うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

やってみよう純日記 ひとまず1日目

フリーの6連休がやってきた。
予定は健康診断くらい。
家族は帰省したので家にはわたしひとり。
せっかくのんびり過ごすんだから「なんにもしない」を書いてみようかなと思いたつ。
純日記ってエントリーがあるんですね。
「ひとの日記が読みたい」というのがわたしの口癖なんですが、よく考えたらわたし自身はひさしく書いてなかったです、日記。
ひとに求めるんだから、自分もやってみよう。

 

4月30日(土) 連休1日目

  • 休みの日は仕事の日より早く目が覚める。
    「きょうは手紙を書くんだ」と決めてたから余計にかもしれない。
    応援している厩舎には不定期に、一筆沿えて、競馬場で撮った人馬の写真を贈っている。
    コメダ珈琲店でモーニングを食べてから執筆。
    コメダのトーストはふっくらしておいしい。飲み物はだいたいミルクコーヒーを頼む。
    季節限定のクロネージュ和香も食べたかったけど、あたらしいモーニングのレパートリー「ローブパン」を追いパンしてしまったのでお腹いっぱい。またこんど。
  • マリオンエールが2歳時以来の芝に戻って大健闘の2着。
    そうなんだ、お母さんのヤマトマリオンも芝ダートの二刀流だった。うれしいね。
    頭まであると思ってたのだけど…… 惜しかった。厩舎の3勝目まであと一歩。みんながんばっている。
    思った以上に複勝がついてびっくりした。応援馬券をとれるとうれしい。好きな人馬ががんばるとうれしい。
  • 2週分寝かしておいたダイの大冒険をみた。
    ハドラー最期の回で泣きっぱなし。
    アバン先生がかつての宿敵を好敵手と認めてくれたのがいいよね。
    ハドラー、漢すぎる。アバン先生、理想の大人すぎる。
    ダイ大はアマプラでみてるのであしたまた更新がくる。
    次回? 次々回かな? わたしの十年来(いや、学生の頃からだからもっと長い)の推しロン・ベルク回ですよ! やった~!!
    何をかくそうリメイクときいて一番みたかったのが超魔ゾンビ回なんだ。
    以来、頑固な職人キャラがササるようになった。星皇十字剣は友人と傘で真似した。
    もうちょっとで若き日の宿願が叶う。感慨深い。
  • ダイ大でめちゃくちゃ泣いたので半身浴することにした。
    コロナ禍でずっとサウナ自粛してるから自宅での半身浴が増えた。
    スマホと、500ミリのペットボトル2本持ち込んで2時間くらいねばる。
    来月か再来月あたりに行きたい温泉旅行の計画を練り練りするはずが、いつのまにかブログ書いてた。
    ふだんは湯船に浸かってると集中できないんだけど、なんか、きょうは書けた。
    入浴剤買ってくるの忘れたから化粧水と乳液入れてローション風呂にしてみた。
    スキンケアをイハダからハーバーに切り替えたかったからちょうどよかった。
    ハーバーのスクワランオイル、ベタベタしないのにカサカサしなくていい感じ。
    寝る前は心もとないので頬にだけバームを塗る。
    これで肌調子安定するといいなぁ。
  • 晩ご飯食べながら、何もみたい番組がなかったので、なんとなく録画しといたドラゴンボール超ブロリーをみた。
    毒親と悲しき戦闘マシーンのおはなしだった。
    ブロリーこんなんやったっけ…… わたしの知ってるドラゴンボールじゃない…ぞ……?
    と思ったらリブート作品なんですね。おもしろいですね。
    先日完結したゴールデンカムイでもあらためて感じたんですが、わたしはエンタメでは楽しくて幸せな気持ちになりたい。
    ので、いろいろあったけど、細かいことも気になるっちゃ気になるけど「めでたしめでたし、チャンチャン!!」ってやられたら「よかったね!!」って思えちゃう。単純にも。
    杉元佐一よかったね。自分を好きになれて。帰る故郷ができて。
    ブロリーよかったね。……いうほどよかったか?
    まああのフリーザ軍の二人とたまにくる悟空がおったら情緒も育っていくやろ。たぶん。
  • 早いけど布団に入る。
    今度こそ温泉旅行の計画練り練りするぞ、と意気込んでたら寝落ち。
    寝落ちしてもあしたの心配ないって最高。
    2日目へつづく。

