うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

好きなものを嫌いと言われて、

わたしは人の好きなものを好きになれなくても、ぜったいに嫌いだとは言わないぞ。
そう心に決めた。
もともとそうだったんだけど、あらためて決意を。
相手は、わたしの好きなものを好きな気持ちも理解できるし尊重するけど、どうしてもそれに対しては赦せない部分があるらしい。
面と向かってそう言われた。
まあ相手は身内なんですけど、それじゃあもうその話はしないでおくね、と心に決めた。わざわざ言いはしないけど。
やっぱり、好きなものを嫌いと言われていい気はしない。
正直しんどい。わざわざ言わんでもええやんと思う。
だからもう話さない。
また嫌いだと言われるかもしれないと思いながら話すのも不毛だし、なにより嫌な思いや我慢もさせたくない。大事な人だから。
そうやって離れていった人もいたかなぁ。
「好き」って大事な価値観だから。それはもうしょうがない。
でも相手は身内なので、うまくやってけるでしょう。多少の心遣いをまじえて。
わたしは好きな人の好きなものを好きになれなくても嫌いだとは言わない。思ってても言えない。
好きになれそうなら知りたいと思うし、そうしてるうちに好きになってしまう。時には布教者よりも。
相手の好きなものもいっぱい受け入れてきた。好きになってきた。
数年前からは野球がそうだったし、最近はロードレースに興味がある。
でもそれはわたしがそういう性質だからであって、そうあってほしいと他人に強要することじゃない。
生き方が違う、考え方の違う人とうまくやっていく。
そのために「嫌い」は強すぎる。
だから使わない。この言葉も感情も。
リアルでもSNSでも。
わりとこれでもめてる気がするんですよね、ツイッターとかでも。
嫌いって感情に共感がほしい気持ちだって人間にはある。
でもそれはちょっと苦手かな、わたしは。
嫌いって言ったら、どっかで嫌いって言われそうな気がするから。

鎌倉殿の「のえさんとはなんだったのか」

なんだかずっと、のえさんの書かれ方に違和感を覚えていた。
彼女の退き際がどうなるかで今作の印象は変動するまであるな、と思いながら終盤を観ていた。
のえさんは小四郎の三人目の妻である。
だいぶアレな人ではあるんだけど、この人にも小四郎にもお互いかなり問題があって、いびつな夫婦関係が最後まで書かれていた。
物語が完結したので、とりとめもなく語ってみる。

のえさんは意図的に頭の悪い除け者として書かれていたと思う。
わたしは史実の人物をよく知らないからなんとも言えないんだけど、劇中では誰にとってもノイズみたいな扱いになっていた。
どこからも誰からも、宙に浮いていた。
最後の瞬間まで小四郎に寄り添った八重さん比奈さんとはまったく違った妻のかたちだ。
本人の口の悪さだったり他者への意地の悪い言動は、夫を含む家族から蔑ろにされる要素が満載。
なんか一言多いのだ。平気で嘘をついたり、前妻ふたりを悪く言ったりね。
「最終的にことを起こしてしまう人」として意図的に「そう書かれていた」んだろう。
ささやかな悪意と悪行を周到に積みあげられてきた。

その一方で、一応のえさんはところどころで妻として小四郎に語りかけたりするんだけど、小四郎はおおむね無関心。
妻への態度じゃない。関係が冷え切ってる以前に、そもそも最初から関係ができてなかったのだ。
ふたりがうまくいくにはまず初めに小四郎が折れて歩み寄る必要があったのだけど、あいにくと小四郎には女心がわからぬ。
しかも執権として心を殺していて、それどころじゃなかった。
それでますますのえさんは意地になってしまった。
のえさんは結局、小四郎への分かりやすい怒りをつのらせ、憎しみをぶつける表向きの役割を背負わされたように見える。引き金を引かされたのだ。
そのわりに、夫に毒を盛る妻にしてはなんだか雑な扱いだった。
物語の都合で、夫に毒を盛る逆恨み女にされてしまった感があるのだ。なのでかわいそうだった。
最後の演技が鬼気迫っていたからこそ、なおさらに。

