うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

競馬の中の神様のお話。

逆神という言葉を近ごろよく目に耳にする。
競馬、ことに馬券に取り組んでいればいやがうえにもついてまわるこの言葉、負けが込むと乾いた笑いとして消費されてしまうこの風潮。
どうにも一方的に自虐的で、私は一緒になって笑う気になれない。
まわりまわって自分だけでなく自分以外の他人への否定にもつながる気がして。
いくら渾身の予想をしたところで競馬をするのは馬と馬に携わる人間だし、自分以外の何者かの行動を予測するだなんておよそ不可能に近い。
だから面白いしやりがいがある。
予想をして馬券を的中させるというのは、奇跡のような神業。
なので、外れて当たり前。
だから、当たったら嬉しい。
恥じる必要も、ひとを笑う理由もない。

馬券とは、いわば具現化された自らの信念。
予想とは、元をたどれば「こうなったらいいな」という願望。
「この馬をひとを信じたい、大事なものを託したい」という強い決意のあらわれ。
願ったのなら信じてみよう、信じたのなら黙って託そう、結果は甘んじて受け入れよう。
結果如何で自虐と自責に走って苦しんだり、自ら楽しくない方向へ行ってしまうのはもったいない。
思い通りにいかないものを追い求めるからこそ競馬は楽しいのだから。

ほかにも似たところでは「自分が現地へ行くと応援馬や騎手が勝てないのでは…」という、熱心なファンならば一度は陥ったことのあるであろう切実な悩み。
私たち競馬ファンが愛し憧れてやまないものたちは途方もなく強い存在であるはずだ。
心おきなく、好きな馬やひとには会えるときに会う。
買えるときに馬券を買う。
そうして思うさまに応援して、たとえ負けたり悔しい結果に終わったとしても、手の内には確かな思い出を得ているはずだ。
消えぬ後悔が永遠に残されるよりずっといい。
大好きなあの馬このひとと今日を限りに会えなくなってしまうかも知れないのが競馬の怖さ残酷さ、現実でもあるのだから。
いつ会うか。いつ買うのか。
今この瞬間しかない、くらいの気持ちでちょうどいい。
曖昧で不確かな何かを恐れてせっかく繋がった縁を断ち切りかねないのは本当にもったいない。
好きだから会う。応援しているから買う。
それ以上の動機があるだろうか。ないでしょう。

逆神はいない。
レースの当事者にも、馬券を買ったファンにも、誰ひとりとして悪者はいない。
駿馬たちが駆け抜けたターフにはただ過程と結果が蹄の跡とともに刻まれるだけ。
そこに意味と意義を見出すのが競馬ファンであり、馬に携わるひとだったりする。
念の力で人馬の到達順位を下げる神なんてどこにもいないのだ。
もしも神と呼ばれる存在があるとすれば、どこかで笑っている競馬の神様くらいのものだろう。
神は信ずる者それぞれの心の中にいる。