手紙だけは手書きで

2022年の手帳、昨年末に買ったはいいが白紙のまま一年の三分の一がすぎようとしている。
それだけ無気力になってたってことだ。
手で書かなくても文章は書けるし記録はできると気がついた。というより納得がいった。
自分の書く文字にどうしても愛着を抱けなくて、筆記用具で文字を書くことを好きになれなかった。
万年筆やインクを美しいと感じ、大好きと愛でながら、自分が使ってもかれらの美しさを引き出せない気後れがつのっていった。
わたしは、かれらとは、つりあわない。
道具は愛している。でも自分の文字が愛せない。
もしかして、無理することはないのかな。
だからもういいのかなと、なんとなく心が決まっていった。
今はアプリでだいたいのことは管理している。
もともと予定も友だちも少ないから、実のところそんなに書くことはなかった。白紙のほうが多い。
会社カレンダーの休日、お金の引き落とし日、家族・家庭にかかわる予定。
競馬の開催日と重賞カレンダー、障害レースの日程。
応援している厩舎の競走馬の、その週の着順。通算成績。
いわゆるファンレターを出した日。
投函した日にはすぐわかるように付箋を貼っていた。ざっくりとメモを添えて。
いつ何のレースのどの馬の写真を贈って、何通目になるのか。
付箋が貼ってあるページは昨年の10月末で最後になっていた。
競馬場へ行けなかったし、ひとになにかを伝えられる気持ちにはなれなかった。
あまりにも心がとっちらかっていて、すべてのことに恥ずかしかった。
ましてや敬愛する人馬に対しては。
だから半年ものあいだ、わたしの時は止まっていた。
手帳を見返してあらためて実感したのだった。
半年は、人には短いが、馬には長い。
好きな馬がやりきって引退した。ラストランには立ち合えたけれど、手紙は出せずにいた。
出そう、出さなければ、と思いながら筆をとる勇気が出なかった。元気もなかった。
そんな言い訳を紙面でもしてしまいそうで怖かった。

きょう、やっと、半年間出せなかった手紙を書いた。
先日競馬場へ行ったとき、自然に「書こう」と思えたのだった。
万年筆を持ったら手が震えてゆがんで見られたものじゃなかったので、ふつうのペンにした。
それでも、ひさしぶりに気持ちを伝えようとしている文字は心もとなく震える。
不思議と迷いはなかった。書き出しに時間がかかるかなと長期戦を覚悟していたけれど、書きかたは覚えていた。
手書きじゃなくてタイプで、きれいにととのった文字で届けたほうが想いは伝わるんじゃないかって思わんでもないのだけど、きっと手で書くことに意味があるのだ。わたし自身にとって。
手と脳はつながっている。文字と心はつながっている。
手で書くことで、紙にいのちを吹き込んでいく。
とんでもなく重い念なのかもしれない。
実際、重たくてごめんなさいと思いながら書いてたりする。
想いが念なのならば、なにかが少しでも伝わればそれでいい。重たければ流してもらえればいい。
ぜんぶ一方通行でいい。
書いた、出したという記憶さえ自分に残れば、届いたとか読まれたとかどう受けとられたかなんて、なにも分からなくてもいい。ぜんぶ受取人に任せることだ。
それでもなにかを伝えたいから書くのだ。手と脳で、文字と心で、わたしの気持ちを紙に託すため。

 

 

いまのわたしの使命

「同志少女よ、敵を撃て」を読むべきなのかずっと迷っていた。
けど「戦争は女の顔をしていない」をもう読んだから、わたしにはその必要はないかなって、やっと納得できた。
ノンフィクションを読んだあとで、実在した戦争を物語として消費してしまうのに罪悪感があった。
(でもそれを言っちゃえば8月15日あたりにやってる2時間ドラマもおんなじなんですけどね。最近それすらあんまりやらなくなったけど…)
ずばりいうと、たぶん得意な作風じゃないだろうなとわかっていたので。
そういう意味でも心が消耗することはわかっていたから。
百合は苦手なんです。物語上必要な要素だとわかっていても。フィクションならなおのこと。
それは要ったのかなぁってどうしても考えてしまう。

