うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

恋の話はしんどい

おひとり様物語が完結した。
一気にぜんぶ読んだ。
昔コミックス集めてたけど、途中で読むのをやめた。
しんどくなって手放したのだ。
おひとり様物語、ひとりを肯定する前向きでやさしい漫画ではあるんだけど、その過程に「恋愛しろ!つがいになれ!結婚しろ!それが女の幸せ!」っていう友人家族同僚からの圧の描写がけっこうあるので、あたたかさと一緒にしんどさも同じくらい蓄積していく。
ひとりである主人公が物語の中で出会う男性、すでに知り合っていた男性、もしくはパートナーへの想いが短いストーリーの中で変化していく。
そこで描かれているのってなんだかんだいって恋愛感情がベースになってるから、「ああ、やっぱり、恋愛っていいもんですね」と言われてる気がして、そのへんのしんどさはいま読んでみても変わらなかった。
それができない、必要ない、興味ない、恋がなくても幸せでいたい気持ちっていうのはあんまり描かれてないなあと感じる。
おひとり様と銘打ってるけど、これがササるのは、恋を知り愛を知りそばに人を必要としている人だ。前提として誰かと一緒だったり、振られて別れたりしてる人たちの物語だしね。
とてもいい漫画だと思う。
でも、わたしはやっぱりまだ恋の話がしんどかった。

最終回近くの「自分で選んで考えて楽しくやってくれてるからいいんです。自慢の孝行娘です」とお母さんが娘の生き方を認めてくれてた話がいちばん好き。

迷いが救い

だがまだ救いはある。
お前の顔は悩んでいる顔だ。
己の生き方に迷いがある。
その迷いが救いなのさ。
悪い顔だがいい顔だ。

運慶のこの言葉を聴けただけでも鎌倉殿を観た価値があった。
迷わないこと、迷いを脱することがよしとされる昨今、迷いそのものを肯定される機会ってそんなにない。
ましてや自分は迷いのまっただなかにあるわけだから、なおさら認められない。
そんなときにスッと耳に入ってきたものだから、「あ、迷っててもいいんだ」と目鼻の奥がツーンとした。
ここの小四郎とのやりとりを何度も再生した。
誰も彼も、人間は迷いながら生きる。
生きるのがつらいから迷うのか、迷うから生きるのがつらいのか。
どっちもあるなぁ。でも生きてるから生きる。投げ出したくて、しんどいけど。

再読「戦争は女の顔をしていない」

ずっとこの本にとらわれつづけてきた。
もう忘れることも、読まなかったことにすることも、逃げることもできない。
だから真っ向から立ち向かい、受け入れたい。
ちゃんとした感想を書こうと思ったんだけど、うまくまとまる気がしない。
あらためて強く思い感じたことを箇条書きにて。

コミカライズでなく原作を読んでいる。
前はあまりにつらすぎて猛スピードで読み流した。
二度目の今回はしっかりと。
どうしようもない怒りが吹きあがってくる。この気持ちをどうしたらいいだろう。
なるべく怒りたくないと思いながら生きてるのに。
でもこの怒りの感情は、抱かなければならない大事なものだ。

戦場では女は誰かの現地妻でいるしかなかった、という話がことさらにしんどい。
百万人規模で従軍してても女が戦中戦後それぞれに偏見の目を向けられるってどういうことなんだ。
これは理解できない。納得もできない。頭でなく心が。
わたしが女だからか。いたたまれない。耐えられない。
戦友だった男たちは戦中、女たちを庇い守ってくれた。妹のように、友のように。恋人のように。
でも戦後、女たちを伴侶にはしなかった。そうなってもすぐに捨ててしまったり。
彼らも戦争を忘れたかったのだ。傷ついていたのだ。それをどうして責められよう。
誰も悪くない。でも女からすれば理不尽でしかない。
男たちの挙動以上に、祖国のために戦い生き延びて帰ってきた彼女たちを貶めたのが同じ女たちだった、というのがいちばんこたえる。
非難するのはいつも、何も知らない人だ。

「生理」に代表されるが、性は生だ。
望んで変えることも、失うこともできない。
男と女は違う性で生きている。だから分かりあえない。
それでも女たちは、恋が自分を救ってくれたと概ねみんな言っている。
恋をしたから生きていられたと。
そうなのかな? ほとんどが報われなかったのに?
また想像がつかない感情だ。でもそうなんだろう。

