うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

「おとなになっても」ぜんぶがうまくはいかないよ

現実にある好きなものを好きでいることにちょっと疲れてきた。
競馬とか野球とか。まあ察して。
このごろは、わたしにしては広く浅くエンタメをもりもり食べて暮らしている。
ドラマとかアニメとか漫画とか。

志村貴子の「おとなになっても」を読みはじめた。
アプリで毎日一話ずつ。ようやく8話まで進んだ。
志村貴子といえば「こいいじ」をぜんぶ読んだものの、どうにも合わなかったみたいで。
あそこまでひとりの人間に執着する気持ちも、まめが恋い慕う聡ちゃんの魅力もよくわからずじまいだったからかな。
聡ちゃんは最終的にまめを選んだけど、それだって春さんありきの感情でしょ?と思ったら、結局ひとりの女性として見てもらえないまめがかわいそうとさえ感じた。まめがいい子だからなおさら。
けど感じ方なんてひとそれぞれだから。
まあ「こいいじ」が自分には合わなかっただけでしょう。

そうそう、「おとなになっても」。
わたしには百合がわからぬ。創作でもリアルでも。
拒絶も否定もしないけど、ただわからない。
わたしは女性で、男性が好きだ。好きな相手があらわれないだけで、恋愛感情は解するし性的欲求もある。
だから女性が女性を好きになる感覚は、たぶん一生つかめない。
だからこそ「お話」としてスッと読めるのかもしれない。

志村貴子、人間のいやな部分をサラッと描くのがうますぎる。
綾乃は自分に正直すぎるまじめクズだ。そのうえ魔性の天然人たらしときたもんだ。
今風にいうと「おもしれー女」になるのかな。正直苦手なタイプだ。まだ朱里のほうが理解できる。
朱里はキリッとしてるようでいて純真で、くそまじめなのは綾乃とおなじで、それゆえ綾乃にふりまわされる。
「そもそも二股するヤツだもん。誠実なワケないよね」
に尽きるのだけど、この朱里の言葉を受けて綾乃は「ごめんなさい不誠実で」と懺悔し、「誠実」になろうとする。
なんでそうなるねん。そうはならんやろ。
おとなならもっと穏便にやるやろ。でもこの人はそれができないのだ。

綾乃の夫、渉とその家族もいやなやつばっかりだ。
妙にリアルでいやなやつらである。
でもまあリアルなんて、家族なんてそんなもんだ。
誰にだって、なにかしらいやな部分があるもんだ。
突然押しかけてきて「子どもは諦めちゃったの?」となんの悪気もなく訊いてくるお姑さん。
「気になっている人」とキスをしましたという妻のカミングアウトを、「それくらいのこと」と言ってしまう夫。
そうなのだ。「ふつうのひと」はセックスの有無で不貞をジャッジする。法律でもそうなってる。
だからキスは「それだけ」で「それくらいのこと」なんだと。「ふつうのひと」の夫と姑にとっては。
あんなに心揺さぶられた綾乃の「浮気」は、「たった一回キスしただけ」なんですってよ。
う〜ん、しんどい。
このとらえかたと、それを相手に言っちゃう感覚に、デリカシーのなさを感じる。
いや、話の筋道上この人たちが被害者ではあるんだけどね。おかしいね。
相手が同性だろうが異性だろうが、心が移ろった時点で浮気だとわたしは思うんだけど、まあおとなには生活があるしねえ。
生活も人生も気持ちひとつで壊せるようなものでなし、だからペナルティ1くらいで勘弁しといてやるぜ、というのが夫と姑の言い分なのだ。
そんなわけで、お舅さんの入院を機に二世帯同居することになる夫妻。なんでそうなるねん。そうはならんやろ。の連続だ。

なんか必然的に無理解な家族に怒ってるみたいな文章になってるけど、だからといって綾乃の浮気を肯定してるわけでもないぞ。
綾乃は綾乃で墓へ持っていけなかったまじめクズではあるしね。
わたし個人の心情として不倫は無条件で許せないのだけど、そういう正義を問う漫画ではまったくないから、単純に「う〜わ、このひとたちどうなるねん」と思いながらのんびり読めている。
不思議とストレスなくそれができる、リアルなのに嫌気が差さない塩梅の、「お話ぢから」の強い漫画なのだと思う。
素直に面白い。

