うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

ブログのジャンルは「自分」です

最近楽しいことを書けてないなあと思う。
きのう書いたように、暮らしがうまくいっていないから当然だ。
これでもまだ書く気力が戻ってきたからマシなほう。
ところで「みんな」が思い浮かべる「楽しいブログの記事」ってどんなんだろう。
「推しが尊い」とか旅行記とか。観戦記とか。
おいしいものを食べたとか、こういう本を読んだ、ドラマ映画を観たとか。
何かに挑戦してみたとか。
目に見える体験をつづったものがほとんどな気がする。
そう、楽しいことはみんな書くのだ。読むし、読まれるのだ。
四十路女が人生に迷い生きることに苦しむさまを、はたして誰が読みたいだろうか?
なんてことも一応考えたりはするのだ。
でも人間がエンタメではないように、ブログだってべつにエンタメではない。
ブログはあくまで個人のもので、なんでも自由に書いていい。
他者からみて面白かったり、役に立たねばならないわけじゃない。
そう感じるのなら、それはもう「仕事」だ。なんでも義務が生まれると億劫になる。
だから「自由に書く」ことが難しいのかもしれない。このご時世では。
長く書いてると「やっぱエンタメ的な内容を求められてるわ〜」「いや、そもそも個人のブログなんて誰にも求められてない」「たまたま目の前に転がってて、それが興味ありそうな内容っぽかったらリンクを開いてみるくらいの軽いもの」「ただし時間や気持ちに余裕のあるときに限る」「ブログは読まれない。それ以上に書き手がめちゃくちゃ減った」
ということがわかってくる。
わたしは誰のためでもなく、どうしようもない自分自身をなんとかするために暮らしや心のことを書きつづけているけど、近頃これは「記録と記憶」だと考えるようになった。
こういう人間もいるんだというメモ。
エンタメ的な「楽しい」だけでは残らない人間の記憶。
誰に伝えるとかどこに残すとか、そういう大げさなものではないけど、少なくとも誰かが読んで、ここには残る。
コロナ禍のことだったり、ままならない人生のことだったり、歳をとっていきながら感じることだったり。
楽しい内容ではないけど、これだって体験で変化だ。
心は目に見えない。伝えなければ誰にも伝わらないし、自分が消えれば誰も知らないまま消えていく。
心を書いて目に見えるようにしている。
なんのために。自分のために。
誰のために。自分のために。
自分のために書く。生きていくために書く。
きのう読んだ漫画の中に「あなたって自分ばっかりだから」みたいなセリフがあって、わたしも自分ばっかりだから「そうだったのか。そうですね」と思わず相槌を打った。
自分でいっぱいだ。このブログは。
なにもうまくいってないから。もともとこういう人間だから。わたしの場所だから。
だから書くことは尽きない。生きてる限り書きつづけるだろう。
テーマ自分、ジャンル自分だ。それでいいのだ。
あわよくばそのうち、元々のブログというもののコンセプトだった「自由に書く」人が増えればいいな、なんて思っている。
「楽しい」もいいけど、わたしは人の心や人生の話が読みたい。
どこかの誰かの、あるいは縁のあった人の思い感じることを訊きたい。
それは個人ブログでこそ可能だと強く思うのだ。

淋しいが、それも人生

「生きるのしんどい期」がやってきた。また。
ただ体のみ生きてるだけみたいになってるのに、その体はすこぶる元気だ。
この健康な体のおかげで病まないのかもしれない。われながら生きる力が強すぎる。
相変わらず心のほうはいろんなことを考えて忙しいというのに。
暮らしがうまくいってないと余裕がなくなってきて、物事を楽しむ力がなくなっていく。
好きなことへの関心も薄れて、ほんとうに今は暮らしてるだけ。
まあそんなときもある。それが人生。
だけど、競馬がいちばんの関心事でなくなってしまったことが、このごろ無性に淋しい。
若さや情熱みたいなキラキラしたものが、どんどん人生とか暮らしの中に埋もれてゆきつつある。
それでもいいのだ。心にあるならば。
自分や世界が変われば愛のかたちも変わる。