ロシア人は近しい身内がみんなあの戦争を体験してるから、一部「ああなって」しまうひとがいるのもなんとなく想像できなくもない。
もちろんみんながみんなじゃない。国や人を一括りにすべきでない。すべてをわかることはできない。
でも知ることで、かろうじて想像はできる。これは大事なことだと思うのだ。

実は一時期、コミカライズで「ぜんぶ読みましたよ!」ということにしていた。
でもこれはぜひ両方を読むべき。読める人はみんな読んでほしい。
あらためて原作をしっかり読んでみて、コミカライズの人がものすごく丁寧に原作と向き合っていることがよくわかった。言葉のひとつひとつを大事にしている。
(これもうコミカライズした人は残りの人生を戦争にとられたようなものでしょ…)(と思ったけど、本人はわりと他の仕事だったり漫画なんかも楽しんでいるようで安心した。ひとつのことにとらわれず、切り替えられることも才能なんだろう)
だからコミカライズだけでも読んで、という気持ち。読める人は。
もう読んでくれとしか言えない。感想とか解説とか、何かを付け足して語るとか、余計すぎて。
それなのに何かがこみあげて、何かを言わずにはいられない。そんな本。

「ボタン穴から見た戦争」も併せて読んだ。
「子どもが見た戦争」というさらに重いテーマゆえずっと読めずにいた本。
予期したとおり、より凄惨な内容だった。
あまりに死が隣り合わせすぎる。その中で誰もが人間としての何かを失っていく。
戦争でトラウマを抱えた子どもはものすごいスピードで大人になるとともに、心の奥底に「あのとき傷ついた子ども」をずっと住まわせている。
こんなふうに人間の心を壊す戦争はほんとうにだめだ。はじめてはいけない。
月並みだけどそんなことをずっと思いながら読んだ。

二冊を読み終えて、人間に必要なのは想像力だと確信する。
想像力が時として欠けたり薄れたりしてしまうから、差別や争いが起こる。
よくわからないことが恐ろしいから、排除や否定が起こってしまうのだ。
これは現代社会にも通じること。
まさに今、歴史が繰り返されてしまった。
耐えられない怒り、悲しみ、むなしさ。
傷ついた大人が、子どもが、男性が、女性がまた生み出されつづけている。

わたしに何ができるだろう。
怒り、悲しむ以外の何ができるだろう。
知ることと、想像する以外の何ができるだろう。

 

 

 

 

 

いよいよだめかもしれない

感じすぎる、という生きづらさを抱えながら生きていくことに限界を覚えてて、わりともうだめかもしれない。
病気じゃないなら何に頼ればいいんだろう。
性質の問題だから自分自身の問題。
でも感じかたを簡単に変えられるわけでもない。
ただ、同じ場所からちょっと抜け出すためのヒントがほしい。
今こそ他者の客観的な視点が要るような気がするけど、その助けをどこに誰に求めたら。
少なくとも近しい家族や友人じゃない。
持って生まれたものだから、ずっと生きるのしんどいと思いながら生きていかなきゃならないのかな。しんどいな。先がないな。なんにも見えないな。

 

 

カメラを持って競馬場へ 手放して拾う

いきなりタイトルに反するのだけど、競馬場へは行けていない。
夏競馬でローカル開催に移ったのもあるし、これまでの情熱が落ち着いたのもある。
わたしはこの夏、カメラを手放した。
カメラというのは、ここでは一眼レフのほうを指す。
以前のようにコンパクトデジカメで撮る人に戻ったというわけ。

きっかけは、競馬場観戦ルールの書き換えに端を発した騒動をみて。
私的な撮影にSNSへの投稿が含まれるのか否か。それは迷惑行為になるのか。禁止事項にあたるのかどうか。
競馬場で撮った人馬や風景写真をSNSに掲載する是非がファンのあいだでにわかに議論となったのだった。
結果としてそれらは今までどおりお咎めなしとなった。収益目的の動画撮影などを取り締まりたかったらしい。
「はあ〜、よかったな〜」と安堵するとともに残る違和感。
このちょっとした事件は、わたしの中にずっとあった「あやふや」と「ごまかし」をはっきり可視化することとなった。