 

 

 

 

また旅がしたいから

ほんとうに天気がよかった。
さすが晴れの国、岡山。
台風が来る前に急いで出かけて正解だった。

リアルドンブラザーズだ。

サイコロきっぷの旅、二日目。
本日の予定は、パフェ食べてお土産買う。それだけ。
ホテルをチェックアウトしてすぐ倉敷に別れを告げて、岡山駅で途中下車。

 

アレキサンドリア、きらきらして宝石みたい。

みのるダイニングのぶどうパフェにした。
蒜山を擁する岡山は乳製品もおいしい。
ジャージー牛乳のアイスクリーム、カスタードクリーム、ヨーグルト。どれもおいしい。
フルーツをおいしく食べるにはパフェが最適解ね!!

 

お土産はままかりの味干しにした。
家族は海のものが好き。
ほんとはオーソドックスな酢漬けが食べたかったのだけど、お酢の食べものは人を選ぶ。
自分用にはむらすゞめと調布をお茶請けに。銘菓をバラ売りしてくれるのありがたい。
餡と求肥、おいしくないわけがない。

帰りの新幹線の中で食べた。箱で買わなかったのを後悔!

旅行のお土産は「食べるもの」と「残るもの」で考えて、だいたいいつも食べるもの重点的になる。
すぐにお腹の中に消えてしまうんだけど、それがいいのだ。また食べに行きたくなるから。
次行ったら地元本場のままかり酢漬けと、旬を過ぎてメニューが終わってしまってた白桃のパフェを食べたい。
白桃まるごとひと玉使ってるの。中にクリームが入ってるの。めちゃくちゃおいしそうだった。いつかぜったい食べたい。

 

そそくさと帰路に着く。
平日なのにわりと人がいたのは連休前だったからか。
中にはわたしと同じサイコロきっぷの人もいただろうなぁ。

駅にもあふれるマスキングテープ推し。

今回の旅、ほんとは水島あたりに宿とって工場夜景でも見に行こうかなとも思ってたんだけど、まあ駅と宿が離れてるのって元気のない時には地味にしんどいもんで。
宿に荷物置いて落ち着いたあと出かけていくのってパワーがいるよね。夜になるとなおさら。
わたしはチェックインしたあとはなるべく外へ出なくていいように計画を練る。

旅にもいくつかパターンがあって、目的ありきの旅、旅そのものを楽しむための旅、心と体を休めるための旅。
わたしの中ではざっくり三つに分かれる。
ぜったい宿に大浴場がないといやだって時もあるし、この店のあのメニュー食べる以外はノープランな時もあるし、帰省や競馬遠征みたいな「これだけのために」の旅もある。
だいたい「遠いところへ行きたい」時って日常に息がつまってて、非日常に癒しを求めてるから、今回は休息の旅。
不思議なもので、好きこのんで出かけてきたのに、帰る頃にはちょっと家が恋しくなっている。家族に早く会って話したいなって気持ちになっている。
エスカレーターで前の人が右側に立ち止まってる。「ああ帰ってきたなぁ大阪に」。ホッとする。
帰ってきたらきたで「あと一泊したかったなぁ」。名残惜しくなってくるから不思議だ。
いつだってないものねだり。人間ってそんなもの。

 

帰ってきたぞ〜

 

わたしは人間が好きだ。自分がきちっと人間をやるのが不得手なだけで。
なんとなくそんなことを思いながら、早くも次はどこへ行こうかと考えていた。
行きたいところがいっぱいある。だから、たまに旅行できるくらいがんばるっていうのはどうだろう。
人生における意気込みなんて、それくらいでいいのかもしれない。

賽を振ったので、前へ進みます

余白の時間がある。今しかない。
ずっともったいぶって寝かしてたサイコロきっぷの旅を敢行した。
密を避けて平日にひとり旅。これなら問題あるまい。
サイコロきっぷは5000円でまわす旅ガチャだ。
大阪からランダムに飛んでいける夢のきっぷだ。

www.jr-odekake.net

わたしの出目は倉敷。
実は「尾道でラーメン旅」を狙ってたんだけど、方向は同じだし、倉敷だってはじめて行く場所だ。嬉しい。
仮に何度も行ってる白浜が出たとしても、行ったことのある場所へもう一度行くのも趣深いしね。

いい日旅立ちアンビシャスジャパン

今そんなに元気がないから観光というより療養かな。
駅からそんなに離れず「観て食べて」が楽しめる旅先でよかった。
基本、初めての「観て食べて」があったら心も体も癒されるのだ。
新幹線に乗れるのも嬉しかった。駅が好き。乗り物も大好き。

 

岡山といえばフルーツ。
いちばんの目的はパフェ!!

