやかにやっていく。

わたしはずっとなにかを残したかった。文章を書く人間のさがとして。
覚えていることを忘れたくなかった。ぜんぶ、なにもかも、覚えていたかった。なにかにハマるオタクの習性として。
人に忘れられるのが怖かった。書いたものと好きなものでつながった人たちに認められ、わかりあえる幸せを知ったから。
だけど近ごろはこう思うのだ。なにかを残したり人に見せなくたって、なにを好きでいたのかは自分自身が覚えていればいいし、その自分が忘れてしまうのならば忘れていけばいい。誰かに忘れられてもかまわない。だって、わたしもちょっとずつ誰かなにかを忘れていく。

執着を手放して自由に生きていく。気負わずに暮らしていく。
持てるだけ、覚えていられるだけ、かかわれるだけ。
そんな生きかたが、四十代のいまとこれからのわたしにはアリになった。