うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

あたらしいわたしになっていく

競馬場へ行くときは、好きな服着てフルメイクしていく。ピアスもする。
わたしにとって楽しい場所だから。
好きな人馬や、同じものを好きな人たちと会う場所だから。

この日はすっぴんだった。普段着だった。
パーカーにパンツにスニーカー、くたびれたリュックを背負って。
顔と首と手の甲に日焼け止めを塗ってきただけ。
せめて眉だけでも描いてくるべきだったか。
いや、眉描くくらいならぜんぶやる。
まあいいか、マスクしてるから。
四十路女が着の身着のまま電車に乗ってやってきた。阪神競馬場へ。
顔見知りの人にばったり出くわしませんように。

このときのウキウキした気持ちはどこへ行った。
直前になって、心と体がものすごく重たくなったのだった。
行きたいから行く、それだけのことがどうしてこんなに難しくなったのか。
大阪メトロと阪急電車を乗りついで片道一時間以上。ひと仕事だ。
往路で少し乗り物酔いをした。こんなんでメインと最終、体と心はもつだろうか。ちゃんと写真を撮れるだろうか。
それは杞憂だった。
雨が降っていたから一眼レフは置いてきた。コンデジにして正解だった。
パーカーのフードをかぶって雨をしのげたから、普段着で正解だった。
パドックでシャッターを切りながら、本馬場でレースを観戦しながら、現金にも「来てよかった」と納得している自分がいた。
10歳になったベステンダンクが逃げて場内を大きくわかせたあと、その余韻もさめやらぬうちに最終レースのパドックへ引き返す。次は寮馬サウンドサンビームの出番だ。
誰にも会う約束をしていなかったから、わたしは泣いていた。歩きながら、写真を撮りながら。
フードと眼鏡が顔を隠してくれていてよかった。すっぴんで来てよかった。ひとりでよかった。
サウンドサンビームも低評価をくつがえす好走をした。
応援馬券を払い戻しながら、わたしはまた「来てよかった」と心の中でうなずいた。

 

阪急三番街上島珈琲店に立ち寄って、お茶をしながら、撮れたての写真を整理した。
阪神開催のときはだいたいここへ寄り道する。
この店の季節限定コーヒーを飲むのが楽しみのひとつなのだ。
いつものルーティーンがよみがえってくる。
競馬場へ行って、応援をして、写真を撮って、お茶して帰ってくる。
これでわたしの日常は戻ってきただろうか。
いや、まだまだ。
わたしはとても充実していた。へとへとに疲れてもいた。たった2レース滞在しただけだったのに。
体と心の体力が衰えていた。
だからこれからまたやりなおすのだ。
怪我や病気をしたのとおんなじ、スポーツやメンタルのリハビリとおんなじ。
でもリハビリをしてももう、もとのわたしには戻れないだろう。
前向きで元気でやる気のある、好きなものにはどこまでもまっすぐな、もとのわたしには。
それは悲しいことでも、残念なことでもない。
あたらしいこれからのわたしになっていくだけだから。
人は年をとる。生きかたも考えかたも変わる。感じかたも。
好きなものとの向き合いかたも、やっぱり変わっていくのだ。
心と体が根をあげないように、好きなものを好きでいられるように、わたしは何度でも変わっていこう。

ありがとう

彼が走ると知ったから、競馬場へ行こうと思えた。
古いつきあいの友だちに会いに行くように。
ベステンダンク、10歳春の挑戦。三度目のマイラーズカップ
くしくも先日、オジュウチョウサンが11歳にして中山グランドジャンプを制したところ。 
障害レースを経験した彼もまだやれると思えた。
勇気をもらったというやつだ。
力が衰える理由は年齢だけじゃない。
無事を願うけれど、勝負だからそれだけじゃない。
体が元気だから現役をつづける。充分すごいことだけど、これは競馬だから、参加じゃなくて参戦。
逃げたら戦える。逃げられたら…

彼は逃げた。絶妙なリードをとって逃げ粘った。
完璧な逃げだった。
ああ、ほんとうに逃げ切ってしまう。
競馬ってどきどき、こんなことがほんとうに起こるのだ。
奇跡じゃない。地力だ。実力だ。
ゴールは目の前。
もうちょっと、もうちょっと、もうちょっと!
祈っている数秒のうちに後続の馬がものすごい末脚で追い込んできた。