わたしは好きな人馬を応援している。
その一環として競馬場で写真を撮らせてもらっている。
撮りためた写真はときどき手紙と一緒に送ったりする。
そのためといっても過言ではないのだけど、いちばんの動機はわたし自身が手元に思い出を残したいからだ。
いつも言っているけれど、人は忘れる生き物だ。いいこともそうでないことも。だから生きていける。
記憶は脆い。脳内補正を受けて変質していくし、すり減ってもいく。
わたしの思い出は、わたし自身がなくなるか忘れるかしたら消えてしまう。
せめてわたし自身があるうちは忘れたくない。覚えておきたい。
写真があればかたちあるものとして残しておける。
手がかりとして思い出を辿れるし、懐かしむこともできる。
そのためにカメラが必要だった。

できるかぎり鮮明な写真を。質の良い写真を。
もっと綺麗に。美しく。この目でとらえたままの姿を。
ありのままの彼らの姿をおさめたい。
そう思ったのは、ほんとうに彼らのためだったか。
わたしはSNSにも競馬の写真を掲載するようになっていた。
愛する彼らの勇姿をひとりでも多くの人に見てもらいたかった。知ってほしかった。一緒に応援したかった。
その役割をSNSはおおいに果たしてくれた。
でも、はたして彼ら自身はそう望んだだろうか。
いつだって彼らはひたむきに走り、取り組むだけだ。
にもかかわらず、わたしが撮った彼らは、わたしのファインダー越しに誰かの目に触れる。
だからこれは自己満足だ。
でもフェアじゃない。グレーだ。ただ咎められていないだけ。
思い出が欲しければ撮って眺めるだけでいい。
想いを分かち合える人とだけやりとりすればいい。
それでもSNSにあげるのは、他意があったからではないか。
見てほしい。知ってほしい。一緒に応援したい。それは欲でもあった。
わたしと彼ら以外の他者を介在させた応援は、いつしかわたしの言葉や撮る技術の拙さを痛感することと隣りあわせになっていった。
わたしにはセンスがなかった。技術がなかった。
でも、だから、もっと、うまくなければ。
そう望んだのはわたしだったか、他者だったか。
わたしはいつのまにか「見せるため」の写真を撮るようにもなっていた。

やがてコロナ禍となって、思うように競馬場へ行けなくなった。
現地が遠ざかり、カメラに触れる時間が減ったのと並行するように、わたし自身の情熱も落ち着いていった。
行けていたところへ行けなくなって、できていたことができなくなってふと、「ずっとがんばってきたよなぁ」とこれまでを振り返った。
好きなもののためにがんばることが楽しかった。嬉しかったし、幸せだった。
いつしか「楽しい、幸せ、嬉しい」気持ちに紐づけて、なにかをがんばることで自分を表現しようとしていた。自分というものを他者に分かってもらおうとしていたように思う。
SNSではそれが可能だった。
すべてが見える化された世界にどっぷりと浸かっているうちに、わたしはわたしの愛するものたちを「見せる」手段として使ってきたようにさえ思えてきて、なんだか急に、すべてがつらく申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまったのだった。
潮時だったのだろう。

わたしはこれからも競馬場へ行く。
コンパクトデジカメとスマホを持って、好きな人馬を撮りつづける。
ときどきはSNSにも投稿をするだろう。
思い出を残し、誰かと分かち合うために。
これだけ語っておいてなんだけど、わたしの行動そのものはとくに変わらない。
変わったのは心だ。
もうがんばらない。以前のようにはがんばれないから。休み休みやるのだ。
目的と手段をごちゃ混ぜにしない。
「見てほしい」から「見せるため」に撮るのは欲だ。
他の人の愛と意欲が同居した写真を見るのは好きだから否定はしない。むしろ支持する。
でもそれをするとわたしはしんどくなる。やめるためには大きいほうのカメラを手放さなければならなかった。
これは挫折だろうか。それとも悟りだろうか。
どちらもある。
好きなものを好きでいるために、ひとつ手放して、心を拾いなおしたのだ。

秋が近い。もうじきホームに競馬が帰ってくる。