惜しい、萌えブレだ。

くらしき桃子総本店で黄金桃のパフェを食べる。
岡山の桃、ねっとりとして、みずみずしくって、やわらかくって、甘くてジューシー。
黄金桃にはほんのちょっと渋味と酸味があるんだけど、それがアイスクリームとものすごく合う。
そうか、これが天国か。

 

食べたら、美観地区を散策。

倉敷はマスキングテープ発祥の地、なんですって。

歴史ある街並みが美しい。阿知神社にお詣りして、元紡績工場だったアイビースクエアにも立ち寄った。

百度石。登ったら見晴らしがよかった。

信じる者は救われる。

赤煉瓦。

蔦の回廊。

 

時間がきたので投宿しておやつ。

スーペリアツインしか空いてなかった。平日なのに盛況。

かわいくっておいしい。

ザ・ワンファイブガーデン倉敷」は宿泊者にもれなくアフタヌーンティーが提供される。
企業努力、すごいですね……!!
目にも舌にもおいしかったです。

www.hakatahotels.co.jp

 

いつものごとく素泊まりで予約したから、晩ごはんは持ち込み。
メインの目的が果たされたら他はわりと何でも幸せになれるもんで、コンビニでスープとおにぎりセットと氷結と、ちょっとのお菓子を選んだ。
パフェとアフタヌーンティーがもうお腹に入ってるしね。
ビジネスホテルで食べるカップ麺やコンビニご飯、妙においしくないですか。なにより遠足っぽくて楽しい。
客室の冷蔵庫の冷凍室はだいたい無いか弱いからアイスは買わなかった。読みは当たった。
で、半身浴したりのんびりしながらブログ読んだり書いたり。
きょうはセ・リーグの試合がないのが残念。
BSが映ったらパ・リーグのは観られるんだろうけど。
出先でナイターや天気予報を観るとはなしに観るのも楽しい。遠くへ来たって感じがする。

 

 

あと一日ある。
明日はモーニング兼ランチとして倉敷か岡山でパフェ食べて、お土産買ったらすぐ帰ることになっている。
サイコロきっぷの仕様で、あらかじめ往復の乗車券をおさえてるからゆるいタイムリミットつき。
桃は堪能したから今度はマスカットがいいなぁ。

ここ知ってる、野球ファンにはお馴染みの場所だ(つい撮った)

家族へのお土産は地酒とアテ。
ままかりを食べてみたい。
酢の物苦手な人がいるので、もう一品塩辛いのも探そう。

 

 

人生絶賛迷走中で、ほんとはこんなことしてる場合じゃないのかもしれないけど、「いったん違うことして頭からっぽにしなきゃ、リセットしなくちゃ」とは思いつづけてた。
今できるのなら今しようと。
現実に戻ったとき、またシャキッとしていけるように。
わたしにとってのスイッチはどうやらこのへんにある。
日常と非日常を行き来しながら、地に足をつけて生きていく。
旅は心の休息だ。

 

天才に、時代が追いつく「シャーマンキング2021」

早すぎた天才。
その名は武井宏之
シャーマンキングのリメイクをぜんぶ見終わった。
実は二十話くらいまでは見てたんだけど、途中リタイアしていた。
木刀の竜とまん太の出雲旅のちょっといい話「旅人とサービスエリアの談話」が割愛されたのを受け「ああ、やっぱり質のいいダイジェストなのね」とガッカリしてしまったのだ。
が、原作への熱き思い入れもほどよく薄れ、ところどころ記憶があいまいな状態で見てみたら案外悪くないと思えたから不思議だ。
評価を邪魔するのは、思い出の美化と強い思い込みなのかもしれない。
忘れていたから楽しめた。思い出しても楽しめた。これでいいのだ。
また原作を読み返したらいろんなことを思い出すんだろう。
伝説の打ち切り後に出た完全版は、実は未読だったりする。
だから「寝るぞー!」「プリンセスハオ」「蜜柑」以降のエピソードは新鮮な気持ちで見られた。
十祭司との戦いはソードマスターヤマト感がどうしても否めなかったが、意味が通るようにうまくまとまってたのでぜんぜんアリ。
展開が早すぎて情報と感情の処理がなかなか追いつかなかったけど。
なんせ公式によるシャーマンキングRTAである。
ダイの大冒険とおなじ100話、否、せめてもうワンクールあれば。

