うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

戻ろう。知らない、見ない、つながらない自由に

ツイッターでなぐさめてもらおうとしてて、もうだめだと思った。
フォロワーはわたしのカウンセラーじゃない。
お互いに責任を負わないオンライン心の友なだけの、ゆるくつながってるだけにすぎない人たちに自分の気持ちをどうにかしてもらおうと思う時点でもう依存なんだわ。
誰かわかって。話を訊いて。ブログを読んで。ツイートを見て。
ずっとこんな気持ちでいることに気づいて、もうやめようと思った。むなしい。
今朝、寝起きの頭でサクッとアカウントを消した。むなしさよ、さようなら。
わたしがずっとブログを書いてるのは知ってる人は知ってるし、読む人は読むだろうし、ツイッターのアカウントが消えたことでつながりがなくなるのなら、それだけの関係性だったってことだろう。

たぶん、ひと月経つ前にログインはするだろう。アカウントを温存するために。
つながってた人たちのことは大好きだし、寄り添ってくれる人もいたし、大事な場所だった。惜しいものは惜しい。
それならべつに消さなくたっていいんだけど、あったらぜったい見ちゃうしつぶやいちゃうし。
心が健康でない今は、ない方がいい。物理的に。

つづけられるならつづけたいとは思う。
競馬や野球や自転車のこぼれ話だって知りたいし。
でも好きな選手やチームが好き勝手言われたり、しょうもない誹謗中傷をされたり、メディアやファンを騙る無礼者たちに面白おかしくネタにされてるのをうっかり知ってしまうのはたまらなく嫌だった。
言葉の力が強すぎる。
そのくせ言葉の使われ方が雑すぎる。安い刃物みたいだ。
ネット特有のそういうノリはもともと笑えなかったし、もう流せなくもなった。目にするのも嫌になった。
嫌なことと余計に鉢合わせしちゃうし、そしたら必要以上に傷つくんだ、SNSって。
知ることも関わることも自由なら、知らないでいることも、見ないでいることも、自由だよなあ。
べつに知らなくたって、ありとあらゆる情報に目を通してなくたって、ファン同士つながっていなくたって、好きでいることも応援することもできるんだし。
要は自分が何をどれだけ見えてて大丈夫なのか。見えてくるものを自分の中でちゃんと処理できるかどうか。
わたしにはすべてが濃くて重くなりすぎてしまった。
歳をとったら大好きだったはずの脂ものも重たくなって前ほど食べられなくなってくるでしょ。そんなかんじ。

あんまり重くなりすぎてしまったから、いったん元の身軽な状態に戻ってみたくなった。
SNSをしていなかった頃の暮らしに。
ニュースはアプリやサイト、テレビで見ればいい。
言いたいことはブログに書けばいい。
自分ひとりでは気持ちの整理がつかないときはそばにいる家族と話せばいいし、友だちとLINEだってできるし、職場の人とも世間話くらいはするだろう。
ずっとそうやってきた。SNSをはじめるまでは。
だけどもう完全に元には戻れないんだろう。SNSに触れる前のわたしには。SNSが生まれる以前の世界には。
SNSは人類に浸透しすぎた。SNSに人間が毒されすぎたともいえる。
わたしもまた、毒されまいとしながらも、やっぱり毒されてしまった。
だけど毒抜きくらいはできるだろう。
その果てにもう戻ってこないもよし、休眠アカウントになるもよし。
すっきりしてまた何事もなかったかのようにつぶやきはじめるもよし。
これを教訓としてもよし、おなじことをくりかえしてもよし。
これからのことはまだわからないけど、今は離れていたいと思った。
とりあえずはその感覚を大事にしたい。