…というのはくりかえし言ってきたことだけど、じゃあ今は何がいちばんなのかと言われれば、「特にはないです」としか言いようがない。無趣味の状態。
漫画は読む。本も読む。大河ドラマも観る。野球もワールドカップも。
観たいものがない晩は弟の趣味のロードレース番組を観ながら食卓を囲んだりする。
知らなかった。自転車があんなにも速く走れること。外国の海や山や街並みが美しいこと。世界各国でいろんなレースがあること。複雑なルール。
新しいことを知れるのは楽しい。わたしは「知らないことを知っていく」過程が好きだ。
競馬もそうだったなぁ。面白くてたまらなかった。
知らないことのほうがまだまだ多いのに、わたしの情熱は心の中にいったん埋もれていってしまった。

今いちばんの関心事は、暮らしだ。生活。生きていくこと。
母とのこれからの暮らしのこと。
弟とそのパートナーのこと。
施設にいる、感染症対策で面会できなくなって久しい祖母のこと。
田舎のこと。親戚のこと。
そして、自分自身のこと。
わたしは仕事がうまくいっていない。やっぱり今も。
相変わらず組織に入り人と関わることがうまくできないままでいる。働くのは好きなのに、会社という場所が苦痛だ。
何度も失敗をくりかえしてきたから、自分には何ができるのか、どうやって生きていけばいいのかわからなくなってしまった。
それでも「食っていく」ために勤め人をやっている。やるしかない。働かないという選択肢はない。
それですり減っていく。いつもしんどい。生きていくことそのものが。
綱渡り状態で平穏な未来が見えない。
だからツイッターをあんまり見なくなった。
「みんなキラキラして楽しそうなのに、みんなちゃんとしてるのに、わたしはなんなん」って落ち込むから。
でもこの「みんな」「ちゃんと」ってなんなんだろうねえ。
見せないだけで誰にでもしんどさはある。人生は悩みや苦しみとの共生だ。
もう人をうらやむのはやめた。人を傷つけたから。
比べることもやめよう。つらくなるだけだから。
でもまだ自分で自分をよしとは思えないでいる。
前までは、そんな自分を誰かに赦してほしかったのかもしれない。
でもこれは自分自身で心に折り合いをつけるしかないから、「淋しいけど仕方ないねえ」「生きてるから生きなきゃねえ」と、何とか言い聞かせている。毎日。
希死念慮はないのが幸い。ただしんどいだけで、生きる気は満々だ。

漫画でもドラマでもスポーツでも、「新しいもの」に触れていると「もっと知りたい」と思う。
それがわたしの人生のテーマのひとつなのかもしれない。
「生きることは知ること」か。
その想いがもう少し人間に向いていたら、ちょっとは生きやすかったのかもしれない。
でもわたしはこうなのだ。
今の暮らしは煮詰まってきているから何かを変えたほうがいいのだろう。マンネリってやつだ。
たとえば新しいことをはじめてみるとか。味変ってやつだ。
そのための意欲と気力が暮らしというものに侵食されて、今は出せないんだけどね。
でもあきらめたくない。自分をあきらめるのをあきらめて、今より楽でいられる道を探そうと思う。

 

 

くもりどめレンズ、しっかり一年もちました

 