ほぼ前と同じ声優陣が揃ったのはすごい。
中の人が声優業退いててキャストの変わった葉もまったく違和感なかった。プロはすごい。
蓮とホロホロあたりは前回のキャラを意識して演じすぎてるのかなと感じたけど、聴いてるうちにそういう違和感もなくなった。プロはすごい。
あと今のアニメって作画のムラがほとんどないのね。作画崩壊もない。すごい。
昔は2〜3人交代で絵コンテ描いてて、週によって絵柄が明らかに違ってた。絵描きの個性爆発だ。
昔のジャンプアニメあるある、原作に放送が追いついてからのオリジナル展開も勢いがあった。
当時はとんでもアニオリがアニメ化の醍醐味でもあったのだ。
そう、マンキンのアニオリはアツかった。
おもしろかったよゲートオブバビロン。超解釈の超巨大化バトルに一時休戦エンディング。
キャラソンもよかった。アルバム買ってめちゃくちゃ聴いた。歌の万辞苑。今でも聴く。
序盤のヤマ場で旧オープニングOver Soulが流れて、ものすごく嬉しかった。
Northern Lightsもどこかで聴きたかった。

十数年前に完結した作品をブラッシュアップするのは大変だったろう。
ところどころに苦労のあとがうかがえる。
進撃のエレンなんかがそうだけど、今は何もかもを悟り運命を甘んじて受け入れた完全覚悟完了キャラがかっこいいとされる風潮。
悩むことをよしとする、迷うからこそ強くなるという、心の強さを自らに問いつづける独自の価値観がこの令和の時代にどう受け入れられたのかは気になるところ。
逆に時代がやっと追いついてきたかのような台詞にもハッとさせられた。
「中庸は現実の前に無力なんだよ」
とはアバさんの言だが、十数年経ってようやく時代がというか、世の中の理解と実感がともなってきたのかと鳥肌が立った。*1

SNSがすべてを可視化してしまう現代、人やものや属性を端的に言いあらわす便利な言葉があまりに増えすぎてしまった今、アンナはツンデレだし、ペヨーテはヤンデレだし、幹久も毒親とか言われてしまうのだろう。きっと。
とはいえチョコラブとゴーレム関係なんかは背景があまりに暴力的すぎてアニメ化は不可能に等しいと思ってたから、それができるようなひらけた時代になっているのかもしれない。
そう考えると悪いことばかりでもない。

「本物の楽々はきっちり頑張らんと味わえん」
「大切なものは心で決める」
「やったらやり返される」
「心が無理って思ったらその時点で負け」
「長生きするためじゃなく、ちゃんと死ぬために生きている」
「人を憎むことは自身を憎むこと。赦せば自身も救われる」
シャーマンキングは、多感な時期に心の据わりかたを教えてくれた作品だ。
ちなみにいちば感銘を受けた台詞はラキストの「正義が勝つのではない、勝ったものが正義なのだ」。ですよね〜。
マルコとラキストのくだりはもっとじっくり見たかったなぁ。

ちなみに萌えと燃えまっただなかの時の最愛のキャラがハオだった。
強すぎて悲しい。
最大最強のかまってちゃんだ。
そんな彼を単にラスボスとして倒すのではなく、力と存在を超えるのでもなく、受け入れて赦す。
主人公が葉くんで、ハオが兄ちゃんだったからこそ、唯一無二のエンディングに至った。
みんなに特大の愛をぶつけられてうろたえるハオ様いいよね…
孤高の王様から囚われのお姫様へ、そして母と友を恋う少年へと戻っていく演技、声のゆらぎが圧巻だった。
高山みなみさんはよくぞここまでハオを引き受けてくれたよ…
史上もっとも愛されたラスボスなんじゃなかろうか。ハオ様。
そう、だからこそシャーマンキングは傑作なのだ。

やっぱ完全版読もう。知りたいことがいろいろある。
アニメの続編も…
う〜ん、見るかもしれない!

