うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

願いも諦めも受け入れて、できることをできるだけ

今夏は、レパードステークスを観に新潟へ行った。
昼前の飛行機で向かって夕方の新幹線で帰ってくるといういまだかつてない強行軍で、現地にいたのは三時間にも満たない。
我ながら、いや客観的に見れば、「どうかしてるぜ」。
長岡花火の影響で前日の宿が確保できなかったのだ。
そんな中、行きたい気持ちと行こうという決意、これなら行けるという計算を天秤にかけたとき、そこに迷いは一切なかった。
自分の思い入れや行動原理なんて、他人から見れば理解不能であたりまえだ。
でも競馬と向き合う私は、ずっと真面目で正気だ。

晴れがましいときだけを選んで応援に行っているみたいだ。
そうでないときも馬自身や馬に携わるひとにとっては同じように大事なわけで、そういう時間にこそ寄り添いたい。
しかし残念ながら私の生活は競馬をすべての基準にすることはかなわないわけで、そのつど線引きと選別をしていかなければ暮らしが立ちいかない。
馬は猛スピードで競馬の世界を生きていて、ターフで輝ける時間はほんの刹那だ。
ぜんぶ観に行って記憶に刻みたいのはやまやまだが、人間の時間やお金や体力も程度は違えど有限だ。
使えるものをどこに割くか。
今回はビルジキールの重賞初挑戦を見届けたい、となったわけだ。
三角でフワフワとしてやめてしまう癖があってポケットに入れるわけにもいかず、ペースが流れたこともあり、大外から先行した彼にとっては苦しい競馬となってしまった。
結果こそ伴わなかったものの、今後の課題と対策の方向性が見えた一戦だった。

納得と満足を得て帰路につきながら、今日ここに来られなかったらどんなふうにこの時間を迎えていただろうかと想いを馳せてみる。
ファンが応援に来ようが来るまいが、馬は走るし、結果は変わらない。
同じ時間と空間に自分が居ていたいというのはいわゆる自己満足だ。
願いが叶わないとき、いままで私はどう感じてきただろう。
口惜しさ、無念さ、後悔。
でも、後悔ってなんだろう?
自分の想いや願いはどうあれ、どうにもならないことなんて、生きていればいくらでもある。
「がんばったら行けたかも、どうにかなったかも」とあとから思いつめてしまうのは、やはり無理がたたっていた時だったと思う。
そのたびに気持ちに折り合いをつけて、諦めたくなかったことをいくつも諦めてきた。
何度も自らに問いかけてきた。
私がいてもいなくても、どこにいても、好きなものを好きでいられて、勝利や健闘を笑って祝福できるかどうか。
優しい気持ちで労えるかどうかと。
この気持ちさえあれば、後悔だって心地良く受け入れられるのだ。

きっと私はもう、競馬を競馬としてではなく、馬と人の半生として見ている。
はじめのころに思い描いていた競馬ファンではなくなっているなぁと感じながらも、縁と情と熱のあるまま、できることをできるだけ、心が喜ぶほうへ歩いてきた。
その気持ちが新潟へ向かわせたのだ。
好きな馬、好きな人と出会うために競馬をやってきたとさえ今は思える。
たとえ想う相手と時間や場所を分かち合えずとも、鮮やかに刻まれる光景はきっとある。