重賞制覇ならず。目前にまで迫っていた夢はやぶれた。
3着にも惜しくも及ばず。14番人気4着。
馬券は買う。でもお金だけじゃない。
ひとつでも上の着順を。でも数字だけじゃない。
すごいものを見た。震えが止まらなかった。気がついたら涙ぐんでいた。
わたしの古いつきあいの友だちはヒーローで歴戦の勇士。なんてかっこいいんだろう。

いつのまにか、夢よりも現実ばかりが目に耳に入るようになってしまった。
わたしが抱くのは愛で、いつしか情熱ではなくなっていた。
ままならない日常にのまれて競馬からは心も体も遠ざかってしまった。
もうだめだ、体が動かない。心が弾まない。
もう立ちあがれない、元気も勇気もわいてこない。
夢も生きがいも楽しいことも、なにもなくなってしまう。
そんなとき、いつも人馬ががんばってくれる。こういうレースを見せてくれる。
まるで奇跡のようなタイミングで、これはぜんぜん奇跡じゃないのだと言ってくれる。
そのたびに思いなおす。
わたしが応援してるんじゃない。わたしが応援されてるんだ。
だからわたしは、また競馬場で立っているんだと。

ベステンダンク、ありがとう。

 

 

女三の宮とジナイーダ、似ている

源氏物語の女三の宮と、はつ恋(ツルゲーネフ著)のジナイーダ。
けっこう共通項が多いことに気がついた。遅いよ。
まあ、物語にはよくある設定のキャラクターではある。
性格ぜんぜん違うのに、なんでこんなにジナイーダをおもしれー女と感じるんだろうと思ったら、そういうことか。腑に落ちた。
源氏物語は女三の宮らへんの話が好きなんですよね。
古典読んでたらいつのまにか現代小説になってた! みたいな驚きがあって。
禁断の恋への創作意欲は万国共通で、普遍的なテーマなのか。
女三の宮もジナイーダもいいファム・ファタール

後ろ盾である片親をうしなっている(母・藤壺(源氏)女御/父・ザセーキン公爵)
やんごとない生まれ(今上帝の妹宮/農奴時代の公爵令嬢)
立派な男たちに求愛されている(宮仕えする貴公子たち/伯爵、軍人、医者、詩人)
間男の存在(若い男/おじさま)
主人公を袖にして不倫(紫の上を押しのけて光源氏正室になったが柏木に忍んでこられる/年下のウラジーミルをはべらしていたが彼の父に惹かれる)
罪の意識にはちゃんと駆られている(柏木のこと殿にバレたこわい別れたい尼になりたい/ウラジーミルの好意を知っていて彼に申し訳なく思っている)
不義の子(薫を身ごもる/文脈から、最後の鞭の別れのあとジナイーダは妊娠したと思われる)
間男が死ぬ(罪の意識から鬱になって衰弱死/脳溢血でいきなり倒れる。四十路の若さで)
若くして俗世を離れる(薫を産んだあと髪をおろして出家/お産がもとで他界)
主人公の生涯のトラウマになる(晩年の光源氏は妻の裏切りに心を病む/他界した父の年頃になってもウラジーミルは独身)


つぎに間男、柏木衛門督とピョートル・ワシーリエヴィチ。
柏木は光源氏にとっては親友の息子で、特別に目をかけていた将来有望な若者。ピョートルはウラジーミルの敬愛する父親だ。
若い男とおじさま。一見あべこべ。
どっちも強引に女を奪った男なのだけど、相手へのラブコールが見えてるぶんピョートルより柏木のほうがまだ理解できる気はする。
いや、柏木のも愛かな…… 愛なのかなぁ?
かわいそうな姫宮さまの身分と境遇に萌えたんやろ? と思えなくもない。
ピョートルも財産目当てに愛のない結婚をしたからおそらく真実の愛を探してたんだろうと思えばあわれとは言える。……言えるかなぁ?
ジナイーダを愛したからというよりは、息子が恋した隣家の美しい娘に手をつけて、自分が求める運命の女かどうか品定めしたという印象をうけた。
はじまりはガールハント。彼ほどの手練れともなればお菓子をつまみ食いするノリで女の子をモノにできるのだ。純真無垢な息子とは正反対である。
もっとも愛情は関係性によってかたちを変えるものだし、別れ際に激高して鞭で打つ、手紙をもらって泣くくらいには想いと執着があったのだろうけど。
愛かどうかはわからない。遺言書で幸とも毒とも書いているし。
ジナイーダの愛が重かったともとれる。手を出しといて身勝手な。
ふたりの間男も似たもの同士である。どっちもよその女に懸想して妻をないがしろにしているし。
妻サイドなら、女二の宮のほうがよりかわいそう。女二の宮とは、女三の宮の異母姉にあたるひと(落葉の宮とも呼ばれる)。
柏木亡きあと落葉の宮がほぼ無理やり夕霧の妻にされた経緯もめちゃくちゃ胸糞なんだ。
なぜなら柏木と夕霧は幼い頃からの親友同士だから。
スキャンダルになったら誰が叩かれると思ってんねん、女のほうやぞって言いたくなる。
一方ピョートルはジナイーダとの密会がバレて口論になったとき、年上の妻をババア呼ばわりした(たぶん)。どっちもほんとうにひどい。
いちおう夫婦仲は夜を徹した話し合いで修復はしたが、もちろんそういう問題じゃない。