のえさんは小四郎をちゃんと想っていたはずだ。
相手に伝わらなかっただけで。相手にその気がなかっただけで。
心はちゃんとあったのだ。
その心を蔑ろにされたら、どうだろう。
憎からず想っていたからこそ、自分に無関心な小四郎を赦せなかった。
愛していなければ憎まなかったろうし、憎くなければ毒なんか盛らなかったはずだ。
そして彼女の心を小四郎の盟友、平六は利用した。
のえさんひとりを愚かな女だとは責められない。
だからといって褒めることもできないのが悲しいところだ。
だから、かわいそうだと思った。

書き出してみると「ちゃんと書かれてはいる」んだよなあ。人物像も動機も。
じゃあ何がそんなに引っかかるんだろう。べつに好きなキャラでもなんでもないのに。
なんだか物語から常に浮いて見えてしまったのだ。あまりに異質で。
でもそれが狙いでもあったのかな。
だとしたら狙いどおりだったんだろうけど、のえさんにはやっぱり気の毒ではあるなあ。
書かれ方によってはもっと違った印象があったように感じる。
でもこれは単に好みの問題、感じ方の違いである。
脚本としては、出しきった最善のかたちだったのだろうし。
あんまりこのへんみっちりやると「誰の何の話やねん」ともなりかねないし、北条義時大河ドラマとしてはこれでちょうどよかったのだろう。たぶん。
「鎌倉殿の13人」は夫婦ではなく、姉と弟の物語としてしめくくられたのだから。
良くも悪くも、わたしにはわだかまりが残った。いや傷痕だったのかな、爪痕だったのかな。
いずれにせよ、のえさんは一番心に残るキャラクターになってしまった。意に大きく反して。

のえさんとはなんだったのか。
鎌倉の陰の陰だったのかな。
数日経った今ふりかえれば、そう思う。

ねこを愛でに、カフェへ

わたしはねこが好きだ。
しかし飼うことはできない。
わたしは働いている。
たいして稼いでないし、稼いでないくせに旅行や外出が好きだ。
不定期に競馬場へも行く。
球場へも行ってみたいとか目論んでいる。忙しく家を空けがちな貧乏人だ。
どう考えても、ねこを幸せにできる暮らしをしていない。
ねこは夢。ねこは高嶺の花。
それに自慢じゃないけど、ねこはわたしを避ける。
野良猫だって、こちらを一瞥したあと黙って早足で逃げていく。
そんなわたしが意を決してねこカフェへ行ってみたことろで、ねこカフェのねこにまで拒絶されたら一生立ち直れない。
ツイッターとかYouTubeのねこちゃんを眺めて癒されるだけでいいんだ…
と長らく自分に言い聞かせていたのだけど、うっかりと近所にねこカフェがあると知ってしまった。
あるんだ、近所に。
行くか、ねこカフェ…

 

もっと早く来てればよかった。
ねこカフェのねこちゃんは人懐っこくてフレンドリーだった。
愛情深く育てられているんだろう。人が好きなのだ。たぶん。
膝に乗ってくれたり、スリスリしてくれたり、撫でさせてくれたり、傍らで寝そべったり、思い思いに過ごしてくれた。

 


フラッシュを使わなければ撮影自由だったんだけど、この日は運良くわたし一人だったんだけど、静かなお部屋でねこたちといるとシャッター音が響いて気になった。
わたしが気になるのだから、ねこたちはもっと気になるだろう。
たぶん撮られ慣れてんるだろうけど、何だかあんまり撮るのもはばかられたので、ほんとにちょっとだけ。記念に。
せっかく一緒にいるのだから触れ合いたいし見つめたい。
これ、競馬場であんまり写真の枚数や質にこだわらなくなったのとおんなじだなぁ。
もっと自分自身の眼で彼らの姿を見つめるべきだった。そのへんはちょっと後悔している。
うまく撮れなくたって、彼らは美しくていとおしい。
それをわたしは知っている。覚えている。
だから、ねこたちとの触れ合いの時間も大事にしようと思えた。

このままずっとここにいたい…なんて思っているうちに、あっというまに時間いっぱいになってしまった。
初めてでどんな塩梅かわからなかったから、ひとまず30分だけで予約していたのだ。
今回行ってみたところはワンドリンクで30分660円から。結局飲まなかった缶ドリンクは持ち帰ってあっためて飲んだ。
おやつも買えたのだけど、見てるだけで幸せだったからすっかり失念していた。
次はちゅ〜るあげてみようかなぁ。でもそれは仲良くなってからかなぁ。いろいろと考えてしまうのも楽しい。

