うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

競馬に出会ったら人生が変わりました

競馬に出会う前、私は何をしていただろう。
まだ世界が小さな箱庭だった頃の、それほど遠くもない少し過去の話をしてみようと思う。

二十代半ばを過ぎたとき、私はある大失敗をやらかした。
罪を犯しただとか物理的、法的に他人様に過失を与えたとかでは決してなく、しょうもない自爆だったとだけ言っておく。
世界も人間も自分でさえも好きになれず、何ものにもなれずにいた私の人生はわずか四半世紀と少しで大いに詰んだ。
あとには絶望しか残らなかった抜け殻の私を迎え入れてくれたのは家族だった。
かくして実家で再起を図ることとなったのだが、心は壊れかかっていた。
が、しかるべき医療機関で診てもらった結果、異状はまったく認められなかった。我ながら頑丈なことだ。
カウンセリングにも少し通ったがすぐにやめた。話したい相手はカウンセラーではなかった。
家族や周りの人間は「がんばって元の私に戻って」と口に出しこそしないが、そう願っていたであろうことは無言のプレッシャーとして伝わってきて、それがしばしば私を追いつめ苛立たせた。
元の私とは何ぞや。
今の私も私なのに。
がんばれって、がんばりすぎてこうなったのに、これ以上まだ何をがんばれというのか。
やっぱり誰も何もわかってくれない…

間違うこと失敗することを極度に恐れ、友達にも家族にも誰にも苦境を打ち明けることができずに、限界を超えて抱え込んだものが積もりに積もったすえの自爆だった。
全てをリセットして原点回帰した今も私は誰にも何も、希望はおろか不平不満でさえ口にすることができない。
この世のあらゆるすべてに対して後ろめたく、絶望を超えて自己嫌悪の念に苛まれた。
そんな月日がしばし続き、その間していたことといえば、就職活動のちに仕事を除いては、ゲームと二次創作だった。
子どもの頃から続けてきた唯一の趣味だった。
ロールプレイングゲームの中の登場人物と物語に没頭し、劇中で語られなかったあれやこれやを夢想し、推し量って文章に落とし込む手遊び。
これがあれば自分は見たいものを見て、したいことをして、何かを感じ考えながら生きていられると思っていた。
それらをとても愛していたことは事実だったが、現実逃避に他ならなかった。
手の中の完成された箱庭がその頃の世界の大半だった。
競馬に出会うまでは。

運命の瞬間はあっさりとおとずれた。
誰も何も好きではなかった私が、私を分かってくれないと思っていた家族の導きと手ほどきを受けて馬券を買った。
談義に談義を重ね予想をした時間の長さに比べて、実際のレース時間のなんと短いことか。
駿馬たちは一瞬の風のように走り抜けていった。
自分の胸の内にぽっかりと開いていた穴を埋めるように。
それは今までに感じたことのない衝撃だった。
私が競馬とは予想とは何たるかをよく分からないままに賭けた金と数字の向こう側に生き物がいる。
馬とひとが共に生きて呼吸を合わせて、広大な馬場を命がけで駆けている。
そのさまに圧倒され、世界の広さ大きさと美しさを知った。
なんて綺麗なんだろう。
そうか、世界とは命そのものなんだ。だからこんなにも美しいんだ、と。
なんともいえないすがすがしい感情で胸がいっぱいになって、誰も何も自分さえも好きではなかったけれど、何をどうがんばるかなんて分からないけれど、先行きが見えるわけではないけれど。
もうちょっとだけ生きながらえてこの美しい世界の続きを見ていたい、と心から思った。
完結された手遊びの小さな箱庭から、自分以外の誰か何かがいる広い世界へと足を踏み出してみようと思えた。
きっと勇気が要るけれど、私には家族も友達もいるのだから。

世界を知りたい、ひとを知りたい、自分自身を知りたい。
どこかへ行きたい。
本当はずっと願っていたのに、私を抑圧していたのは他ならぬ自分自身の陰だった。
私が自分自身を分かっていないのに、ひとに自分というものを分かってもらえるわけがない。
まずは私が自分自身を理解し、自己否定の念を解き、そのうえで自分自身を認め許すところからはじめなければならなかったのだ。

競馬との出会いは我が人生における大きなターニングポイントとなった。
引け目と負い目しかなくうまく対話すらできなくなっていた家族とのやりとりは必然的に増えたし、予想と馬券を通じて間違うこと失敗することなど何ということもない些細なことだと知ることができた。
競馬場へ足しげく通うようになった。
馬とひとの姿に、まずは自分以外の誰か何かに託す夢を見出すようになった。
したいことや行きたい場所が次から次へとでき、次第にそれが自分自身の夢や目標になった。
小さなカメラを持つようになった。
ひととの出会いにも恵まれた。
拙いながらも他者に思いの丈をぶつけることも、できるようになっていった。

競馬が好き、馬が好き、馬に携わるひとが好き、競馬を愛するひとが好き。
家族が好き、ひとが好き。
そんな自分をちょっと好きになれた気がした。
道のりはまだまだ長いけれど。
私自身が心を開いて物事に向き合っていける限り、これからも縁や喜び楽しみの連鎖は続いていくことだろう。
だからこそどんな苦境にも立ち向かっていけると今ならば確信できる。

かつての私が執着したあの小さな箱庭は、今も胸の奥底にしまってある。
情熱が褪せても、心を割く時間や労力が次第にすり減っていっても、愛着ゆえに捨てることはできなかった。
これまでの自分自身そのものだからだ。
作られた世界であれ、手遊びの真似事であれ、幼く若かった私に夢と安らぎを与え続けてくれたことに何ら変わりはない。
いったん蓋を閉めたのは、同時にふたつ以上のものに傾倒できない自らの不器用さゆえだった。
いつの間にか心を割く比重が逆転していたのだ。
しかし、想像し表現することに対しひたむきにさせてくれたあの年月の積み重ねがあったからこそ、競馬というまったく異なるものを愛するようになった今もなおこうしてツイッターやブログというかたちで書くことそのものを続けている。
うまくいえるわけではないけれど、確実ではないけれど、私が誰かに何かを伝えるための最も好きな手段であり作業なのだ。

生涯現役でいたいと思ってはいるものの、人生何が起こるかは分からないものだし、あの箱庭を手放したときのように様々な事情から、いつの日か競馬を手放すときがいずれ来るのかもしれない。
しかし、捨てはしないだろう。
一度は愛したものだから。
捨てさえしなければ、ふたたび拾うことができる。
縁というつながりがあれば何度でも。
そういうものを、これからの人生の彩りとしていきたい。