「戦争は女の顔をしていない」は原作も漫画も両方読んだ。
夜眠れなくなって、吐き気がして、悲しくてしんどくて、隙あらばあの戦争と戦後とロシアの女の子たちのことを考えてしまって、「なんで読んでしまったんだろう」「もう読む前の心には戻れない」と後悔すらしたんだけど、きっとわたしには必要だったのだ。
昔から、しんどいとわかっていても、戦争の本を読んでしまう。ドラマを観てしまう。
わたしこそ戦争を物語として消費してるんじゃないかと、ウクライナとロシアの件が始まってしまってからずっと自問自答していた。
でも違う。
確信できた。
こんなの、物語みたいに楽しめるわけがない。
それができたら本ひとつでこんなにしんどくなるわけがない。
「戦争は嫌だ」と知るために、思うために、わたしは読んでいる。
知らなければ嫌だと思えない。
嫌だと思えなければ、いつかおとずれるかもしれない何かの局面で「まあいいや、関係ない、どうでもいい」と流されてしまうかもしれない。
だから知ることも思うことも止められない。生きていくかぎりは。

こういう話をできるから、ブログが好き。
ツイッターではかなり重たくなるし、家族でもやっぱり軽くはならないから。
ひと月くらい前に「戦争のことで心がしんどいのです」と打ち明けたら、「そんなに悩んでしんどいのなら現地へ行って炊き出しでもすればいい」って言われちゃったので。
ああ、家でも、家族でもこんな話はできないんだなと衝撃を受けてしまった。
まあ相手もイライラしてたのかもしれない。わたしの心を軽くするためにあえてそう言ってくれたのかもしれない。
悪気がないのはわかっていたからこそ価値観の違いでぶん殴られたようなショックがあった。
身を挺した支援はできないし、いま何をするのが正しいのかもわからなくて悩んでいたから、「そんなこと言って、ほんとに行くって決めたらどうするの。ぜったい止めるくせに」「そんなことに深刻になってって、馬鹿にしてるんでしょ」って、どうしようもなく悲しくなった。分かちあえないことが。
反論する気にもなれなくて飲み込んだけど、飲み込んだまま、言われた言葉はずっと心の底で重たくなっている。一生忘れられないと思う。
支援についてはまだ悩んでいる。
コロナ濃厚接触者騒動やらでわたし自身の生活も一時的に苦しくなってしまったので。
なにか腑に落ちるやり方でできたらいいのだけどって、ずっと考え中だ。
今はリアルタイムの情報を得るのにネットは使わないようにしている。
結局、何が嘘で真実なのかわからないし、感情ばかりが先行してしまっている状態だから。目と耳で得られる以上のものは求めない。
人ひとりには、できることはものすごく限られているから。
心と体が壊れないように、真実を知り、思い考え感じつづける。それがいまのわたしの使命かな。

 

 

 

あたらしいわたしになっていく

競馬場へ行くときは、好きな服着てフルメイクしていく。ピアスもする。
わたしにとって楽しい場所だから。
好きな人馬や、同じものを好きな人たちと会う場所だから。

この日はすっぴんだった。普段着だった。
パーカーにパンツにスニーカー、くたびれたリュックを背負って。
顔と首と手の甲に日焼け止めを塗ってきただけ。
せめて眉だけでも描いてくるべきだったか。
いや、眉描くくらいならぜんぶやる。
まあいいか、マスクしてるから。
四十路女が着の身着のまま電車に乗ってやってきた。阪神競馬場へ。
顔見知りの人にばったり出くわしませんように。

このときのウキウキした気持ちはどこへ行った。
直前になって、心と体がものすごく重たくなったのだった。
行きたいから行く、それだけのことがどうしてこんなに難しくなったのか。
大阪メトロと阪急電車を乗りついで片道一時間以上。ひと仕事だ。
往路で少し乗り物酔いをした。こんなんでメインと最終、体と心はもつだろうか。ちゃんと写真を撮れるだろうか。
それは杞憂だった。
雨が降っていたから一眼レフは置いてきた。コンデジにして正解だった。
パーカーのフードをかぶって雨をしのげたから、普段着で正解だった。
パドックでシャッターを切りながら、本馬場でレースを観戦しながら、現金にも「来てよかった」と納得している自分がいた。
10歳になったベステンダンクが逃げて場内を大きくわかせたあと、その余韻もさめやらぬうちに最終レースのパドックへ引き返す。次は寮馬サウンドサンビームの出番だ。
誰にも会う約束をしていなかったから、わたしは泣いていた。歩きながら、写真を撮りながら。
フードと眼鏡が顔を隠してくれていてよかった。すっぴんで来てよかった。ひとりでよかった。
サウンドサンビームも低評価をくつがえす好走をした。
応援馬券を払い戻しながら、わたしはまた「来てよかった」と心の中でうなずいた。