そして最後に主人公。
光源氏とウラジーミルは一見まるで正反対。しかし恋多き美丈夫として書かれているピョートルの息子なのでそれなりに容姿端麗なのだろう。ただ自覚がないのと幼いだけで。
ジナイーダの死によってはつ恋をうしなったあと、彼はおそらく次の恋をしていく。
ウラジーミルのモデルともいえる著者のツルゲーネフ自身も恋多き男だったというし(庶民に産ませた娘もいる)。
ただ恋愛はしたけど結婚はしなかった。う~ん。
光源氏は結婚しまくって好き勝手に生きて死んだ。幸せだったかどうかといわれれば微妙である。晩年の弱りっぷりを見れば。
自分以上に周りを不幸にしまくった印象のほうが強い。
恋とはいったい。……恋なのかなぁ?

そもそも女三の宮もジナイーダも、はじめは間男との恋愛を自ら望んでいなかった(!)ところにものすごい引っかかりをおぼえるのだ。
男の衝動に翻弄される女。
翻弄されながらも受け入れて、愛に昇華させ生きていく強さ。
この想像の余地を残した余白こそが、彼女たちをおもしれー女たらしめているのかもしれない。
はじめての恋と情熱と絶望に触れ、大人の女性へと成長していく描写は、どちらもはっとするほどに美しく、そして壮絶だった。

 

satoe1981.hatenablog.com

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絵本も読みました

美しい大人の絵本でした。
抽象的な世界観で自由にはつ恋を描くとこうなるのか~。
小川洋子氏の文と解釈はかなり好き。断言せず、行間を読ませる文章。

 

髪ごめん、リンスやっぱりいるわ

お風呂が好きだ。
でも頭洗うのは苦手だ。
それで、というわけじゃないけどここ最近けっこう思いきったベリーショートにしている。
サイドは耳に髪がかかるかかからないかくらい。髪の量も軽く梳いてもらって。
短い髪、とっても気に入っている。
頭洗うのの何が苦手って、コンディショナーが好きでない。
いくらすすいでもぬるぬるした感じがして気持ちよくない。
これほんとにいるのかなぁ? 最近のシャンプー&トリートメントやたら高いし。
というわけでオールインワンシャンプーを半年くらい試してみた。
いまはそう呼ぶんですね。ふた昔くらい前にリンスインシャンプーって名前で流行ったんですけど。

 

まあまあよかった記憶。きしまずべたつかず。
しかし、いいお値段。一本化によるコストダウンにはあんまりならなかった。

 

 

こちらもおおむね同じ感じ。オールインワンシャンプーは多機能ゆえ高い、おぼえた。

 

 

これで全身洗えるのか、やったぜ。
ほくそ笑んでたらキシキシ通り越してギッシギシになった。次の日のフケがすごかった。
香りと洗いあがりは気に入ったのでボディソープにしました。

 

 

身近で手に入る、おかあさんとこども向けリンスインシャンプー。しかしわたしにはパサつく。なぜ。


これは…
やっぱりオールインワン生活むりなのでは…?
今まで悩んだことのない髪のことで、なんかしんどい。

 