ねこは気まま。
ねこは素敵な生き物。
やわらかい体があって、自由な心がある。
ねこと暮らしてる人はよく正気を保っていられるなぁ。
わたしはたぶん外へ出られなくなる。
あんなにも愛らしいものが家にいてたらもう離れたくなくなってしまう。
だから飼わない、というのも多分にある。
「ねこ愛」は誰かの家の可愛いねこちゃんで満たそう。
その選択肢にねこカフェが加わる、記念すべき第一歩だった。またそのうち行こ。

脱「堕サイクル」

「風呂に入って後悔する人はいない」
という格言がある。
筋トレもおんなじだなぁと思う。
ぜったいに気持ちよくてスッキリするのに入るまでがめんどくさい風呂。体を動かすまでがめんどくさい筋トレ。
後者の場合そこにモチベーションが関わってくるから、さらにめんどくささが上回る。
でもいよいよそんなことも言ってられなくなった。
求職中、わたしはおばちゃんと化した。
心も体も。
引き返すなら今のうちだ。
これ以上ズルズルしてると元に戻れなくなる。まさに正念場だ。

ある程度の体型からはみ出したら自分がだめになってしまう。
いや、自分がだめになったら太るのだ。太るのはだめになった時。いつもそうだ。
お決まりのこの堕サイクルにハマっては抜けハマっては抜けを繰り返してきた。
今回もだめになってしまったので、習慣と体型から、地道にメンタルを戻していく。
健康のため。
今まで着ていた服を着るため。
気分よく生きていくために。
毎日の習慣から、心も体も元の基準に戻していく。
一日がんばった体をほぐしてあげる感じで、お風呂あがりに軽いストレッチをしている。
疲れがとれて、あわよくばお腹から下がちょっとずつ引き締まっていったらいいなぁ。
堕サイクルを抜け出して、よい循環へと。

すきまバイトやってみた

何事も経験。
経験で命をとられることはない。
どんといけ!
というわけで求職中はタイミーで単発バイトに入ってみたりしていた。
結論からいうと「向き不向きがある」「職場はガチャ」「仕事に貴賎はない」。
毎日たくさん雇うようなところはほぼゆきずりで、誰ともお互いに名前を呼び合うこともなく、時間内はただただ体を動かす感じ。
そりゃあそうだ。「誰にでもできる仕事」が効率よく割り振られてるのだから。
「これは何とはなしにすり減るなぁ…」
すり減るのは心か、尊厳か。
「俺は消耗品だ」というランボーのセリフを思い出したのであった。
ランボー怒りのピッキング

「働くのにも個人が個人として認められることって必要なんだなぁ」なんて思いながら、でもそれは慣れとか割り切りとか、性格とか向き不向きがあるのかもしれない。
人間が苦手な人間はどこへ行っても人間関係で悩むし、やっぱり何をするにも自分次第だ。
ただ、単発バイトという働き方はあまりに刹那的すぎる。
どんな職場かは実際に行ってみないとわからない。
単発バイトを入れざるを得ないってことは何らかの理由で人が定着しない職場ともいえるから、入ってみて「あっ…」と察するケースも多い。
もちろん良い現場だってあるのだけど。そのへんはもうガチャだ。

メリットもある。
短い時間でいろんな仕事にチャレンジできて、自分の好き嫌いや向き不向きを実感できる。
わたしはピッキングは苦手だ。でも、ものを作るのは好きだ。
人間は苦手だけどうまくできないだけで嫌いではない。
人や場所に個人として認め合いながら、やりがいや目的をもって働きたい。
ずっと抱えている生きづらさを何とかするには、そういう働き方ができる場所をじっくり探すしかないんだと再確認できた。
そこがはっきりしただけでも「めっけもん」。とてもいい経験ができたと思う。
あと当たり前だけど働くことは尊いし、どんな仕事にだって貴賎はない。
自分の労働が価値あるものかどうかを決めるのは自分自身なのだ。
対価であるところの給与が支払われるのは大前提としてね!

 

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