 

 

 

 

*1:中庸といえばタクティクスオウガのNルートもあわせて思い出す。
どっちつかずで救いがないニュートラルルート。
分岐してからのチャプタータイトルもずばり「すくいきれないもの」だ。

ふつう、や〜めた

絶賛休職中だ。
今期の契約期間をもって終わりにさせてもらった。
そんなわけで、実はちょっと前から家にいる。
人や環境に不満があったわけじゃない。特に大きな問題があったのでもない。
たぶん、いろんなことの積み重ねで、くるべき限界がきてしまっただけ。
折れてしまった。
弱りきってしまったその時ふと「人間」を維持するのが、どうしようもなくしんどくなった。
四十年ふつうを装って生きてきたんだからもう充分でしょう。
ここらでいったん休憩。

「人間」がうまくできなかった。昔からずっと。
働くのも仕事をするのも好き。でも「人間」でつらくなる。
物事を他の人より強く感じすぎてしまう。たとえば音や声や言葉。
それらを自分の中でうまく処理できなくて、自分の心の中で溺れ死にそうになる。
たぶん向いてないのだ。会社にも人間にも。
ふつうを装うのにはものすごいパワーが必要だった。
それはとても自分をすり減らすことだった。無理をしていた。
しかし学歴も資格も特技もないわたしは、組織に属してどこかへ通うしか生きるすべがなかった。
だからふつうになる努力をしていたのだけど、不惑を迎えたあたりでいよいよ心が壊れてしまったというわけ。

脳に障害があったとか、心の病気になったわけじゃない。
わたしの問題は病や障害というより性質だ。
ポジティブにとらえる人ならば個性とでも言ってくれるだろう。
敢えていうならいちばん近いのがHSP、いわゆる「繊細さん」だ。
といってもこの性質ゆえの美点を仕事に活かせるとか、特別な才能があるわけでもなし。
なんのとりえもない、ビクビクした四十路女でしかない。
みんながふつうにできること、つまり「人間」が、どうやらわたしにはできない。
ふつうじゃないのに病気じゃない。
病気なら治療を受けたり薬を飲んだり工夫で補ったり、いろんなアプローチができる。
そうじゃないわたしは、何をよしとして、誰に助言を求めて、どうやって生きていけばいいんだろう。
「壊れてはまた立ちあがる」を死ぬまでくり返すしかないのか。
そんなことをしてたらいずれほんとうに「生きるのや〜めた」ってなってしまう。今だってわりとギリギリだ。
ここ数年の間はそんなことばっかり考えていた。

心を許せる家族や友人がいるのに、うまく話せなかった。
自分にさえどうすればいいかわからないから。想いがまとまらないから。心配をかけたくないから。
言葉を尽くしても、わかってもらうことは難しい。
家族はこんなわたしの性質を理解はしてくれるけど、それでもこのところ顔を合わせるのがつらかった。
野球という共通の娯楽があったおかげでもっていたようなもの。
後ろめたくて、気力もわかなくて、友だちからの遊びの誘いも断ってしまった。ほんとうに申し訳ないことをした。
そういうことの積み重ね。
いつも自分の想いが自分を苦しめていた。誰に責められたわけでもないのに。

仕事のこと、家のこと、趣味のこと、自分のこと、世の中のこと、コロナ禍。
そんなんみんな一緒だよ。でもわたしにとってはこの世のすべてだ。
「みんな一緒」だけど、自分の悩みは自分だけのもので、人と比べるものでもなく、どう向き合ってもいいんだと開きなおったとき、いったん休もうと思えた。
いったん休んでから、壊れない生きかたを模索しなおしてみようと思えた。
ふつうでないわたしはふつうになろうとしていたけれど、四十年やってきてやっと、それは無理だとわかったのだ。
そもそも「ふつう」という言葉が、とらえかたがよくなかったのだと。自分に呪いをかけていたのだと。
もうちょっと早くに思い切れていたらなぁ。
でもこのまま自分を赦せてなかったら、ほんとうに病んで取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
だから、だいぶ遅かったけど、これでよかったんじゃないかな。そう思う。