で、ためしに元の生活に戻ってみることにした。
結論からいいますと一発でサラッサラになりました。
髪ごめん、リンスやっぱりいるわ。わたしには。

ちなみにアウトバスにはモロッカンオイルをほんのり使ってます。エキゾチックないい香り。
もともと決まったシャンプーみたいなのはなくって、ドラッグストアで物色して買うのが好き。だいたい香りで選ぶ。
なんかどんどん高級志向で高くなっていってるけど。
髪洗うのに出せるのは2000円くらいまでだなぁ。それ以上になるとしんどい。
コスメもそんなかんじ。毎日のことだから。
デパコス買うときは清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟いる。
まだまだカウンターと美容部員さんに緊張するから、一部@cosmeで手に入るのはありがたい。
今いちばんほしいのはコスメデコルテのフェイスパウダー。
やっぱりわたしはルースパウダーが好きだ。憧れのお粉、使ってみたい。
シャンプー&トリートメントはクレージュとドロアスが気になっている。

春の陽気に誘われて、外へ

春がきた。
プロ野球が開幕した。
スポーツとエンターテイメントが楽しい。
毎週観てるのは鎌倉殿の13人、ダイの大冒険、暴太郎戦隊ドンブラザーズ。
進撃の巨人はいったん終わって来年まで待機。
漫画はゴールデンカムイの最終回を心待ちにしている。ほんとにあと2回で完結するの!? 単行本で大量加筆!? どうしよう!!
ご飯をおいしく食べながらナイターを観たり、部屋でコーヒー淹れてお菓子食べながら本を読んだりつづきもののアニメを観たりしていると、しおしおになっていた心が栄養を吸ってみずみずしさをとりもどしていくよう。
エンタメの力は偉大なり。

いろんなことが重なってここ一、二年のあいだ半引きこもり状態だ。
仕事にはずっと行っているのだけれど。
これでもかなり快復して「読む、見る、書く、買う、食べる」は楽しめるようになった。
ただ外へ出かけて、自分が何かをすることができなくなったまま。
その最たるものが競馬場へ行って好きな人馬を応援したり、写真を撮って楽しむことだ。
新しい思い出を作りに行けないから、今は思い出の貯金を切り崩しながらかろうじて競馬とつながっている。
正直なところ、趣味としてはもう潮時かもなぁと思っていた。
この世界のいいこともそうでないこともいっぱい見てきた。聞いてきた。わかってきた。
闇や膿のようなものが思いがけず見えてしまったり、聞こえてしまったり、知ってしまったり。
競馬がつづく限りくりかえされる、たくさんの愛する人馬との別れに疲れがたまっていたのもたしか。
もうやめてしまおうか。でも応援対象への愛はぜんぜん変わらない。
大好きな馬、尊敬する人。彼らの無事と最善を祈り願ってやまない。
だから自分はもう動けずとも心の応援をつづけていく、でいいかもなぁと。
先生には芝のG1と障害の重賞をとってほしいし、その瞬間には立ち合いたい。
ダービーを勝ちたい、競馬人としてクラシックは夢だと語っていたので、それもとってほしいし、夢は叶うと心から信じている。
これは愛だ。趣味の域を越えてしまったのかもしれない。
力が出なくなってしまったのは、信じるゆえにただただ楽しいだけではなくなってしまったからでもある。
愛は自他を重たくもするのだ。
心が弱ったわたしは、身動きがとれなくなってしまった。

とはいえ、いつかは外へ出なければ。
自分からなにかをしなければ、わたしはわたしの人生を自分でつまらないものにしてしまう。
ひとまず春の陽気に誘われて、リニューアルオープンした長居植物園に花を愛でに行ってみた。
草と花と土の匂い、風の香り。
木漏れ日、青い空、鳥の声。
季節はうつろい、美しいものたちはすぐそばにあったのに、出向いていけなかったとあらためて実感する。
すがすがしさに満たされつつも、ふとした瞬間にコロナや戦争のことが頭をかすめて、こんなことをしていてもいいのかという思いがよぎる。
震災のときもそうだった。なんて心が弱いんだろう。
心が弱いくせに、たくさんとりこんで、感じすぎてしまう。
痛みを感じることは必要だけれど、切り離さなければならない領域というのは間違いなくある。
まずは自分自身が健康に生きていくために。
名前のつく病気というのは、病院に通ったり、薬を飲んだり、お医者さんを頼らねばならない状態を指すのだと思うけれど、こうして前の気持ちと暮らしに戻れないでいることもある意味病気だとは思う。
この無名の病気は幸いにも自分でなんとかできそうなので、少しずつリハビリをしていこうと決めた。
今日は公園で花の写真が撮れたから、来週はいよいよ競馬場へ行こう。もちろんカメラを持って。
まだまだこんなご時世だから、入場券がとれたらになるけれど。

 

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