うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

終活のような生き活を

いろんなものを捨てていっている。
ポイ活をやめたのを皮切りに、ほんとうに必要なものを厳選してみようと思いたった。
気に入って買ったのに結局あんまり着なかった服。
一年以上使わなかったコスメ。
なぜか大事にとってあったきれいな箱や袋。
ほぼ行かないショップのカード。
いろんなサイトからの退会。
話半分でしか訊けてないメルマガの解除。
いらないものを捨てて、削って、軽くして、自分の中と外を整理する。
断捨離って言葉はあんまり使わないようにしている。そんなに高尚なものじゃないから。
ふと、終活ってこんな感じなのかなと思い浮かんだ。
前向きに生きようと思ってやってることなので、そういう言葉が浮かんでくるのは何だかへんな感じではある。
不惑を迎えるにあたり、心の準備がしたかったのかもしれない。
わたしはもうじき歳をとる。
若さの名残をうち捨ててからっぽになったスペースは、これから歳をとっていく自分にふさわしいものでちょっとずつ埋めていくのだ。
そう考えると少しわくわくしてきた。

がんばって 書いたブログは 読まれない

心の俳句。
文章あるある。
自分が思う自分と、他人が見てる自分のギャップ。
求めてるものと、求められるものの違い。
だいたいハズすのは、今まで書いて築いてきた人や世界に対して蓄積のない、いわゆるジャンル外のテーマについて語ったとき。
そりゃあ普段は競馬の話してる人がいきなりドラマやアニメの話しだしてもね、誰が拾うのかしらね、という気はする。
わかる。わかるよ。ジャンル外の話わからないもんね。
でも、したいときはしたいのですよ。
それに好きなものを熱く語ってる人が、わたしは好きだ。だから語りたくなった自分のことも肯定する。
ふと今まで縁のなかった人や世界に感銘を受けたり、関心を持ったり、すごいものに出会った!この熱い想いを言語化したい!っていう幸せな瞬間が稀におとずれる。
その瞬間最大風速の気持ちを大事にしたい。
そういう文章と出会いたいし、自分も残したい。
たぶんこれから、そういう機会が増えると思うから。

麒麟はあとから遅れてきます

信長は十兵衛に止めて欲しかったんじゃないかな。

毎週、感想書きたい書きたい書きたい!と思いつつ、結局何も書けず。
言葉にしたら冒頭よろしく何かもうこっぱずかしい感じになっちゃうしやめとくかぁ、とも思ったんですが、せっかく最高のドラマと出会えたのだから書き出してみる。

麒麟がくる』は十兵衛こと明智光秀がキレるべきところでちゃんとキレてくれてたからノンストレスで痛快だった。これに尽きる。
わたしも「どちらかといえば嫌いでございます!」「帰りまする!」「御免!」って言ってみたい。言えないから魅力的なんだけど。
大河ドラマを通年で完走するってけっこう気力いるのですよ。
特に戦国ものってあらかじめわかってる山場があったり、見てて力入っちゃうところが多い。逆に中だるみ期もあったり。
なのでストレスたまらない、というのは大事なのです。
世を平らかにし、おだやかな時代にのみあらわれる聖獣・麒麟がくる世をつくるという信念のもと活動する十兵衛には一切のブレがなく、愚直なまでにまっすぐ。誰と対峙しても公平で公正。有言実行の男。
優しくて賢いんだけども、言うべきことをはっきり言うし、現代人の感覚に合わせて描かれがちな戦嫌いのナイーブな主人公像とも一線を画しており、見ていてもどかしさや憂鬱なしんどさがなかった。
主君である織田信長と最後の最後までよき同志でありつづけたことも大きい。

その織田信長
だいたい二枚目俳優が演じることになっていて、ドラマそのものの評価にかかわらず「今回の信長はかっこよかったし本能寺の変もよかったよね」って話題になるのがお約束みたいなところがある。
評価にかかわらず毎回燃える信長。かっこよく燃えることを期待される信長。信長炎上が戦国もののハイライト。
滅びの美学っていうんでしょうか。信長の一生、あまりにドラマチックだもの。
それゆえ強くて恐ろしい、どこか浮き世離れした超人のように描かれるのだから、そりゃあかっこよくて当たり前なのだ。
2020年の信長はどうか。
さあ蓋を開けてみれば、父上、母上、帰蝶、帝、十兵衛!
泣いてわめいてキレて愛を求める、めちゃくちゃ人間くさい信長だった。
誰かに褒めて欲しい信長。愛に飢えた永遠の子ども信長。
そうなんだ、わたしはこんな生々しい信長が見たかったんだ!