もちました。はい。一年。
昨年の今ごろにJINSで作ったメガネは、今もスタメンで活躍中。ていねいに扱えばもう一年くらいもつみたいです。
ちょっと傷がついたのと、加工がとれてきて多少くもる瞬間はあるものの、あんまり気にならない程度。
これはマスクつけて息をするのに慣れたっていうのもあると思う。
(まさか一年経ってもまだマスクがとれないなんて、このメガネを作った時には夢にも思わなかった)
特殊な加工をしていて傷みやすい=手入れに慣れた。
光がダイレクトに反射する=目が慣れた。
ふつうのメガネに比べて扱いづらい点は、一年も愛用してたら慣れます。何事も慣れ。
くもらないメリットが扱いづらさをはるかに凌駕する。
もう、くもるメガネかけたくない。
というわけでメガネ福袋を買って、年明けにもう一本新調する予定。
6600円出せば9900円分のメガネ券がもらえる、神のごとくありがたき福袋ですよ。
ちなみにもうちょっとで期間終了するんですが、くもりどめレンズ割引キャンペーンを15日までやってるみたいです。JINSで。
(メガネ福袋はZoffでも売ってて、同額で8800円だったかな。リサ・ラーソンのブランケットと卓上カレンダーがノベルティになってるようです。
Zoffのくもりどめレンズは3300円。そっちにもちょっと惹かれてたりする。今のJINSの5500円のと使い心地を比較してみたい)
新しいメガネ、なぜか仕事用と自宅用を両方ともメタルフレームにしてしまったから次はセルフレームのカジュアルでやわらかい雰囲気にしたいなぁ。
メガネは顔の印象を決めるから大事よ。
まあわたしメガネ似合わないんですが。似合わないけど好きなんです。

 

www.jins.com

www.zoff.co.jp

 

 

こいばなばっかりだなぁ

テーマは面白そうなのに、どうやらメインキャラの関係性が恋愛に変わるっぽいから触ってない漫画映画ドラマがかなりある。
人間の交流が見たいのに、どうして人間がふたり以上集ったら必ずといっていいほど恋愛をさせたがるんだろう。
最近は同性同士でも多いから油断ならない。
友情や信頼で物語を紡ぐのではだめなのか?

たとえば「作りたい女と食べたい女」、前々から原作が気になってたんだけど、どうやら二人の仲が進展するようだとドラマ化情報の中から知ってしまっていつもの癖で手を引っ込めてしまった。
そうか。これも恋愛の話なんだ。これもか。
食がテーマの物語ってわりと好きで、食の物語こそ恋愛抜きにして語れる最強の題材だと思うだけに、個人的には「え〜、恋愛するのか〜、そっか〜…」って意外に感じるところ。
いや、食わず嫌い良くないんだろうけど。食だけに。
う〜ん、わからない、そのうち手に取るかもしれないし、やっぱり避けたまんまかもしれない。気にはなってる。

最上級の「ありがとう」

帰路につきながらその報せをきいた。
そのときはまだ気を張っていたのもあり「そうか、そうなのか、それはそうだ」といったん受け止めた。
無事に帰宅して、もう一度確認して。
旅先でレースを観たこと。
悔いはないけど競馬場へは行かなかったのだなぁとしみじみ思ったこと。
完走を見届けて、ああきょうも無事だったという想い。
逃げなかった、離された17着だったなぁという現実。
すべてを思い返しているうちに涙が出てきたのだった。
わたしまだ競馬で泣けるんだ、という驚きだったり、
10歳のおわりまで走ったんだものね、というねぎらいの気持ち、
いろんなものがないまぜになって、少しのあいだそうしていた。
何分間か泣いた。
ベステンダンク号とのつきあいは長く、よく競馬場へ応援しに行った。
わたしがしんどいときにがんばってくれた、みたいな言いかたはアレなんだけど、
落ち込んでるときに障害レースに転向して健闘してくれたり、G1への出走が叶ったり、
大逃げを打って4着に粘ったマイラーズカップを観に行ったときは公私ともどん底にいた。
そういうとき、わたしは彼を応援しに行っているようで、わたしが彼に応援されに来ているんだと感じた。
そんなことが幾度となくあった。
競馬って、人生に似ている。
いいときよりも、そうでないときのほうが圧倒的に多い。
でも前を見て走らなければならない。
だからこそ、そこに「応援」がハマるのだ。響くのだ。
自分がするのか、されるのか。どっちでもよかったのかもしれない。
ベステンダンク号は本日のマイルチャンピオンシップをもって現役競走馬を引退すると発表された。
長かった夢がついに終わる。
彼にかける言葉はひとつしかない。
ベステンダンク、最上級の「ありがとう」。