 

阪急三番街上島珈琲店に立ち寄って、お茶をしながら、撮れたての写真を整理した。
阪神開催のときはだいたいここへ寄り道する。
この店の季節限定コーヒーを飲むのが楽しみのひとつなのだ。
いつものルーティーンがよみがえってくる。
競馬場へ行って、応援をして、写真を撮って、お茶して帰ってくる。
これでわたしの日常は戻ってきただろうか。
いや、まだまだ。
わたしはとても充実していた。へとへとに疲れてもいた。たった2レース滞在しただけだったのに。
体と心の体力が衰えていた。
だからこれからまたやりなおすのだ。
怪我や病気をしたのとおんなじ、スポーツやメンタルのリハビリとおんなじ。
でもリハビリをしてももう、もとのわたしには戻れないだろう。
前向きで元気でやる気のある、好きなものにはどこまでもまっすぐな、もとのわたしには。
それは悲しいことでも、残念なことでもない。
あたらしいこれからのわたしになっていくだけだから。
人は年をとる。生きかたも考えかたも変わる。感じかたも。
好きなものとの向き合いかたも、やっぱり変わっていくのだ。
心と体が根をあげないように、好きなものを好きでいられるように、わたしは何度でも変わっていこう。

ありがとう

彼が走ると知ったから、競馬場へ行こうと思えた。
古いつきあいの友だちに会いに行くように。
ベステンダンク、10歳春の挑戦。三度目のマイラーズカップ
くしくも先日、オジュウチョウサンが11歳にして中山グランドジャンプを制したところ。 
障害レースを経験した彼もまだやれると思えた。
勇気をもらったというやつだ。
力が衰える理由は年齢だけじゃない。
無事を願うけれど、勝負だからそれだけじゃない。
体が元気だから現役をつづける。充分すごいことだけど、これは競馬だから、参加じゃなくて参戦。
逃げたら戦える。逃げられたら…

彼は逃げた。絶妙なリードをとって逃げ粘った。
完璧な逃げだった。
ああ、ほんとうに逃げ切ってしまう。
競馬ってどきどき、こんなことがほんとうに起こるのだ。
奇跡じゃない。地力だ。実力だ。
ゴールは目の前。
もうちょっと、もうちょっと、もうちょっと!
祈っている数秒のうちに後続の馬がものすごい末脚で追い込んできた。

重賞制覇ならず。目前にまで迫っていた夢はやぶれた。
3着にも惜しくも及ばず。14番人気4着。
馬券は買う。でもお金だけじゃない。
ひとつでも上の着順を。でも数字だけじゃない。
すごいものを見た。震えが止まらなかった。気がついたら涙ぐんでいた。
わたしの古いつきあいの友だちはヒーローで歴戦の勇士。なんてかっこいいんだろう。

いつのまにか、夢よりも現実ばかりが目に耳に入るようになってしまった。
わたしが抱くのは愛で、いつしか情熱ではなくなっていた。
ままならない日常にのまれて競馬からは心も体も遠ざかってしまった。
もうだめだ、体が動かない。心が弾まない。
もう立ちあがれない、元気も勇気もわいてこない。
夢も生きがいも楽しいことも、なにもなくなってしまう。
そんなとき、いつも人馬ががんばってくれる。こういうレースを見せてくれる。
まるで奇跡のようなタイミングで、これはぜんぜん奇跡じゃないのだと言ってくれる。
そのたびに思いなおす。
わたしが応援してるんじゃない。わたしが応援されてるんだ。
だからわたしは、また競馬場で立っているんだと。

ベステンダンク、ありがとう。