愛も承認も権力も得てなお満たされず、疑心暗鬼にとらわれ、狂っていく過程で帰蝶からも捨てられる信長。
あれもけっこう効いたと思うのです。あからさまに傷ついてたし。
承認欲求のお化けとなった信長を作ったひとりである帰蝶は表舞台から降りて、後始末を十兵衛に託す。
ええ~あなたがそれを言う?と釈然としない気持ちはあったが、もう手に負えん!と思ったからこそちゃんと退いたのだろう。
帰蝶と十兵衛は、理解者で共犯者で同志としてずっとつながってきたのだ。
彼女とのやりとりでおおむね腹が決まった十兵衛。
あと松永久秀の平蜘蛛が起爆装置になったのもよかった。新解釈。
みんなが十兵衛を追いつめ……いや、駆り立て、導いたのです。本能寺へと。

結末ははじめからわかっている。
終わりへと向かっていく訣別の物語だ。
信長と十兵衛の愛憎劇の行き着いた先、それが麒麟本能寺の変
お互いへの想いは初めて出会った時と何も変わらない。
大きい国を作る。世を平らかにする。その志も変わらない。ただ手段が変わってしまった。
大好きだけど、大好きだから、もう一緒にいられない。
これ見たことある。勇者よ私を殺して止めてくれって願う魔王の構図だ。
魔王と化した信長が、同じ志を分かち合った十兵衛に討たれることを受け入れて、ひとり静かに、眠るように死ぬ。
舞も舞わずに、歌も歌わずに。
大河ドラマ至上いちばんしっくりくる「是非もなし」だった。
いい信長だった。

麒麟を呼んだのは足利義輝でも、義昭でも、信長でもなかった。さらにいうと秀吉でもなかった。
麒麟はこなかった。しかしその道筋を十兵衛は繋いだ。命を賭して。
歴史の結末の延長線上に生きている者としては「結局、麒麟を呼んだのって家康?」ってことになるのだが、ストンと腑に落ちるように物語は完結している。
家康と十兵衛との信頼関係もまた唯一無二のものだったのだから。
そういえば次の次の次のタイトル、『どうする家康』と発表ありましたね。
というわけで麒麟はきます。2023年に。たぶん。

書かなくてもいいし、形にしなくてもいい

言葉を尽くしてきたけれど、ファンが伝えられる言葉って「好きです、応援してます」しかない。
心があればそれだけでいい。
ただ好きでいられればいい。そっと寄り添えればいい。
自身が抱く信念や活動の意味と意義を一番わかっているのはご本人や当事者なのだから。
外からのプレゼンだったり、わたし見てます知ってます好きなんです見てくださいと声をあげるのは、本当は余計だったのかもしれない。
わたしは関係者でも広報でもクリエイターでもないのだから。
はじめから何も言えなくてあたりまえだった。

ツイッターという居心地のいいざわざわした場所からいったん抜け出てみて、ひとりでいるうちに、ずっと向き合ってきたモヤモヤがゆっくりと晴れてきた。
そうすると、今まで自分がやってきたことがなんとなく野暮で恥ずかしいことだったのかもとさえ思えてきて、いよいよ形にする言葉をなくしてしまった。
別にいつも何かを言わなくてもいいんだ、というはじめての安堵を覚えながら、しばし気持ちをかたちに言葉をつくることから離れてみた。
日々ものすごいスピードと物量で流れてくる感情のかたちをぼんやりと眺めながら。
もうここでこんなふうに声を張りあげて何かを言うのはわたしには無理でしょう、と思いながら。
ツイッターのタイムラインは川のようだ。清濁あわせのんで渦巻いている。
それが心地いいときもあったけれど、今は重たくて苦しいときのほうが多い。潮時なんだろう。

