うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

「趣味:競馬」を卒業します

楽しくなくなったら、趣味は終わりだ。
義務と感じたら、楽しい時間は終わりだ。
疑念が生まれたら、終わりのはじまりだ。
それをふまえると、わたしと競馬との幸せな関係はもうとっくに終わりへと向かっていた。
愛ゆえに終わりを引き延ばそうとしていただけで。

いつからだろう。ここ数年のあいだくらいかな。
このスポーツがいのちを扱うこと、それを柵の外からただ見て楽しむことへの矛盾に目をつぶれなくなっていった。
勝敗が余生を決める競技である以上、生まれてきた者は生きるために闘うことを義務づけられるわけだけど、ゆえに人が鞭打つこと、過酷な競争(走)の世界に身を投じることを肯定しなければならない。それこそが競馬なのだから。
そこに切実さや刹那の美を見出してきた時もあったのだけど、その切実さがだんだんと苦しいものになっていってしまった。かつてはこの世界の美しさに救われもしたというのに。
この世界を深く知り、愛するほどに、現実は厳しいものだと思い知らされる。
大半の競走馬とはほどなく別れる。好きになった馬とともに過ごせる時間は短い。
でもそれが競馬だからと深追いはせず、自分の中で踏ん切りをつけて、また新たに出会う競走馬たちと向きあいつづける。
そうしているうちに、だんだんと、愛することがつらくなっていく。
愛することがまちがっているのか? この世界がおかしいのか?
いやちがう。わたし自身が知りすぎて、想いすぎて、背負いすぎて、思い出が増えすぎて。もはやこの矛盾をかかえきれなくなってしまっただけ。苦しみが覚悟を上回ってしまったのだ。

楽しい気持ちでお金を賭けられなくなってしまった。
競馬はギャンブルだ。
仕組みとして受け入れ肯定し、自らも興じることでわたしは競馬の一部になりたかった。
予想して賭けることを楽しめる競馬ファンでいたかったし、微力ながら競馬の世界に貢献もしたかった。
その想いに揺らぎが生まれてしまった。
「願い、信じ、祈る気持ち」というかたちのないものをこの世にあらわすために人は賭ける。信念を具現化する手段として馬券を買う。
だけど、わたしは変わってしまった。
予想を外して馬券で負けたときに、ああもったいなかったな、誰に示すでもない想いをひとりなげうってお金を失うのはきついな、と心の底から思ってしまった。
お金を後悔なく賭けられなくなったら競馬ファンとしては終わり。ずっとそう思ってやってきた。やってこられた。
だから、わたしの幸せで楽しい趣味の時間はそのとき終わってしまったのだろう。
人生が変わった瞬間でもあった。
自分の楽しみを追い求めるのはそろそろ控えめにして、家族やこれからの人生のために時間やお金を使いたい。最近はそんなことばかりを考える。

ウマ娘のある世界を受け入れられなかった。心が拒絶をして、どうしても無理だった。
馬は娘じゃないし、ウマ娘は競馬じゃない。
だけどもう世界が新たな文化と並走している。あることが大前提になっている。
流れてくるものは堰き止められないし、あるものをないことにもできない。
新しい価値観を許容せず、変化を受け入れないまま、古い価値観を引きずりながら今を生きることは難しい。
わたしはもう時代にも若い世代にも歓迎されない年寄りでしかないのだ。
ここが潮時だな、と死期を悟った。

わたしは「趣味:競馬」を卒業する。
好きなものに納得ができずに、心にかげりと疑念をかかえて、まだある愛に依存と執着をしながら、変わりつづける世界にしがみつきつづけることにどれほどの意味があるのか。
今を全力で生きている人馬に、競馬を趣味として楽しんでいる人たちに恥ずかしくて顔向けができない。
苦しさゆえにこんな気持ちを吐露して、ネガティブな感情のシェアをしつづけてしまうのもそろそろ終わりにしなければ。
だから、たぶんこれが最後。
だけど、こうも思うのだ。
昨今、「好き、楽しい、素敵、推しが尊い」みたいなポジティブな発信しか赦されないような空気が世界にやんわりと張りめぐらされている感じがして、悩める者にとっては息苦しい。
やめていく人の気持ちというのもほんとうは同じくらいあるはずなのに、あんまり見当たらないから、わたし自身が心変わりの過程と結末をしっかりと書き残しておこうと。
やめてもいい。つぶやいてもいい。書いてもいい。生きるって、いいことばかりじゃないのだから。
趣味と向きあうとは、こういうことだと思うから。

やめるっていうのは、捨てるってことじゃない。
ただこれまでどおりに関わることをストップして、心の中に思い出として大事に仕舞うだけ。
愛する気持ち自体はなくならない。
ドラクエの転職システムみたいなもんだ。
レベルはもうあがらないけど、いちど覚えた呪文や特技は使えるし、これまでの蓄積は消えない。
愛してきた事実と愛ゆえの経験は自分の中に見えないかたちとして残るし、それらを引き出しにして、見たり話したり触れたりすることもできる。
ただ関わり方が変わるだけ。想いの在り方が変わるだけ。
区切りをつけたあとも、わたしはまた競馬を見たり、競馬場へ行ったり、友だちと競馬の話をしたりするだろう。もちろん好きな人馬は変わりなく好きなままだ。
推しを推す活動をしないと趣味じゃないというのなら卒業ということになるだろう。それでもいい。なんでもいい。
なにか誰かを好きな気持ちなんて、本来はかたちのない、目に見えないものだ。
推さないけど愛してる。それでいいじゃないか。好きで大事だと自分でちゃんとわかっているのなら。

生涯の友として寄り添っていけると確信までした競馬を楽しめなくなった自分自身を、薄情者だとひどく責めていた時期もあった。
かつての情熱を取り戻そうとしてもがいたこともあった。
だけど人間は変わるし、心は偽れない。
愛し方、関わり方を変えることで救われる想いもある。
途中でやめたっていいのだ。リタイアを赦し赦されてもいい。
好きな気持ちは、決まったかたちでなくとも、なにものにもとらわれず自由であるべきなのだから。

 

 

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