うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

いまのわたしの使命

「同志少女よ、敵を撃て」を読むべきなのかずっと迷っていた。
けど「戦争は女の顔をしていない」をもう読んだから、わたしにはその必要はないかなって、やっと納得できた。
ノンフィクションを読んだあとで、実在した戦争を物語として消費してしまうのに罪悪感があった。
(でもそれを言っちゃえば8月15日あたりにやってる2時間ドラマもおんなじなんですけどね。最近それすらあんまりやらなくなったけど…)
ずばりいうと、たぶん得意な作風じゃないだろうなとわかっていたので。
そういう意味でも心が消耗することはわかっていたから。
百合は苦手なんです。物語上必要な要素だとわかっていても。フィクションならなおのこと。
それは要ったのかなぁってどうしても考えてしまう。

「戦争は女の顔をしていない」は原作も漫画も両方読んだ。
夜眠れなくなって、吐き気がして、悲しくてしんどくて、隙あらばあの戦争と戦後とロシアの女の子たちのことを考えてしまって、「なんで読んでしまったんだろう」「もう読む前の心には戻れない」と後悔すらしたんだけど、きっとわたしには必要だったのだ。
昔から、しんどいとわかっていても、戦争の本を読んでしまう。ドラマを観てしまう。
わたしこそ戦争を物語として消費してるんじゃないかと、ウクライナとロシアの件が始まってしまってからずっと自問自答していた。
でも違う。
確信できた。
こんなの、物語みたいに楽しめるわけがない。
それができたら本ひとつでこんなにしんどくなるわけがない。
「戦争は嫌だ」と知るために、思うために、わたしは読んでいる。
知らなければ嫌だと思えない。
嫌だと思えなければ、いつかおとずれるかもしれない何かの局面で「まあいいや、関係ない、どうでもいい」と流されてしまうかもしれない。
だから知ることも思うことも止められない。生きていくかぎりは。

こういう話をできるから、ブログが好き。
ツイッターではかなり重たくなるし、家族でもやっぱり軽くはならないから。
ひと月くらい前に「戦争のことで心がしんどいのです」と打ち明けたら、「そんなに悩んでしんどいのなら現地へ行って炊き出しでもすればいい」って言われちゃったので。
ああ、家でも、家族でもこんな話はできないんだなと衝撃を受けてしまった。
まあ相手もイライラしてたのかもしれない。わたしの心を軽くするためにあえてそう言ってくれたのかもしれない。
悪気がないのはわかっていたからこそ価値観の違いでぶん殴られたようなショックがあった。
身を挺した支援はできないし、いま何をするのが正しいのかもわからなくて悩んでいたから、「そんなこと言って、ほんとに行くって決めたらどうするの。ぜったい止めるくせに」「そんなことに深刻になってって、馬鹿にしてるんでしょ」って、どうしようもなく悲しくなった。分かちあえないことが。
反論する気にもなれなくて飲み込んだけど、飲み込んだまま、言われた言葉はずっと心の底で重たくなっている。一生忘れられないと思う。
支援についてはまだ悩んでいる。
コロナ濃厚接触者騒動やらでわたし自身の生活も一時的に苦しくなってしまったので。
なにか腑に落ちるやり方でできたらいいのだけどって、ずっと考え中だ。
今はリアルタイムの情報を得るのにネットは使わないようにしている。
結局、何が嘘で真実なのかわからないし、感情ばかりが先行してしまっている状態だから。目と耳で得られる以上のものは求めない。
人ひとりには、できることはものすごく限られているから。
心と体が壊れないように、真実を知り、思い考え感じつづける。それがいまのわたしの使命かな。