うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

手紙だけは手書きで

2022年の手帳、昨年末に買ったはいいが白紙のまま一年の三分の一がすぎようとしている。
それだけ無気力になってたってことだ。
手で書かなくても文章は書けるし記録はできると気がついた。というより納得がいった。
自分の書く文字にどうしても愛着を抱けなくて、筆記用具で文字を書くことを好きになれなかった。
万年筆やインクを美しいと感じ、大好きと愛でながら、自分が使ってもかれらの美しさを引き出せない気後れがつのっていった。
わたしは、かれらとは、つりあわない。
道具は愛している。でも自分の文字が愛せない。
もしかして、無理することはないのかな。
だからもういいのかなと、なんとなく心が決まっていった。
今はアプリでだいたいのことは管理している。
もともと予定も友だちも少ないから、実のところそんなに書くことはなかった。白紙のほうが多い。
会社カレンダーの休日、お金の引き落とし日、家族・家庭にかかわる予定。
競馬の開催日と重賞カレンダー、障害レースの日程。
応援している厩舎の競走馬の、その週の着順。通算成績。
いわゆるファンレターを出した日。
投函した日にはすぐわかるように付箋を貼っていた。ざっくりとメモを添えて。
いつ何のレースのどの馬の写真を贈って、何通目になるのか。
付箋が貼ってあるページは昨年の10月末で最後になっていた。
競馬場へ行けなかったし、ひとになにかを伝えられる気持ちにはなれなかった。
あまりにも心がとっちらかっていて、すべてのことに恥ずかしかった。
ましてや敬愛する人馬に対しては。
だから半年ものあいだ、わたしの時は止まっていた。
手帳を見返してあらためて実感したのだった。
半年は、人には短いが、馬には長い。
好きな馬がやりきって引退した。ラストランには立ち合えたけれど、手紙は出せずにいた。
出そう、出さなければ、と思いながら筆をとる勇気が出なかった。元気もなかった。
そんな言い訳を紙面でもしてしまいそうで怖かった。

きょう、やっと、半年間出せなかった手紙を書いた。
先日競馬場へ行ったとき、自然に「書こう」と思えたのだった。
万年筆を持ったら手が震えてゆがんで見られたものじゃなかったので、ふつうのペンにした。
それでも、ひさしぶりに気持ちを伝えようとしている文字は心もとなく震える。
不思議と迷いはなかった。書き出しに時間がかかるかなと長期戦を覚悟していたけれど、書きかたは覚えていた。
手書きじゃなくてタイプで、きれいにととのった文字で届けたほうが想いは伝わるんじゃないかって思わんでもないのだけど、きっと手で書くことに意味があるのだ。わたし自身にとって。
手と脳はつながっている。文字と心はつながっている。
手で書くことで、紙にいのちを吹き込んでいく。
とんでもなく重い念なのかもしれない。
実際、重たくてごめんなさいと思いながら書いてたりする。
想いが念なのならば、なにかが少しでも伝わればそれでいい。重たければ流してもらえればいい。
ぜんぶ一方通行でいい。
書いた、出したという記憶さえ自分に残れば、届いたとか読まれたとかどう受けとられたかなんて、なにも分からなくてもいい。ぜんぶ受取人に任せることだ。
それでもなにかを伝えたいから書くのだ。手と脳で、文字と心で、わたしの気持ちを紙に託すため。