じゃあなんでわざわざ言葉にしてきたのか。
想いをつぶやき、文章を書き、写真を撮ってきたのか。
誰のためなのか。何のためなのか。
自分のためだった。
わたしが会いたい人と出会うためだったんだな、と今は思う。
同じものをみている誰かと出会って、気持ちを分かち合うために、好きを形にしてきた。声をあげてきた。
それは外へ向けたアピールでもあった。
野暮で恥ずかしいと感じたのは、自分のためが誰かのためにもなるのかも、と思っていたから。思いたかったから。
自分の好きを、自分の想いを、自分自身を、人に認めて欲しい気持ちがあったから。
自分、自分、自分。恥ずかしい。
この記事だって誰かに訊いてほしくて書いている。
人はわかってほしい生き物で、誰かとつながりたくて、誰しも承認欲求を腹の中に飼っている。
そんな気持ちを高尚っぽい何かに言いかえて、わたしはいいひとになろうとしていた。もう何回も言ってきたことだけど。
今は恥じているし、受け入れてもいる。
だから黒歴史にはしない。ずっとしたくてしてきたことだから。形にし、書いてきたことに偽りはなかったから。

人とは出会えた。
ずっと好きで書いてきたからだ。
これから何をしていこう。
好きなものは変わらず心の中にある。好きな人もいる。
なら好きなものを好いていくだけ。大事な人を大事にするだけ。
いいひとにならなくてもいいし、書かなくてもいいし、形にしなくてもいい。
したいときにしたいことをする。
書きたければ書いて、つぶやきたければつぶやいて、話したければ話す。
写真を撮れるのはまだもう少し先になりそうだけど。

何もせずに、何かをする。
あたりまえの幸せを、ようやく思い出した。

 

読むことは知ること

 

 

ずっと気になってはいたものの、なかなか手にとれなかった。
長いあいだ覚悟が決まらなかったが、ふとしたきっかけと思い切りでようやく手にとれた(わたしにはKindleというものがあったのだ)。
その夜は涙と思考が止まらなかった。
もう読む前の心と体には戻れなくて、こんなに苦しいのなら読まなきゃよかったのかしら、とさえ思いながら、知らなかったことを知るってこういうことなんだと布団をかぶって苦悶していた。
なにひとつ分かったつもりにはなれなかった。

戦争は人間がするもので、生きるうえで人間、女であることはやめられないから、予期せぬエラーだらけでぐちゃぐちゃになる。
ぐちゃぐちゃにされたのは人。人生。
この本はソ連の従軍女性たちが戦後ひた隠しにしなければならなかった真実、それらを彼女たちから聞き取って文字におこした現本をコミカライズしたもの。
本の中には聞き手と語り手がいる。
いちばん印象に残ったのは、書き送った原稿の大半が語り手によって否定され、ずたずたに削られて送り返されたところ。
当時をふりかえる自分と、それを語る自分と、訊いている他人から見える自分。
人間には複数の顔と姿があって、真実を浮きあがらせようとしたときにまたエラーが起こるのだ。
ふつうの生活の中にあってさえ、思い出って後から補正をかけがちだ。重くつらいものならなおのこと。
知ってほしい、話したいけれど、いざ形になって外へ出ると、それは違う!となかったことにしたくなる。あるいは体裁を整えて。
戦地へ赴いた女性は戦後白い目で見られつづけ、生きていくためには口を噤むよりほかなかったのだ…。
起こってしまったエラー。ぐちゃぐちゃにされてしまったたくさんの人とその人生。
文中の言葉を借りるならば、「人間は戦争より大きい」。

ふと、ランボー(戦後後遺症を抱えた、ベトナム戦争の帰還兵)を思い出した。
彼もまた世間からのいわれなき偏見と差別に傷つき、職にもあぶれ、心の傷を抱えながらひとりさまよい苦しんでいた。
でもランボーは創作だけどこの本の中の彼女たちは実在していて、書かれていることは実際に彼女たちが体験し生き抜いてきた事実だ。
物語じゃなくて現実だ。

受けとめるには重たすぎた。
コミックを読んでからすぐに原文(訳書)をダウンロードしたものの、途中まで読み進めたところでいったん本を閉じた。
夜眠れなくなったのだ。
あらためてこの本を開くときが必ずくるだろう。
読んでよかった。知れてよかった。
だから、きっと続きを読まなければならない。知らなければならない。